67.届かぬ想い
コツコツと、革靴の音が城の廊下に響いた。
その音が近づく度に、メイド達は口元を抑えてクローゼットの奥で身を潜めた。
薄暗い城内、仄かに香る血の匂い、悍ましい空気に混じる狂気。
身体が震え、声が漏れそうになるのを必死に抑え込む。
クローゼットに身を隠すのは王城メイドのマリーとリッタの二人だった。二人は幼い頃から城の使用人見習いとして苦楽を共にした仲間。此度の魔獣襲撃によって駐留の兵士や使用人の殆どは死亡。生き残った少数の人間は散り散りに逃げ惑い、城の中の至る所で身を隠していた。
初めはメイド長とエレーナとビズリーと一緒だった。共に食料庫に身を潜めて魔物共をやり過ごそうとした。しかし、奴に見つかってしまった。
奴は躊躇なくメイド長を斬り殺し、悲鳴をあげて暴れるエレーナの首を刎ね、逃げ惑うビスリーを追いかけ回し、その背中を切り裂いた。
革靴の硬い足音が近づいてくる。
奴が来る。
魔物なんかじゃない。魔物より余程タチが悪い、怪物だ。
奴の狂気に満ちた笑みを思い出すだけで歯がガチガチと震える。
ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。その度に全身に寒気が襲う。身体中の細胞が泣き叫び、暴れ狂っているかのようだ。
「…………っ、」
足音が部屋に入ってきたのがわかった。
息を止め、暴れ回る心臓の鼓動を必死に抑え込む。
「…………、」
足音がクローゼットの前で止まった。
クローゼットの隙間から除く外の様子。見ないように目を瞑るマリー。しかし、数秒たっても何も起こらない。
もしかすれば、奴に気付かれなかったのか。奴はもうどこかへ行ったのか。
そんな願望のような希望的観測が、彼女の瞳をゆっくりと開いた。
目が合った。クローゼットの隙間から、奴の黒い瞳がこっちをジッと見つめていた。
「ひいっ――」
思わず喉から声が漏れるマリー。
クローゼットの扉がゆっくりと開かれた。
「見ーつけた」
そう呟いた奴の狂った瞳が、二人に絶望と恐怖を叩き付けた。
絶叫する二人に、彼は漆黒の刃を突き付けた。
「だまれ」
その重く鋭い言葉が、二人から声を奪った。
「質問に答えれば見逃してやる」
震えて頷くことも出来ない二人。
「質問一、第一王女はどこだ」
「ひっ……し、知らないッ……」
リッタが即答する。
「んじゃ質問二、勇者達はどこにいる」
またリッタが叫んだ。
「し、知らないッ……知らなッ――オごッ!?」
漆黒の剣がリッタの口に捩じ込まれ、喉奥を破壊した。
「ブハハハッ!!」
そいつは悪魔の様に笑う。
痙攣しながら、リッタが絶命する。
それを横目に、マリーはただ絶望に震えた。
「な、なんで…………ちゃんと、答えたのに……」
「ヒヒッ……知ってるか?人間って嘘つきなんだぜ」
口元を吊り上げる男に対し、マリーは凄まじい怒りを憶え、気づいた時には叫んでいた。
「こ……の悪魔めッ……!!絶対に呪ってやるッ!!」
エレーナの顔面に黒剣が容赦なく突き立てられ、その瞳から光が失われた。
彼女の死を見下ろしながら、彼は冷徹な瞳でこう言った。
「……呪ってみろよ」
――
剣を引き摺りながら廊下を歩いた。
引き摺られた刃先がキリキリと音とを立てて、廊下に跡を残していく。
するとそんな折、通りかかった部屋の中から人の気配を感じとった。
「ふっ……そこか」
ユウは小さく笑い、部屋の扉を蹴破った。その奥に身を潜めていたのは、
「…………ぇ」
涙目になって震えている青髪のメイドだった。
腰にまで伸びる空色のロングヘア。スカイブルーの鮮やかな瞳は、涙で光を歪めていた。
