65.ソフィア・フランデール
「はぁ……はぁ……」
彼女は走った。あの悍ましい怪物達から逃れる為に。
乱れる呼吸。暴れ回る心臓。
もう何人も城の人間が死ぬのを見た。
怖い。体の震えが止まらない。
「きゃっ」
足がもつれて、また転んだ。
膝が擦りむけて血が滲む。
転ぶのなんていつものことだが、相変わらず城の廊下は固くて冷たかった。
なんとか立ち上がって、目の前の扉に飛びつく。
飛び込んだその部屋は、メイド達の作業室だった。部屋の中には誰もいない。机の上には衣類や裁縫の道具が乱雑に散らばっているだけ。
――ここなら……。
ソフィアはすぐにドアを閉め鍵を掛けた。
「ふ……んっ……」
用具棚を力いっぱいに押して、扉の前に持ってくる。これで少しは時間を稼げるだろうか。
今城の中には騎士も兵士も殆どいない。彼らが城に戻って来るまで、ここで凌げるだろうか。
そんな不安を抱えて部屋の隅に縮こまっていると、どこからか女性の甲高い悲鳴が響いた。
その悲痛な叫びに耳を塞ぎ、ソフィアはただ身を震わせながら息を潜める他なかった。
「……っ、ユウ様…………ハロルド……様……」
震える声で呟いた、大切な人の名前。
その手に握り締められていたのは、ボロボロになった布人形だった。
***
初めて伯爵家に召し抱えられたのは、五歳の頃だった。
「見よ!この美しき空の髪を!」
自慢げに彼女へ指をさして語るのは、オズマン伯爵だった。彼は伯爵の中でも随一の権力者。広い人脈を持ち、王都の商人たちにも多額の融資を行い物流の流れを支配していると聞く。敵に回せば厄介極まりない男と定評があるらしい。
「ふむ……まだ幼過ぎるが顔はいい。いずれは美しい乙女に成長するだろうなぁ……ウヒヒッ」
ソフィアの美しい青髪に指を通しながら、オズマン伯爵は醜く顔を歪めた。
「それまではウチの使用人として飼ってやるとしよう……ハロルド、この娘の教育は貴様に任せるぞ。いいな、し〜っかりと躾ておけ」
「かしこまりました」
胸の前に手を当て、かしこまってお辞儀する中年の男の名はハロルド・レイス。この屋敷に使える執事長だった。
この度、不運にもオズマン伯爵家に連れてこられた少女の名はソフィア・フランデール。彼女は孤児だった。オズマン伯爵の所有する領地外れにある小さな街に生まれた彼女は、あるとき盗賊集団に両親を殺され身寄りを失った。孤独となった彼女を、心優しいオズマン伯爵は屋敷の使用人として召し抱えた。と、オズマン伯爵の筋書きはこうらしい。
しかしハロルドは知っていた。彼女の両親を襲わせたのはオズマン伯爵本人であると。彼は以前街で利を上げた商人に対して難癖を付け金品を接収したことがある。その際、彼は商人の娘にまで目を付けていたのだ。それがこの少女、ソフィアである。
目の前で両親を殺された彼女は、あの日から一切笑わず、声も出さず、泣くことすらない。ただ虚ろな目をして抜け殻の様に呆然としているだけだ。
オズマン伯爵が言う「躾ておけ」とは、この様な無反応な娘では何事にも使えぬであろうから、どうにかしろと、そう言うことなのだろうと理解している。
というのも、このような指令を受けるのは一度や二度の話では無いのだ。ハロルドはこれまでに、彼女と似た境遇の少女達を何人も躾てきた。屋敷の使用人として迎え入れ、教養や礼儀作法を学ばせ、人並み以上に幸せを与え、豊かな人格を築き上げる。その様な清廉な少女を汚すのが、この俗物の趣味の様だった。
――まるで贄だ。
虚ろな目をした彼女を見て、ハロルドは思う。これが仕事だからといって、この様な非道が許されるのだろうか。私は、いつまでこんなことを続けるのだろうか。
「ハロルド様……!」
元気いっぱいに駆け寄ってくるソフィア。
そんな彼女を見たある日、ハロルドはハッとした。
