第十六話 今日から、私が読みます
「おはようございます。第十八条です」
改札を出たところで、百舌鳥が待っていた。
右手に、水色の表紙の小さいノートを持っている。
「何だ、それ」
「解読ノートです。一晩で解いた本文を、全部、書き写しておきました」
昨夜、電話の向こうで紙をめくる音がしていた。
あれは、これだったのか。
僕のノートは、僕の鞄の中にある。
中身は、彼女の鞄の中にある。
いつのまにか、持ち主が二人になっていた。
「では、読みます」
彼女は、昨夜の怒った声のまま、ノートを開いた。
「第十八条〔登下校ノ隊列〕。我と汝は、並んで歩くべし。歩幅は、汝に合わせる。……我が鐘ヶ淵くんで、汝が私です」
「本当に、そう書いてあるのか」
「確かめますか。読めないのに」
確かめられない。
書いた本人なのに。
僕は、歩幅を半分にした。
彼女の靴が、僕の靴と同じ速さで並ぶ。
「遅いです」
「汝に合わせてるんだ」
「私、そんなに遅くないです」
「じゃあ、どのくらいだ」
「鐘ヶ淵くんが、いつも歩いている速さです」
それは、合わせていないのと同じだ。
そう言う前に、彼女が少しだけ笑った。
昨夜泣いていた人の顔には、見えなかった。
でも、目の下が、ほんの少しだけ赤い。
冷たい水でも、そこまでは消せなかったらしい。
昼休み。
「第二十七条です」
弁当箱を二つ机に置きながら、彼女が言った。
「〔手作リ弁当ノ評価基準〕。汝の作った弁当を、我は残さず食べ、毎回、ひとこと褒めるべし」
「五段階評価じゃなかったのか」
「五段階とは、どこにも書いてありません」
最初の夜に僕が言った「五段階だと思う」は、ただの思いつきだった。
思いつきは、本文に負ける。
「本当に、そう書いてあるのか」
「確かめますか」
「いや、いい」
僕は卵焼きを食べた。
甘い。ちょうどいい甘さだった。
「ひとこと、です」
「食べられる」
「それは、褒めていません」
「第零条だ。褒めるの意味は、書いた者が決める」
「第零条は、意味を決めるだけです。書いてある言葉は、変えられません」
負けた。
理屈で負けたのは、久しぶりだった。
「……うまい」
彼女の箸が、止まった。
止まって、卵焼きを一つ、僕の弁当箱のふたに移した。
「おかわりは、規約の外です」
耳が、赤かった。
後ろの席で、五月雨が机を叩いた。
「そんな規約なんかやめろ! 鐘ヶ淵、私の弁当も褒めろ!」
「五月雨の弁当は、購買のパンだろ」
「パンにも心はある!」
ない。
パンにあるのは、賞味期限だけだ。
放課後。
駅までの道で、三回目が来た。
「第十二条です」
僕の足が、止まった。
〔身体的接触〕。最初の夜から、ずっと読めなかった条文だ。
「我は、汝の許しなく、汝に触れてはならない」
ほっとした。
僕を縛る条文だ。触れなければいい。
「ただし、汝が我の袖を引いた時は、触れてよい」
ほっとしたところが、そのまま崩れた。
彼女は、ノートを閉じた。
そして、僕の左の袖を、指先でつまんで引いた。
昨日、踊り場でつかんで、すぐに離した袖だ。
今日は、離さなかった。
「引きました」
「見れば分かる」
「では、あとは、鐘ヶ淵くんの番です」
触れてよい、と書いてある。
触れなければならない、とは書いていない。
屁理屈は、ちゃんと浮かんだ。
浮かんだのに、口が動かなかった。
本当に、そう書いてあるのか。
聞こうとして、やめた。
代わりに、袖をつまんでいる彼女の指の上から、そっと手を重ねた。
冷たかった。
彼女の肩が、小さく跳ねた。
指が、袖から離れて、僕の指のあいだに入ってきた。
「……第十五条も、あります」
「まだあるのか」
「〔右手ノ封印〕。我の右手には、闇が宿る。ゆえに、汝と手を繋ぐ時は、必ず左手を使う」
「中二の僕は、右手に何を飼ってたんだ」
「なので、今、繋いでいるのは左手です。合っています」
合っていた。
中二の僕が、今になって、僕の左手の使い道を決めていた。
「闇が宿っているのは、右手だけですか」
「知らない。書いた者が、読めないんだ」
「では、左手は、普通の手ですね」
「普通の手だ」
「普通の手で、よかったです」
彼女は、前を向いたまま言った。
耳だけが、まっすぐ赤かった。
駅に着くころには、彼女の手のほうが、僕の手より熱くなっていた。
改札の前で、彼女は手を離した。
離して、自分の手のひらを一度だけ見た。
「今日は、私の全勝です。三つ読んで、三つ勝ちました」
「数えてるのか」
「数えています。これまでの七敗を、取り返すまで」
「それなら、あと四回だ」
「負けません」
言い切ってから、彼女は解読ノートを胸に抱えた。
「それと、金曜日。勉強会をします」
「勉強会?」
「中間試験が、来週なので。鐘ヶ淵くんの家で」
「僕の家だと、同じ部屋になる」
「はい。なので、そのとき、第六十条を読みます」
彼女は、指を一本も立てずに、階段を上がっていった。
上がりきるまで、一度も振り返らなかった。
振り返らなかったのに、耳が赤いのは、うしろからでも見えた。
家に帰って、左手を見た。
普通の手だ。闇も何もない、ただの左手だ。
なのに、手のひらに、彼女の指の冷たさがまだ残っている気がした。
温まったあとの熱さではなく、最初に重ねたときの冷たさのほうが。
洗おうとして、蛇口の前で、やめた。
金曜まで、あと二日ある。
第六十条の本文を、僕はまだ知らない。
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