61.正義の根幹
少年はバスに乗り、手前の席に腰掛けた。
ガスの吹く音と一緒に、扉が閉まりバスが動き始める。
窓から眺めた街の景色が次々に変わっていく。
今日は愛花たちが公園でドッジボールするらしい。勿論いつものように誘われたが、いつものように断った。本当は遊びたいけど、放課後は大事な用事があるから。
四駅ほど先で乗車した腰の曲がったお婆さんが、大儀そうに手すりに掴まってるのが目に入る。
「おばあさん、ここ座っていいよ……!僕次の駅で降りるから!」
「あらまあ、親切に。どうもありがとう」
おばあさんに手を振って、バスの扉から駆け下りた。
降りた先、すぐ目の前には栄明総合病院がある。
院内に入ると少年は早足に歩いた。
逸る気持ちがその足を速める。だが、絶対に走ってはいけない。だってそういうルールがあるから。
すれ違ったおじいさんや看護師に「こんにちは」と頭を下げる。
小学一年生でこんなにも礼儀正しい彼だったが、実のところ彼は病院そのものが嫌いだった。色味の無い壁や天井、薬品の匂い、何となくの重たい空気。どれをとっても嫌な余韻しか残らない。
そんな彼がこんな場所に毎日のように通いつめる理由はただ一つだった。
ガラガラと病室の扉を開ける。
その先には、
「あら光汰、今日もお見舞いに来てくれたの?」
いつものように笑顔で迎えてくれる母の姿があった。
名は一神弘子、光汰の実の母である。
「お母さん!見て見て……!ほら!」
笑顔で母の元へと駆け寄り、彼はランドセルから少しシワになった一枚の紙をビシッと広げた。
赤丸だらけの答案用紙の端っこには「100」の文字が。
「また100点だったよ!」
「あら凄いじゃない!頑張ったのね〜うん、えらいぞ〜」
母は大袈裟に喜んだ後、光汰の頭を撫で回した。
そんな母の表情が、光汰は好きだった。
「えへへっ、それだけじゃないよ!今朝道に迷ってるおばあさんを案内してあげたんだ!」
「お、それはいいことしたね〜」
「うん!あとねあとね!クラスであんまり馴染めてない子がいたんだけど、僕が毎日話しかけてたら、いつの間にか皆とも仲良くなれたんだよ!」
「へ〜それは誰にでも出来ることじゃないよ?流石はお母さんの子だ」
「えへへ」
「お家ではどう?ちゃんとお父さんの言うこと聞けてる?」
「うんもちろん!昨日だって洗い物手伝ったんだよ!」
「あらも〜ほんとに良い子!」
母の反応を見て、光汰は年相応の無垢な笑顔で笑う。そしてまた何時ものように、ねだるような視線で母に尋ねた。
「ねえねえ!元気出た?」
「うん、もう元気ピンピン!光汰が良い子だと、お母さんもっと元気出ちゃうな。ありがとね」
母はいつも、そう言って笑う。
今思えば、それは我が子を心配させないようにと出た言葉だったのだろうと思う。だがまだ幼い彼はその言葉を疑いも無く、ただ願望の如く信じていた。
母の笑った顔が好きだ。
自分が良い子であれば、母が笑ってくれる。母が元気になってくれる。そう信じてやまなかった。
一神光汰という人間の異常なまでの正義感は、おそらくこの頃から形成されたものだったのだ。
ある日、光汰がいつものように病室の扉を開けると、そこには顔色の悪い母がいた。
そんな母が、またいつもの様に優しい笑顔を向けてくる。
「あら光汰、また来てくれたのね」
「うん……」
血色の悪い肌、やつれた頬、カサついた唇。光汰はその笑顔から、思わず視線を逸らした。
怖かったのだ。日に日に弱っていく母が、まるで別人のように変わっていく母が、近頃はただ怖かった。
「テスト、どうだった?」
「100点、だったよ」
「そう……凄いわね。えらいわ」
答案用紙も見ないで、母は笑う。
けれどその表情は、光汰が好きだったあの笑顔じゃない。