お互いがお互いの顔を見つめ合い数秒後、彼女がゆっくりと立ち上がった。
信じられないものを見たって顔で身を震わせ、子鹿の様な足取りでゆっくりと近づいてきた。
「あぁ……そんな……これは夢でしょうか」
彼女の瞳から止めどなく涙が溢れてくる。その涙は恐怖によるものでは無かった。
ソフィア・フランデール。ユウがまだ城内で勇者として訓練を受けていた頃、専属使用人として彼に仕えていたメイドだ。
「ユ、ユウ様…………ユウ様ぁ……!!」
物凄い勢いでソフィアが飛び付いてきた。その顔面を、
「ふぎゅっ――!?」
ユウは掌で押し返した。
それでも抱きつこうと必死に手をブンブンと振るソフィア。
「にゅ、にゅうさまっ!いびでおいでだったにょでしゅねぇっ!!」
そのマヌケで必死な彼女に対して、ユウは思わず顔を引き攣らせた。
「く、くっついてくんじゃねぇ……!」
「ふぇっ!?す、さすすすすみませっ――あ、いひゃあっ!?」
咄嗟の自分の行動を理解したソフィアが、顔を赤くして飛び退いたその先で、すっ転んだ。
そのなんとも言えないドジっぷりに、ユウは呆れて何も言えなかった。
――こいつ生きてやがったのか…………しかし相変わらず調子の狂うやつだなマジで。チッ……あほくせえ。
ユウは彼女に対して背を向け、部屋を出た。
主塔には第一王女達はいなかった。続いて東塔を捜索するため、ユウは中庭へ出た。
「それにしてもまさかユウ様がご健在でいらしたとは…………うぅっ……ソフィアは心より嬉しく思っておりますぅ……」
中庭の芝生を踏みしめながら、ユウの背後から彼女の声が鳴り続ける。
「はっ、今は再会を喜んでいる場合ではありませんね。ユウ様、ここは魔物だらけで危険です。早く身を隠せる場所に……ああっ!クローゼットの中なんてどうですか?私とユウ様ならギリギリ入れるかと」
「うるせぇええっ!!」
「うひっ!?」
ユウは振り返り、大声で怒鳴り散らした。
その声にソフィアの肩がビクッと跳ねる。
「付いてくんじゃねえよアホメイド!」
「あほ……?」
キョトンとした顔でソフィアが首を傾げる。
その場違いな態度にユウは心底腹が立った。
「お前……何のつもりだよ。俺をバカにしてんのか」
ユウの鋭い目つきから、彼が本気で怒っているのだと察したソフィアは腰の前で両手を組んでかしこまった。
「す、すみません……ユ、ユウ様……わ、わたくしその……」
「目障りなんだよ、このグズ。今すぐ俺の目の前から消えろ。さもねえと……殺すぞ」
彼の口からそんな暴言が出るだなんて思ってもみなかったソフィアは、思わず面食らった。
そんなソフィアに再び背を向け歩き出すユウ。
しかし、
「お、お待ちくださいユウ様……!」
彼女はそれでもユウの後ろに付きまとった。
「ユ、ユウ様……!ユウ様がお亡くなりになったと聞いてソフィアは、本当に…………それに、他の勇者様方やアリス王女殿下も随分とお気を患っておいでで」
「チッ……そのクズ共の話をすんじゃねえよ。不愉快だ」
「え?」
「しつけえ奴だな……消えろ。目障りだっつってんだろ」
ユウは彼女を突き放し、彼女に一切視線をくれないで歩き続けた。
「ユウ様……!これからどこへ……?一体何をどうなさるおつもりで……」
「どうするかだと?決まってるだろ。第一王女と勇者たちを皆殺しにする」
「…………え?」
「わかったら邪魔んすなバカメイド」
「ご、ご冗談ですよね……?ユウ様がそんなことなさるはずが……」
嘘の色は無い。ユウの横顔。その尋常ではない目付きから、彼の殺意が本物であるのだとソフィアは悟り、言葉を詰まらせた。