「ハロルド様?お疲れですか?少しお休みしてはいかがですか……?」
心配そうにこちらを見つめるソフィア。そのスカイブルーの瞳に見つめられると、ハロルドの胸はいつも締め付けらる様だった。
「また膝を怪我しましたね。転んだのですか?」
「ちょ、ちょっとだけ……」
ぶきっちょに笑った彼女の両膝には、またいつもの様に擦り傷から血が滲んでいた。
端的に言うと、彼女にメイドは向いていない。何をやらせても失敗ばかり。すぐに転ぶし、バケツの水はひっくり返す、料理をすれば必ず焦がす、包丁なんて危なくて持たせられない。
けれど今回は少し様子がおかしい。
「あっ――」
ハロルドは勢い良くソフィアの手を掴んで、袖を捲り上げた。
「これは……」
ソフィアの細腕には青アザが幾つもある。
「まさか、また彼女たちに虐められたのですか……」
「そ、その……針仕事を練習してて、それでその……でもでもっ、カミラさん達は悪くないんです!私が何やっても上手く出来ないから…………それなのに、私だけ特別にハロルド様にご指導いただいているから、みんな不満に思うのも無理はないと思います……」
彼女はいつも他のメイド達に虐められている。ハロルドもそれを認知してはいるものの、彼女がどうしてもと言うので口出ししないでいた。
「なぜそこまで耐えるのです……私が直接言えば彼女たちだって……」
「自分で、なんとかしたいんです……今の私が何も出来ないのは事実ですし、もっともっと努力して……針仕事だって上手に出来るようになって、いずれ立派なメイドに……そうして皆を見返したいんです……」
「ソフィア……」
「そうすれば、みんな分かってくれますよね。私をご指導くださったハロルド様は、とっても凄い人なんだって」
真っ直ぐで、空のように青い瞳が向けられる。
彼女の言葉から、何があったのかは何となく察しがつく。きっと彼女は悔しかったのだ。自分だけでなく、自分の育て親であるハロルドまでもが馬鹿にされることが、どうしようもなく悔しかったのだ。だからこそ見返したい、変わりたいと、そう強く願っているのだろう。
「成長しましたね、ソフィア」
ハロルドが彼女の頭を優しく撫でる。
「ハロルド様のおかげです!それにソフィアももう十一歳ですよ!いつまでも子供じゃありません!」
その言葉を聞いて、ハロルドは恐怖を覚えた。
今年でもう十一歳だ。初潮は、まだ来ていないだろうか。
オズマン伯爵はこの年頃の娘を好む。初潮が来れば、ソフィアをオズマン伯爵の元へ連れていかなくてはならない。
もう、猶予は残されていなかった。
ある日の夜、
「ねえ、ハロルド様……ソフィアも、いつか立派なメイドになれますか……」
寝付けない彼女の隣で本を読んでやったとき、突然そのようなことを彼女が口にした。
彼女はもうすぐオズマン伯爵の専属メイドとして正式に迎えられる。オズマン伯爵のメイドへの扱いは酷いものだと聞く。彼の非人道的な趣味に耐えられず、何人もの少女達が身も心も壊される。
――そんなものが、立派なメイドなどと。
ハロルドは歯を期しませ、そして笑顔を取り繕った。
「ああ、なれるさ」
「…………そう、ですよね。なれますよね、きっと。だってソフィアは、ハロルド様にご指導いただいてますから」
ソフィアが笑う。
その笑顔を見るだけで、罪悪感に押しつぶされそうになる。そんな日々だった。
ある日、王城からオズマン伯爵邸に来客が来た。宮廷魔道神官ローゼルと数名の神官達だ。病にかかったオズマン伯爵の治療に来たそうだ。
治療なんてされないで、そのまま死ねばいいのに。
そんな家令に有るまじき言葉が頭の中に浮かんでは消えた。無意味な事だ。病と言っても大したものじゃない。治療なんてしなくても次期にに回復するだろう。
「おやこれは……珍しい天恵を持っておられる」
