第十五話 知っていました
二十三時十二分。
スマホは、まだ暗い。
僕は、正座のまま、天井を見た。
初めて、鳴らない夜だった。
鳴らないと、部屋がこんなに広いとは知らなかった。
朝の彼女の顔が、目の裏に残っている。
白かった。どこも、赤くなかった。
蛇ノ目の連絡が、何だったのかは分からない。
分からないが、想像はつく。
あの人は、聞かれたことには答える。
第四十一条。
我と汝は、毎夜二十三時に、声を交わすべし。
書いてあることは、裏切らない。
彼女が鳴らさないなら、僕が鳴らせばいい。
規約の履行だ。
……という理由を、五回ぐらい頭の中で唱えてから、僕は発信を押した。
呼び出し音が、八回鳴った。
九回目の前に、繋がった。
「……はい」
二十三時です、とは言わなかった。
「二十三時だ。もう十四分過ぎてるが」
「知ってます」
小さい声だった。
家族が寝ているからだけではない、と分かった。
雨の音が、電話の向こうでしている。
こっちでも、している。
でも今夜は、同じ雨を聞いているのに、近くなかった。
「傘音から、連絡が来ました」
やっぱり、と思った。
「あの夜、ドリンクバーの前に、鐘ヶ淵くんがいた、と」
「……そうか」
「メロンソーダを、半分残していなくなった、と」
「炭酸が抜けたんだ」
「三分もかけたら、ですよね。傘音も、そう言ってました」
あの人は、同じ冗談を二人に使い回す。
電話の向こうで、息を吸う音がした。
そして、長い間があった。
「聞いても、いいですか」
「ああ」
「傘音には、聞きませんでした。鐘ヶ淵くんに、聞きたいので」
その一言で、決まった。
ここで「いた、とは言わない」と言うのは、簡単だ。
蛇ノ目には、そう言った。
でも、彼女は蛇ノ目に聞かず、僕に聞いている。
「あの夜、私たちの話を、聞いていましたか」
「聞いていた」
電話の向こうで、息が止まった。
「罰ゲームの話も。一週間付き合ったらクリアだ、ということも。百舌鳥さんが、僕に告白する役になったことも。全部」
「……最初から」
「最初から」
彼女は、何も言わなかった。
布団の音も、紙の音もしない。
ただ、雨だけが、こっちにも向こうにも降っている。
「私、一週間、必死でした」
やっと出た声は、ほとんど息だった。
「知ってる」
「嘘をつくときは、耳が赤くなる、と傘音に言われて。毎朝、鏡を見ました」
「……それは、知らなかった」
「赤くならないように、冷たい水で顔を洗いました。今朝も、洗いました」
「……だから、朝、手が震えていたのか」
「見ないでください」
見ていた。全部、見ていた。
「鐘ヶ淵くんは、笑っていたんですか」
「何を」
「私が、一生懸命、嘘をついているのを。知っていて、笑っていたんですか」
「笑ってない」
「即答ですね」
「笑えなかった。心配だった」
「心配」
「嘘が、下手すぎて」
「……下手ですか」
「下手だ。耳が赤くなって、同じ言葉を二回言う」
電話の向こうが、少し静かになった。
「……傘音の言うとおりです」
彼女の声が、ほんの少しだけ、ほどけた。
「なんで、断らなかったんですか」
これは、聞かれると思っていた。
「断ったら、百舌鳥さんは、明日、奥の席の連中に『振られた』と報告することになる。罰ゲームで告白させられて、そのうえ、振られた人になる」
「それは、校則に、書いてありますか」
「書いてない」
「書いてないのに、断らなかったんですか」
「書いてないが、嫌だった」
彼女が、息を吸った。
吸って、止めた。
鼻をすする音がした。
「泣いてるのか」
「泣いてません」
「泣いてるだろ」
「泣いてません。泣いてません」
二回。
嘘の癖だ。
今度は、聞いていて、少しも腹が立たなかった。
「ずるいです」
「何がだ」
「知っていたのに、一週間、何も言わなかったところが」
「言えなかったんだ」
「どうして」
「言ったら、全部、終わるからだ」
言ってから、しまった、と思った。
これは、言うつもりのなかったことだった。
「終わって、ほしくなかったんですか」
「……第九十九条を読んだからだ。書いてあることは、使う」
「逃げましたね」
「逃げてない。解釈だ」
「解釈権は、書いた者にある」
「そうだ」
「では、私からも、一つ」
彼女の声が、いつもの敬語の硬さに戻っていた。
でも、硬さの下に、まだ湿った音が残っている。
「怒っています」
「ああ」
「一週間、私だけが知らなかったことに、怒っています」
「そうだろうな」
「なので、明日から」
紙をめくる音がした。
彼女が、ノートを開いている。
「鐘ヶ淵くんの知らない条文を、全部読みます」
「全部?」
「全部です。九十九条ぶん」
「僕が書いたのに」
「鐘ヶ淵くんは、まだ、読めないので」
言い返せなかった。
解読できたのは、四十一条と、九十九条の二行だけだ。
「それと」
彼女が、声を落とした。
「第九十九条には、三行目があります」
「……読めなかった行か」
「はい。読めなかった行です」
「何て書いてある」
「言いません」
「なんで」
「言ったら、鐘ヶ淵くんが、書けなくなるので」
書けなくなる。
署名の話だ、と分かった。
三行目は、署名に関することだ。それ以上は、分からなかった。
「今夜は、切ります」
「切るのか」
「切りません」
どっちだ。
「怒っていますが、第四十一条があるので、切りません」
「規約に従うのか」
「怒っていても、従います」
彼女は、少しだけ、笑ったようだった。
「私が先に眠ったら、鐘ヶ淵くんの勝ちです。願いは、まだ、持っていますよね」
「持ってる」
「それを、忘れないでください」
どうして、そんなことを言うのか。
聞こうとして、聞けなかった。
時計を見た。
二十三時四十一分。
雨の音が、二か所で、同じ速さになった。
「鐘ヶ淵くん。起きてますか」
「起きてる」
「私もです」
零時までは、まだ、遠かった。
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