そして、
「だ…………ダメですっ!ど、どうして、そんな……いけません!何故そのようなことを」
「てめぇに関係ねえだろ」
「か……関係なくありません!私はユウ様の専属メイドでございます!ですから――」
大地が爆散する激しい音が鳴り響く。
目の前のユウが、翳した掌から何かを撃ち出し、中庭の地面を抉り取った。
「目障りなんだよ……てめえもここで死にてえか?」
そう言ってこちらを睨んだユウの鋭い眼光と、解き放たれた凄まじい殺気がソフィアを貫く。
彼女の身体が恐怖で震え始めた。
そんな彼女を放って、ユウはまた歩き出した。
だがしかし、
「……っ、」
震える手が、ユウの腕を掴んでいた。
「はぁ〜……なんの真似だ……」
「い、行かせません……これ以上は……」
「はっ、なんだそれ。正義感?それとも忠義って奴か?そんなに王女を守りたいか――」
「違います!わ、わたくしが守りたいのは……ユウ様です……!」
「……はぁ?」
ソフィアは指先を震わせながらも、透き通った真っ直ぐな瞳でユウを見ていた。
「ユウ様は、そんなことをする人ではありません……!本当はもっとずっと優しくて、誰からも信頼されて、本当に素晴らしくて、私なんかにも優しく接してくださる…………私を、必要だと仰っ」
「ざけんなッ!!」
ソフィアの肩がビクッっと震えた。
「俺ァなあ、そういう綺麗事みたいなのがいちばん嫌いなんだ。虫唾が走る。お前を必要?バカじゃねえのか?あんなんただ口からでまかせ言ってただけに決まったんだろうが。周囲の信頼を得るためにそうしてただけだ。でなきゃなんでお前みたいな役立たずの無能なメイドごときに優しくなんてするかよ」
「……っ、」
突き付けられた言葉。彼女の青い瞳から涙が零れ落ちた。
しかし涙を流しながらも、その柔らかな瞳はユウの顔を捉えて離さなかった。
「嘘、です……」
「あぁ?」
「私には、わかります……ユウ様があの時わたくしにくださったお気遣い、向けてくださった優しい瞳、掛けてくださったお言葉……あれは全て、ユウ様の本心でした」
「何言ってんだお前……お前なんかに何がわかるんだよ」
「信じて、いますから……」
その言葉を聞いて、ユウの眉が小さく跳ねる。そして自然とその拳に力が入った。
「また、それかよ…………もう、うんざりだ」
「それでも、私はあの日あの時のユウ様を信じています。例え仮にそれが、全部嘘だったとしても、私にとってはそれら全てが、大切な宝物です」
「うぜぇん、だよ……」
「ユウ様、何があったのですか?ソフィアはいつでも、どんな時でも、たとえ何があったとしても……ユウ様の味方です」
「…………、」
何故だろう。
被る。
あの女と。
「あぁそうか……お前も……俺を騙す気だな……」
「え、」
「騙されねえ……騙されねえ……騙されねえ……騙されねぇ……」
ユウは耳を塞いで目を瞑った。
胸が苦しい。
張り裂けそうだ。
目を開けたくない。
彼女を見たくない。
また、騙されるのは嫌だ。
また――
「ユウ様」
そっと、柔らかい手がユウの頬に触れた。
思わず目を開けたユウは、その美しい空色の瞳と目が合った。
「何度でも言います。私は、いつだってユウ様の味方です」
ユウの手から力が抜けた。
「みんな…………みんなそう言う」
「ユウ様……」
「私だけはあなたの味方だとか、僕は君の友達だとか、守るとか、助けるとか、信じるとか、俺のことが……好きだとか」
その重く切ない声と言葉に、ソフィアは彼の中に渦巻く哀しみを見る。