宮廷魔道神官ローゼルが、すれ違いざまにそう呟いたのだ。その視線はハロルドの後ろに怯えて身を隠すソフィアに向けられていた。
彼らが屋敷を去る直前、
「お、お待ちください……!」
ハロルドはローゼルを呼び止めた。
「何用ですかな?」
「お、お呼び止めして申し訳ありません。私はオズマン伯爵邸家令、ハロルド・レイスと申します。先程、その……青髪のメイドをみて……」
「ほほっ、あのお嬢さんのことですか。確かに、珍しい天恵を持っていた」
「そ、それはどのような……」
「真偽眼……とでも呼びましょうかな。彼女は言葉の真偽を見ることが出来る」
「……ぇ」
その回答を聞き、ハロルドは膝から崩れ落ちた。
何となく、そんな予感はしていた。彼女の眼は、いつも何か他人には見えないものを見ているような、そのような感じはあった。
彼女は全て察していたのだ。自分がなぜここで働いているのかも、なぜ自分が特別な扱いを受けているのかも、自分が立派なメイドになんてなれないことも、これから自分がどうなるのかも、薄々勘づいていたに違いない。
そう思うと、あの時もあの時も、彼女の言動や表情に納得のいく部分はいくつもあるように思えた。
――私は……なんと言うことを……。
数え切れないほど、ハロルドは彼女に対して嘘をついた。嘘をつき続けた。それでも彼女は笑って、慕ってくれていたのだ。全てを察した上で。
「どういうおつもりですかな」
ローゼルが訪ねたその先には、地面に額を擦り付け頭を下げるハロルドの姿があった。
「魔道神官ローゼル殿に、お頼み申し上げます。どうかあの子を……ソフィアを王城へ連れて行っては下さいませぬか……」
「それは何とも、急な頼みですな」
「あの子はドジで間が抜けていて、メイドとしての仕事もロクに熟せぬ部分も多々あります。料理をすれば怪我をするし、針仕事もまともに出来ませぬ……ですがっ、本当に、本当に心優しい子なのです…………どうか、どうかお頼み申し上げます……あの子を」
「顔をお上げくだされ」
涙を滲ませ、ゆっくりと顔を上げるハロルド。
その先で憐れむような視線と目が合った。
「申し上げにくいですが、お断り致しましょう」
「……、」
「色々とお察しする部分はございます。しかしながら伯爵の召し抱えを城へ連れゆくなど、いくら私とて出来ませぬ。私も爵位を持つ身。伯爵殿に恨まれるようなことは出来ませぬな」
それは、当然の決裂であった。
「ハロルド様、どこへ行くんですか?」
不安げな表情がこちらを見上げる。
「ソフィア……今はただ何も言わず、私について来てくれ。私を信じて」
「……、もちろんです。ソフィアはハロルド様を信じていますよ」
彼女はいつもそうやって、胸が痛むことを言う。
もう、限界だった。こうして罪悪感に耐え忍ぶ日々も、彼女の笑顔が失われる日が来ることに怯え続けるのも、過去の自分の過ちから目を逸らすこともにも。
屋敷中の明かりが消えた、真夜中の雨の日だった。ハロルドは少ない物資を鞄に詰め込み、ソフィアを連れて屋敷を出た。小屋から引っ張り出した馬に跨り、誰にも見られぬ内に夜の平原を駆け抜けた。
どこでも良かった。ただ伯爵から身を隠せれば。
明日の朝には自分とソフィアがいないことは屋敷中に知れ渡る。そうすればきっと伯爵は追ってくる。
伯爵に仕えて二十八年。あの男の考えなど手に取るようにわかる。きっと珍しい青髪の少女をハロルドが持ち逃げしたと、そう考えるはずだ。
あの男の執着心は凄い。私兵だけに留まらず、あらゆる手段を使い地獄の果まで追いかけて来るに違いない。
逃げるのだ。出来るだけ遠くへ。この子を守るために。
それから四ヶ月が過ぎた。