「でも、結局は全部嘘だった。みんな俺を裏切った。誰も俺を助けちゃくれなかった。誰もっ、誰一人だって――」
言葉の途中、ユウはあの日の出来事を思い出した。
そうだ。ソフィアはあの時、助けてくれた。庇ってくれた。同僚のメイドたちから、どんなに罵声を浴びせられ、どんなに酷い暴力を振るわれたとしても、彼女は決して折れなかった。彼女だけは、ユウを本気で守ってくれた。毎日そそっかしくも献身的に、少しでもユウの為になればと尽くしてくれた。その日々の思い出だけは、今も忘れちゃいない。
一神達は自分を見捨てて裏切った。でもソフィアは。ユウはまだ、彼女に裏切られたことなんて一度もない。その事実が、ユウの思考に引っ掛かり、感情を掻き乱してくる。
落ちかけていた視線を上げると、変わらずそこには優しく心を溶かすような空色の瞳がこちらを見据えていた。
再び目が合ったことで、彼女が柔らかく微笑んだ。
「ユウ様……とてもお辛かったのですね。話してくださってありがとうございます。わたくしは、ソフィアは……ずっと――」
悲鳴が飛び込んだ。
つられて振り返ると、バタバタと数名のメイド達がこちらへ向かって走ってくる。
その後ろには巨大な蟻の魔蟲三匹がメイド達を追いかける。
「ユウ様っ……」
怯えるソフィアを横目に一瞥し、ユウは黒剣を手に即座に動いた。
メイドたちを追う巨大蟻の元まで瞬間移動のごとく辿り着き、握る黒剣で刹那に三匹を仕留めた。
脅威が居なくなったことでメイド達が足を止め息を整える。
「はあっ……はあっ……あ、ありが……て、へ……?」
メイドの一人がユウの顔を見て固まった。
すると隣にいた別のメイドが、
「あれ、うそ、あんた、無能勇者……死んだはずじゃ……生きて、でもなんでここに……」
その発言を聞いて思い出した。彼女たちは確か、場内でユウの噂を垂れ流してた奴らだ。こいつらにソフィアは顔が腫れ上がるまで殴られた。それに日常的なイジメを受けていたことも知っている。
ユウがメイドたちを睨んだそのとき、この場所までソフィアが駆けつけた。
「はぁ……皆様無事だったのですね……!」
ソフィアの顔を見た連中は見事に眉間に皺を寄せ、舌打ちをかました。
「なんであんたがまだ生きてんのよ。他のメイドや兵士たちは殆ど生き残ってないってのに……」
「ほんとよ!あんたなんかが生き残って……ベティアは魔物に食われて死んだのよ……!なのになんであんたなんかが……!」
「そうだわ……ベティアの代わりにあんたが死ねばよかったのよ……!」
その言い草にユウが一歩踏み込むと、メイド達がたじろいだ。
「ユ、ユウ様……わたくしは平気です。それよりこのままみんなで一緒に安全な場所まで」
そのとき、後方から大量の巨大蟻の群れが城壁を突破って現れた。その数は優に五十匹を超えている。さらに蟻たちは時間が経つにつれ、その肉体を分裂させその数を徐々に増やしながらこちらへと迫ってくる。
――増殖してるのか……。
「ヒィっ」
「奴らだ……!また奴らが来たッ……!」
「は、早く逃げ――」
メイド達が正面を向くと、なんとそこにはすでに数十匹の蟻の群れが迫っていた。
完全に挟まれた。
「あ、あぁ……」
メイド達が絶望に顔を歪めている。
そんな中ユウは左手に魔術を構築し、それを撃ち放った。
「フレアバースト」
強力な爆炎が放射され、前方のアリの群れを焼き払う。
「う、うそ……」
「すご……」
その光景に驚愕するメイドたち。
しかし未だ立ち止まったままのメイド達に、ユウは苛立った声で叫んだ。
「何やってる!さっさと逃げろ!」
その声にビックと肩を揺らしたメイド三人は、慌てた様子で走り出す。
するとソフィアが不安げな表情でこっちを見た。
「ユウ様……わたくしは、」
「ソフィア、お前も逃げろ。ここは俺が何とかする。この城はもう諦めて王都へ迎え。南区の七番通りに宿酒場ブランって店がある。そこへ行け。俺の名前を出せば多分、匿ってもらえる」
「ユ、ユウ様は……」
「この城の怪物共を皆殺しにしたら、俺も宿へ戻る」
その言葉を聞いたソフィアが嬉しそうに笑みを浮かべた。
「さあ早く、行け!」
「は、はい……!」
メイド達の後を追って走り出すソフィア。
それを背に、後方から流れ込んでくる蟻の群れと対峙する。
ソフィアを信じたわけじゃない。ただユウ自身も、もう自分がわからない。彼女の言葉を聞いて、今自分が何をしたいのか、何をするべきなのか分からなくなってしまった。
――なんでここに来たんだ……俺は、何がしたいんだ……。
不明瞭な心。混濁する思考。
左手に構築した爆炎が豪快に蟻の群れを焼き尽くす。
しかし数が減らない。蟻の増殖スピードがどんどんと速くなっている。
――ちっ、こうなったらエアキャノンで
そのとき、遠方から悲鳴が響き渡った。
まさかと思い振り向くと、離れた場所で一人のメイドが転んでいた。その足には一匹の蟻がしがみついている。
――しまった、まだ一匹残ってたか……!
メイドが泣き叫び、暴れ回る。
そこへすぐさま駆けつけたのは、ソフィアだった。
彼女は落ちていた木の棒で蟻の顔面を殴りつける。
「このっ!離してッ!!」
彼女の必死の殴打が蟻の眼球を叩いた。
不快な鳴き声を小さく上げて怯んだ蟻がメイドから離れる。
「大丈夫ですか……?!さあ、早く立って、今の内です……!」
足を怪我したメイドに、ソフィアが肩を貸して走り出す。
その様子を見たユウは酷く焦りを覚えた。
「あのバカっ」
すぐさまソフィアの元へ急ごうと動き出したユウの行く手を、雪崩込んで来た蟻の群れが阻む。
「チッ……邪魔だっ!」
剣で群れを薙ぎ払うが波のように押し寄せる蟻達が更にその数を増していく。
――また増殖スピードが上がってる……!?
まさかと思いソフィア達の方へ視線を向けると、一匹だった蟻が既に三匹に増えている。
その蟻達が、肩で支え合い必死に走るソフィア達のすぐ後ろに迫っていた。
「クソっ……ソフィ――」
時が止まったかのようだった。
ユウは見た。
ソフィアに肩を貸されていたメイドが、
「――――ぇ」
ソフィアを蟻の群れへと突き飛ばした。
血肉が抉れる音がする。
「ソフィアァァッ!!!」
喉が千切れるような叫び声を上げ、ユウは剣を振り続けた。
左手に構築した火炎で次々に蟻共を焼き尽くす。更に頭上で完成させた空気圧縮を解き放ち、強力な爆発が蟻共を一掃する。
「どけぇええッ!!」
力任せに彼女に群がる蟻の群れを惨殺する。
「ソフィッ…………ぁ……」
蟻共を皆殺しにし、ようやく彼女の元へ駆けつけたユウは、右手の黒剣をカランと地面に手落とした。
横たわる彼女を前に、ユウの膝が崩れ落ちる。
彼女の腹は抉られ、左脚は消失し、左の眼球が潰れている。
腹部から、左脚から、今も止めどなく血が流れ続けている。
「ソ、ソフィア…………お、おい……し、しっかり……」
「ユ…………さま……」
彼女の右目が、ゆっくりとこちらを見た。
その空色の瞳は相変わらず優しく、ユウを見る。
「ソ、フィア……」
「ユウ……ま……」
ソフィアの意識が遠のいて行く。
彼とのあの日々が、走馬灯のように彼女の心に思い起こされていく。
失敗ばかり。けれど楽しかった。悪い思い出なんてひとつも無い。