二人は様々な村や街を点々とし、何とか伯爵の追跡を躱し続けていた。しかし中々伯爵の領地を越えることが難しい。伯爵は村や街や関所に留まらず、あらゆる場所に手を回し、ハロルドとソフィアを執念深く追っていた。手配書も回っている上、ただでさえソフィアの髪は目立つ。役人がいる関所を通る訳にはいかない。人目の付きにくい山を抜ければ、領地の外へ行けるだろうが、魔獣に襲われるリスクは付きまとう。
路銀もない。金を稼ぐ手段も限られている。同じ村街に留まり続けるのも難しい。
次第に二人は疲弊していった。
湖のほとりでキャンプを立て野宿する。
木の裏でくしゅんっ、とソフィアがくしゃみしたのが聞こえた。
ハロルドは何も言わず焚き火に新しい薪をくべ、火を強めた。
「ソフィア、何してる。こっちへ来てもう寝なさい」
すこし厳しい口調でハロルドが声を飛ばした。
「は、ぁはいっ」
ぎこちない返事で、慌ててソフィアが焚き火に戻ってくる。
彼女が近頃見えぬところで何かしているのは気づいていたが、今はそれどころではない。
最近は彼女に対して厳しく指導する部分がある。というのも、これまでは彼女を甘やかしすぎたと反省していた。もうここは伯爵邸ではない。この先歩む道は苛烈を極めることになるだろう。そう思い、ハロルドは彼女に対して敢えて厳しく接していた。特に彼女は親の愛情も知らないが、親に叱られるということも知らない。ここは自分が親の役割を担ってやるべきだなんて、勝手に彼は思っていた。
――金が足りない。このままいつまでも森の中で魚をとって凌ぐわけにもいくまい。前回は山越えに失敗したが、次は必ず……。
目指すは王都フェルマニス。あそこまで行けば伯爵とて王の管轄地域で好き勝手は許されないはず。人も多く人種も多種多様な王都なら紛れやすいし、伯爵の警戒警備も緩いはずだ。傭兵ギルドへ行けば金を稼ぐことも出来るようになるかもしれない。
見つかれば二人ともタダでは済まない。ハロルドはずっと、希望を探していたのだった。
「おかえりなさいませハロルド……さま……」
戻ってきたハロルドの大荷物を見て、ソフィアは表情を曇らせた。
「ああ、ただいま」
「ハ、ハロルド様……その荷物、どうなされたのですか?」
膨れた大カバンが二つ。大きな毛布と、ランプや短刀まで腰に下げている。
「……これか。買ったんだ」
嘘だった。
嘘の言葉は赤く見える。赤く見えるというのも、イメージ的なものなのだが、当人を目に映しその言葉を聞くと頭の中に色が浮かんでくる。
それにソフィアだって馬鹿じゃない。こんな大量の物資を買い込む余裕なんてあるはずも無いことは理解している。
ハロルドはよく嘘をつく。屋敷にいた時から、それは変わらない。けれど最近はその嘘が、特に良からぬ意味合いで使われることが増えたように感じる。
それになんだか近頃は、人が変わってしまったように厳しく感じる。まるで彼との間に冷たい壁でも隔てているような、そんな感覚に陥ってくる。
「ハロルド様、ソフィアは」
「悪いが疲れてるんだ。お前ももう寝ろ。明日は早いぞ」
その感覚は、日に日に増してくようだった。
翌日、二人は雪の降る山道を登り続けた。
ハロルドが馬の手網を引きながら、雪と氷に覆われた山道をゆっくりと歩く。その少し後ろをソフィアが必死について歩く。
山間にある関所を抜けられれば早い話なのだが、そんなことをすれば即捕まる。領地を抜けて王都へ向かうにはこの山道を越える以外になかった。
ハロルドは後方に一瞥くれ、疲弊したソフィアの顔を見やる。
――やはり幼い少女にこの時期の山渡りは難しいか。
前回は道中でソフィアが熱を出したことにより断念した。今回こそはと意気込んだが、前回よりも気温が落ち、より難易度が上がっている。しかし春が来るまで待っていては伯爵の手の者に見つかる危険性が増すばかり。それにこんな生活をいつまでも続けられるとも思えない。今山を渡る以外に選択肢はなかった。
物資調達とその下調べに時間をかけ過ぎたのが良くなかった。だが街にも伯爵の兵士やら傭兵やらが彷徨いていて、行動が制限されていたのだから仕方がない部分もある。
――仕方がない……ここらで休憩を
そう思った時、隣のソフィアが雪で足を滑らせた。
彼女の悲鳴が響く。
凍てついた地面と傾斜によって勢いは死なず、ソフィアの身体が山道を引き摺られる様に下落してく。
その先には崖がある。
「ソフィアっ!!」
ハロルドが叫び、飛び込んだ。
彼女の腕を掴み、引き寄せ抱きかかえる。
そのまま二人は崖底へと転落した。
「ソフィア……ソフィア!」
肩を揺さぶると気を失ったソフィアが目を覚ました。
「ハロルド様……わたし」
特に外傷もなく、意識もハッキリしている様子だった。
溜まった雪がクッションになった様で助かった。
「ソフィアはまた、ご迷惑を……」
「いい。無事でよかった。それより早く先へ――」
動いた拍子に違和感を覚えた。
いや、それは違和感ではなく明らかな痛みだった。
左太腿に熱が帯びるような痛み。肉が裂けている。寒さで出血は鈍いが、思ったよりも深手だ。
「ハロルド様……?」
ソフィアは怪我に気づいていない。
「早く行くぞ。このペースでは山越えは無理だ」
その夜は極寒だった。
吹雪はしなかったが、降雪は続き、日が落ちたことで急激に気温も下がる。岩場の洞窟で風を凌いではいるが、眠りにつくにも苦労する。
防寒着の殆どはソフィアに与えていた。金持ちの商人から盗んだ上等な毛皮の毛布もある。これなら多少は寒さを凌げるだろう。
翌日は吹雪に見舞われた。
早朝に岩場を抜け、あと少しで山頂と言うところで突然に吹雪いたのが痛手だった。二人は結局来た道を引き返し、先日と同様の洞穴に逃げ込んだ。
寒さと疲労で消耗が早い。
干し肉程度では腹も満たされなくなってきた。
隣でソフィアが震えている。
ハロルドは自分の毛布を彼女へ掛けてやった。
「ハロルド様……それではハロルド様が、」
「いい……私は平気だ」
ハロルドがそう言うとソフィアは眉をひそめ、
「……嘘ばっかり」
と呟いた。
呟いた後に、ソフィアは驚いた様子で口元を押えた。
ハロルド自身も驚いた。彼女が普段何も言ってこないから、つい失念していた。彼女は嘘を見破れるのだ。じゃああの時も、あの時の言葉も全部。
「……ごめんなさい」
ソフィアが謝ると、ハロルドはなぜだか無性にそれが腹立たしく思えた。
それに勘づいたかのように、ソフィアが話題を変えようと口を開く。
「そ、そういえば……今どこに向かっているんですか?」
「…………なに?」
「山を超えた先には何があるんですか?街……?ソフィアはどこか別の御屋敷でメイドになるんでしょうか?今は辛いですけれど、これを乗り越えられたらソフィアも一人前のメイドに」
ハロルドは呆気にとられた。
いくらなんでも呑気すぎると、子供相手にそう思ってしまった。
確かに、ソフィアには私を信じて着いてこいとしか言ってない。この先どうするとか、どこへ向かっているとか、大事なことは何も話していない。
でも、わかるだろ。
「誰のためにこうなってッ……!!」
気がつけば、思わず叫んでいた。
叫んだ後で自分の愚かさに気がつくも、意地を張るみたいに彼女から目を背けた。その愚かさを彼女の前で肯定するわけにはいかなかったのだ。自分は常に正しく、彼女の手本として在るべきだと常々思っていたから。
「もう、寝なさい」
その言葉が、冷たい空気に落ちていった。
三日目の昼、ようやく峠を越えて下りに向かう頃だった。
近くでランプの灯りが複数見えた。
ソフィアを連れて身を隠し、息を潜める。
彼らの話し声が聞こえてくる。
「見つかったか?」
「いや、さっぱり」
「目撃情報の通りなら、奴らがこの森に入ったことは間違いない。実際その痕跡は見つけられたわけだしな」
「吹雪で足跡が消えたのが痛手だったな」