真っ青な顔で自分を見下ろしている彼の表情が、どんどんとボヤけて見えなくなっていく。
――あぁ……ユウ様……大好きです。
おこがましいと分かってる。そんなこと、恐れ多いと思ってる。でもいつかこの気持ちを彼に伝えられたら、なんて。彼女はいつもそんなことを夢に願っていた。
――あぁ……いつかちゃんと……伝えたかったな…………でも、今はそれより……伝えなきゃ、ならないこと…………で……ないと、ユウ様が………………彼を孤独に……したくない。おねがい、女神様…………もう少し、だけ……時間を…………。
「ユ……さま、どう、か…………ぁ……………………」
ソフィアの時間は、そこで途切れた。
安らかに目を閉じる彼女の頬に、零れた涙が落ちる。
それを見て、ユウはようやく自分が涙を流していることに気がついた。
なんでだ。なんでこうなる。
思考は、巡る。
俺があのメイドを助けたから。
ソフィアがあのメイドを庇ったから。
違う、あのメイドが裏切ったからだ。あいつさえ、いなければ。
なんでだよ、なんでソフィアが死んで……アイツが生きてんだよ。おかしい……おかしいだろこんなの……。
ユウは頭の奥で響く不快な音に、思わず耳を塞いで目をつぶった。
耳鳴りがするほどの憎悪が、腹の底から押し寄せてくる。胸の奥の何かが、黒く染っていく。
ソフィアの笑顔が頭の中に浮かんだ。
頭の奥で彼女の呼ぶ声がする。
しかしその声を遮るかのように、
『信じるから裏切られるのよ』
母の声が蘇る。
頭の中に霧がかかったようにノイズが走る。
『いい、絶対に誰も信用してはダメ。人は愚かで醜い。簡単に人を騙し、裏切る……だから』
頭に浮かぶモノクロームの情景。
母が、歯を剥いて笑いながらこっちを見てる。
「はは、ははは……」
初めからわかってたことだ。人は愚かで醜い。簡単に人を騙し、裏切る。そういう生き物だ。
そういう生き物なのだ。
ゆっくりと立ち上がり、ユウは呟いた。
「ああ、そうだ……殺さなきゃ……」
――ソフィアが最後になんて言おうとしたのか……今ならわかる。
「安心しろソフィア…………お前の仇は必ずとってやる」
ユウは漸く思い出し、理解した。
自分の心の内にある、剥き出しの欲望。
ユウの口元が醜く歪む。
「皆殺しだ」
――
切断されたメイドの首筋の動脈から血潮が勢い良く吹き出る。
「ぎゃああああっ!!!」
目の前で同僚のメイド二人が惨殺されたことで、残った一人が騒ぎ立てる。
その無様な姿を前に、ユウは人差し指を口元に当てて諭すように言った。
「シー……魔物が寄って来ちまうぞ?」
不気味な笑を浮かべながら、ユウはメイドの頬に黒剣を宛てがいしゃがみ込み、その視線を彼女に合わせた。
彼女の頬から、つうっと血が静かに垂れる。
「ひ……ひ……」
過呼吸になるメイド。
そんな彼女を、ユウの恐ろしく冷たい視線が貫いている。
「お前、よくもソフィアを殺してくれたよな」
「ち、ちがうっ、わた、私は殺してなんか……こ、殺したのは魔物で」
言い終える前にメイドの右腕が弾け飛ぶ
「ぎゃぁあああああ!?」
失った肩を抑えて暴れ回るメイド。
「てめえがソフィアを突き飛ばして、囮にしたんだろうがっ。あとデケェ声出すなっつったろ……」
「ひっ……ひぃぃ……ゆ、ゆるして……くださぃ……」
「ぶははははっ!」
顔を歪めてユウが笑う。
「悪いが無理だ。ソフィアからの最後の頼みなんだ」
「ソ、ソフィア…………?」
「そう、ソフィアの最後の言葉さ」
ユウは両手を広げて天を仰ぎ、不気味に笑う。