「奴は子連れだ。それほど遠くへは行ってないはずだ。探せ」
近くの村人に森に入るところを見られたか、あるいは街で盗みを働いた時に足が着いたかだろう。こんな場所まで捜索が来ているとは。
ハロルドは脚に広がる痛みを無視して、ソフィアを連れてペースを早めた。
その夜、キャンプを立て焚き火をジッと見つめていた。
身体が重い。明らかに普通じゃない。左脚に凄まじい熱が帯び広がっている。脚だけじゃない。全身が火照っている。高熱に滲む汗、背筋に走る悪寒が収まらない。
原因は何となくわかっていた。
まさかソフィアの体調ばかりを気にしていた自分がこの有様とは、笑えてくる。
――まずいな……このままでは追いつかれるのも時間の問題だ。明日は少し無茶をしてでもペースを上げよう……森さえ抜ければ馬を走らせられる。
朦朧とする意識の外から、ソフィアの声が飛び込んできた。
「ハロルド様……お辛そうですが、大丈夫ですか?」
「……、ああ」
「あ、あの」
「早く休みなさい。明日の朝は早く出る」
「わ、わかりました。ただその、あの……その前にこ、これ……」
ソフィアが照れくさそうに差し出した手の中には、歪な形の人形があった。布切れを寄せ集めて作られた人型。頭部には顔らしきそれがある。
「なんだ、」
「そ、その……針仕事の練習で……作ってみたんです。その、上手くは出来なかったですけど……ハロルド様を模して作った御守りです」
それを聞いて察した。彼女は毎晩夜な夜な、自分の目を盗んでこれを作っていたのだと。屋敷から持ってきていた針糸と、ボロくなった衣類の布を寄せ集めて、何度も指を刺しながらせっせと編んだのだろう。
しかし何故だかその時は、こう思ってしまったのだ。
「こんなもの…………作っている暇があるなら早く寝なさい」
こんなことしているから、寝不足で体力が落ちるのだ。続けてそう言ってやろうと思った。
けれど、言えなかった。
ソフィアは涙を流していた。
堪えきれないで、決壊したかのように止めどなく彼女は泣いた。
その涙を見たあとで、遅れて後悔がやってくる。しかし思い浮かぶのは言い訳だけだった。
「いや、その……わ、私はお前の指導役……いや、父親としてっ」
「嘘……!」
泣き叫ぶソフィアの声に両断された。
彼女は全てわかっていた。
「こんなもの」と切り捨てた彼の言葉は本心で、「お前の父親として」と並べ立てたのは赤い色の点る言い訳の嘘っぱち。
「ハロルド様は、ソフィアの……お父さんじゃないっ……」
「……っ、」
彼女はしゃくり泣きながら、現実を突きつけてくる。
「私のお父さんも、お母さんも殺されたっ。誰が殺したか私は知ってる……知ってるもん!」
「ソフィア……」
「でも一度だって、教えてくれなかった……本当のことは何も、言ってくれない……私には教えてくれないっ……教えてくれるのは礼儀作法と勉強と料理と洗濯と、針仕事だけっ……でもそれでも良かったの…………それでも頑張って、努力して、出来るようになれば、皆に認められて…………ハロルド様にだって褒めて貰えると思ったからっ…………でもっ……そんなのなんの、意味もなかった…………っ」
それだけ言い残し、彼女は逃げ出した。
どれだけ走っただろう。暗い山の中を。頼りは月明かりだけ。
「きゃっ」
また転んだ。
――ソフィアっていつも転んでばかり……針仕事ひとつ出来ない。私には何も無い。家族も友達も……誰もいない。
擦りむいた手がヒリヒリ痛む。
また悲しくなってきた。
そんな折、近くに気配を感じた。
顔を上げ、周囲を見渡すが誰もいない。
「ハ、ハロルド様……?」
雲が開け、月明かりが強くなる。
そんな時、枯れた木々の裏からゆっくりと体毛のない黒い肌の狼が一匹、その姿を現した。
「ひっ……」
魔獣について、ハロルドに教わったことがある。森に生息する体毛の無い黒肌の狼。確か名前はダークウルフ。動くものに手当り次第噛み付く、凶暴でおっかない奴。
身体が震えて動かない。
声が出ない。
ダークウルフがこちらに向けて走り出した。
「は……はっ……ハロルドさ」
彼女が声にならない声を上げたその時、
「うぉおおおッ!!」
雄叫びを上げて飛び出して来たのはハロルドだった。
ハロルドは飛び付いたダークウルフと激しく揉み合いとなり、雪の中を転げ回る。
そして揉み合いの最中で腰の短刀を引き抜き、ダークウルフの喉元にそれを突き立てた。
ダークウルフの抉れた悲鳴が響いたあと、血溜まりが広がり、ダークウルフは痙攣しながら死を迎えた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をするハロルドの腕に残る、深い噛み傷から血が滲んでいる。
「ハ……ハロルドさま……わたし――」
ソフィアが何かを言う前に、ハロルドが力一杯に彼女を抱きしめた。
彼の体温はこの寒さの中とは思えぬほど熱くて、どこか寂しそうに震えている。けれどやはり、その手は優しかった。
彼の息遣いが耳元で聞こえてくる。泣いているのだと、顔を見ずともソフィアは理解出来た。その瞬間、ソフィアもまた溢れ出す涙を堪えきれなくなっていた。
「君の……」
ようやく口を開いた彼は、息を飲んで再び話し始めた。
「君の両親を殺したのは、オズマン伯爵だ。そして私はその伯爵に、君を育てるよう指示されていた。時が来た時、君を伯爵に引渡す予定で」
「……」
「君だけじゃない。君以外にも四人、君と同じように育てたことがある。その四人のその後は、私にもよく分からないんだ。私が彼女達に余計な情を抱かぬよう、伯爵が隠匿しているのだと思う」
「……っ、」
「今まで黙っていて……すまなかった。君を失望させたくなかったんだ。君の尊敬するハロルドでいたかった。その為に君を欺き、傷つけ続けた」
彼の言葉に、何一つ嘘の色はない。全てが事実だった。
「君を連れ出したのは、君を守りたかったからだ。これは本心だ。もう、伯爵に従うのは嫌だった。君を失うのが怖かったんだ……」
「ハロルド……様っ……」
「君のおかげだっ……ソフィア…………君のおかげなんだっ。君の優しさが、その無垢で真っ直ぐな瞳が、私を引き戻してくれたんだ。本当にっ…………ありがとうっ…………」
泣き震える彼の本心を聞いたソフィアは、声を上げて泣いた。こんなに声を上げて泣いたのは、いつ以来だったろうか。
雪が降り頻る中で、二人は抱きしめあった。そこには確かな絆があったのだ。
翌日の昼頃、やっとの思いで山を越えて平地にでた。
広がる冬の草原には、まだ溶けきらず残った雪が少しばかり積もっている。
やっと、越えた。
発熱、発汗、朦朧とする意識の中、ハロルドは馬をゆっくりと走らせた。
ブルブルと馬が泣きながら、重たい足取りを進めていく。この馬もかなり疲弊している。雪の降る山道を何日も連れ回し、時には走らせた。疲弊して当然だ。
「…………、」
後方からバタバタと音が聞こえる。
一瞬幻聴かと思ったが、振り返ると遠方から馬に騎乗した数名の兵士がこちらへ向かって走ってくる姿があった。
――あの旗は……オズマン伯爵の……。
「走れ……!」
馬を蹴りつけ走らせるが、思うようにスピードが出ない。二人を乗せての全速は長く持たないだろう。
不安げな表情を見せるソフィアを見る。
「くそっ」
ハロルドはボヤけ始めた視界を必死に動かし、周囲を見渡した。
調度良い岩場の密集地帯を見つける。
そこで馬を停めたハロルドは、ソフィアをゆっくりと馬から下ろし、岩場の陰へと連れていった。
「いいかソフィア……声を出さず、ここでジッとしていろ」
「ハ、ハロルド様……」
不安げなその表情は、今にも泣き崩れそうだった。