「お前らに復讐を……あいつはきっとそう言いたかったんだ。お前らを一人残らず、惨たらしく殺して欲しいって願ってたはずさ」
「そ、そんな……」
「それに、俺に対しても何か言いたそうだったな。多分やりたいことやって、思うままに生きろ。そう言いたかったんじゃないかな……」
メイドは震えた。その狂った男を、心底理解できない。当然だ。こんなやつ人間じゃない。こんなのが、人間であるはずがない。
「だから俺は決めたのさ。この世界に復讐する。勇者も王女も、人も街も、ぜーんぶ壊す。皆殺しだぁ……ヒヒッ」
その狂気の塊は最早、誰にも止めることなど出来ない。
「はははっ、はははははッ!」
狂気に満ちた笑い声が響き渡る。
頬に血が飛び散る。
ユウが黒剣を突き立てる。
何度も。何度も。何度も。
「死ね……死ねっ……死ねッ……!人間なんて……全員死ねッ!うはははははッ……!!」
血に濡れた笑み。
広がる鉄の匂い。
彼が再び空を仰いだ。
「ありがとうソフィア……俺に道を示してくれて…………」
両手を大きく広げ、ユウは絶大なマナを練り上げた。
大規模な魔術構築が始まる。
城の上空に巨大な空気の圧縮物が生成されていく。
掴んだ空気の規模はあの時と同様、約百メートルにも及ぶ。莫大なマナと魔術操作により、巨大な大気が徐々に徐々に縮んでゆく。
空気が圧縮されるにつれ、周囲の大気は引き寄せられ、圧縮空気の摩擦によって電光が走る。
「もう、いい……もうどうでもいい。お前らの醜さにはもううんざりだ……第一王女も勇者達も、城も街も全部……ぶっ壊してやる…………それで終わりにしよう、何もかも……」
だがそのとき。
「――――」
眩い閃光、轟く雷鳴。
構築中の魔術の塊に対し、鮮烈な雷が撃ち込まれた。
それにより魔術構築は乱れ、
圧力が――崩壊する。
未完全。されど壊滅的な爆発が上空数百メートルで暴発した。
突き抜ける突風が真下にある城を完全に破壊し、地上に並ぶ王都中の家屋の窓ガラスを叩き割り、屋根瓦を弾き飛ばす。
大気の圧縮は始まったばかりの段階だった。それでも城を大破させるには十分な火力だった。
破壊された城の瓦礫。その山の中から、ユウが這いずりでる。
「っ……誰だくそっ……俺の邪魔をしやがってぇ……!」
額に青筋を浮かべながら、ユウが大声で叫び散らす。
「誰だァァァ!!出てきやがれぇぇぇ!!」
叫び声と同時に凄まじいマナの波動が解き放たれる。
すると上空が一瞬眩く光った。
僅かに遅れて鳴り響いた雷鳴が轟き、突如として目の前の上空にその男は現れた。
人でありながら空に浮遊するその男。日暮れの風に腰辺りまで伸びる美しき金髪が靡く。全身を白銀の鎧で包み、兜の無い素顔は息を飲むほどに美麗である。
その男の名は、雷神ルキウス・マルティアス・アルシュット。人類最強と謳われる聖王国のマスターナイトであった。
「てめぇか……俺の邪魔しやがったのは」
「ふむ……伝令で城が襲われたと聞いて馳せ参じたのだが、少し遅かったようだな。しかし魔人族の襲撃と聞いていたのだが…………まあ、この際相手が何者だろうと関係ないか」
「ごちゃごちゃうるせえ……邪魔するなら殺すまでだ」
睨みつけたユウの全身から、凄まじいマナが放たれる。常人ならばその場で気を失っておかしくない程の威圧がルキウスを襲う。
そのマナを目撃したルキウスは、微かに頬を緩めた。
「凄まじいマナだな……まさか私と同じ境地に立つ人間がいようとは」
その瞬間、ルキウスの肉体から爆発的なマナが放たれる。
両者共にマナ抑制の完全解除。その威圧の衝突は王都全域にまで広がった。
天地を揺るがす、マスター級の戦いが始まる。