「奴らは素人じゃない。二人でここに隠れても確実に見つかる。私が囮となり、奴らを引き離す。もしも私が戻らなければ、一人で王都に向かうんだ」
「い、いや」
「ここを道なりに真っ直ぐ進めば王都までそう遠くは無い。馬車が通れば乗せてもらえ」
「やだ、やだ……!や――」
ハロルドがソフィアを強く抱きしめた。
抱きしめるだけで、ハロルドは何も口にしない。けれど、その気持ちは痛いほど伝わってくる。
ソフィアの空色の瞳が涙を零す。
「ハロ……っさま……」
言葉も出ないほど泣き崩れるソフィアに、ハロルドは懐から取り出した人形を手渡し、その小さな両手を優しく包むように握った。
「これは、君が持っていてくれ。私との日々を思い出せるように」
そうやって優しく微笑むと、ハロルドはゆっくりと彼女から手を離し、背を向けた。
「やだぁ……!」
「ソフィア……君の優しさ、君のその瞳には……人の心を溶かす力があるようだ」
「いかないで!ハロルド様ぁ……!!」
「ソフィア、私を信じてくれ」
振り返り微笑むハロルド。
その偽りのない言葉を前に、ソフィアは涙を流しながら口を噤むしかなかった。
ハロルドが馬の元へ戻ると、奴らはすぐ側にまで迫っていた。
――やけに早いな……本当は岩場から引き離したかったのだが……。
駆けつけた五人の騎馬隊がハロルドを囲み込んんだ。
「ハロルド殿……ようやく見つけましたぞ」
騎馬隊の隊長カタールが、ハロルドの変わり果てた身なりを見て哀れみの視線を向けてきた。彼のことはよく知っている。それなりに仲も良かった。
「ハロルド殿……家令ともあろうあなたが、なぜこのようなことを……」
「さあ……何故でしょうな」
「……、捉えよ」
カタールの指示によってハロルドは取り押さえられた。
後ろ手に拘束され、膝を着かされる。
「ハロルド殿……少女はどこへ。少女の身柄さえ無事に引き渡せば、あるいは極刑までは免れるやもしれませぬ」
「……彼女は、死んだ」
「なんと……」
「魔獣に襲われた……もうどこにもいない」
苦し紛れの言い訳だ。そんなことはカタールもわかっていた。こんな岩場の近くで馬を停め、こそこそと何をやっていたのかは想像に難くない。
見るに堪えないボロボロの服に血塗れの身体。彼が死ぬ想いでここまで少女を守り抜いてきたのだろうと察する。
「我らはオズマン伯爵に仰せつかっております。青髪のメイド見習いの少女と、ハロルド執事長の身柄を拘束し連れて参れと。ただし少女にもしものことがあった場合は、即座にその首を撥ねて持って参れ……と」
「そうか、ならばどうぞ私の首を伯爵にお届けくだされ」
「本気……なのですね」
カタールの催告にも動じず、ハロルドはただ疲弊しながらも力強い眼差しをカタールへと向けた。まるで何か訴えかけているようにも感じられる。
彼の気迫と強い想いを前に、カタールだけでなく他の兵士たちすら何も言うことは無かった。
カタールが剣をゆっくりと引き抜き、上段に大きく構えた。その刃先が向けられるのは、ハロルドの首筋だ。
「せめてもの情け……私が介錯致しましょう」
死を目前に、ハロルドは視線を彼女の方へと向け、微笑んだ。
ソフィアは岩陰から涙を流しながら、ぶるぶると震える両手で口元を押さえ付けて、今にも叫び出しそうな声を必死に押し殺していた。しかし彼女がその目を逸らすことは、決してなかった。
「何か、言い残すことはありますか」
カタールが問いかけると、ハロルドは清々しい表情で空を仰いだ。
そして、
「ソフィア…………違わないよ。嘘なんかじゃない。私はお前の父親だ。だって私はお前を、こんなにも…………愛している」
無慈悲な剣が振り下ろされた。
粉雪の舞う冷たい空気に、溢れた感情が晒される。
彼女が見届けたその言葉に、偽りの色が灯ることはなかった。