「元気に……なった?」
「ええ、もちろん」
「いつ退院できそう……?」
「う〜ん……それはもうちょっと先かな〜。でも、光汰が良い子でいてくれたら、お母さんもっと元気が出るわ」
そうして、また母が笑う。
その笑顔を見るのが、光汰は嫌いだった。
自宅の玄関扉を開けた先で、顔を覗かせる幼馴染の愛風に言った。
「ごめん……僕今日は遊べないや」
「ええ〜また勉強ー?」
「うん……テストあるし」
「い〜じゃんちょっとくらい。いつも百点なんだから〜」
「ごめん……でもダメだよ……だって」
もしも百点じゃなかったら、母の病気が悪化するかもしれない。僕が良い子じゃなかったら、母が。
近頃は毎日、深夜まで机にしがみついて勉強をしている。この時期は父の仕事が忙しいらしく、家には殆ど帰ってこない。代わりにテーブルの上に置き手紙と一緒にお金が置いてあって、そのお金でコンビニでおにぎりを買って凌いでいる。
自分だって本当は遊びたい。けどそんなことも我慢できない奴は良い子じゃない。勉強をサボるような奴は良い子じゃない。寂しいなんて言うな。お父さんの仕事の邪魔をしちゃいけない。誰かに迷惑をかける人間は良い子なんかじゃない。そんな誰かの声が頭の中でずっと鳴り響いている。そんな気がする。
いつだって気は抜けない。張り付くように勉強する日々。早起きは欠かさない。常に周囲に気を配り、誰に対しても優しく親切に。そうあるべきだ。良い子なら、当然そうあるべきだった。
「……っ」
不意に落ちた涙が机のノートを濡らした。けれど彼はひとり、涙を拭って再び机に向かう。
辛くないはずがない。寂しくないはずがない。100点を取り続けなければならないプレッシャーも、友達と遊べない不満も、父と母のいない寂しさも、何もかも。けれどこれも全部母のためだ。自分が良い子であり続ければ、きっと母の具合は良くなるはずだ。いつかまた、元気な母に会えるはずだ。そのはずだ。
だから。
「……」
だから、目の前のこれはきっと何かの間違いで、青白い顔でベッドに横たわり、痩せ細った顔で呼吸器を曇らせる母はきっと。
「こうた……」
今にも消えそうなか細い声が、病室の空気を重くするようだった。
「おかあさん……」
「こうたが良い子で……お母さん、ほんとに嬉しいわ……」
震えるように、拳に力が入る。
何故だが胸がざわめく。
「元気に……なった?元気に、なってくれた……?」
「ええ……もちろん」
また、母が笑う。あの大嫌いな笑顔で。
「嘘つき」
口をついて零れた。
自分の吐いた言葉にハッとして、光汰は驚いて母を見た。
すると母もまた、信じられないものを見た顔でこっちを見ている。その表情を見た途端、少年の中で何かが崩れ落ち、溢れ出した。
涙が膨らみ、表情を引き攣らせて、胸の奥から押し寄せる正体も分からない感情に呑み込まれる。
「うそつき……嘘つき嘘つき嘘つきッ!お母さんの嘘つきッ!本当は元気になんてなってない癖に……!」
母を貫く様に突きつけたその言葉は、母だけでなくこれまでの自分すら否定する言葉だった。だが溢れる感情は止まらない。止めるすべなど、彼は知らなかった。
「こうた……ちがう、ちがうの……」
「違わない!お母さんはいつも嘘ばっかり……!知ってるもん! 本当は治らないんでしょ……!?」
「……っ、」
母の目から涙が滲んでいく。
その光景が尚更に、彼の感情を加速させた。
「うっ……今年のクリスマスは一緒に過ごせるって、言ったのにっ……退院はいつ出来るの……?遊園地は?!夏の花火大火はッ……?!運動会っ……見に来てくれるって、約束したのにっ……」
「こうた……」
「うそつきっ……おがあざんのっ……嘘つきぃ……」
「ごめんねこうた……元気なお母さんじゃなくてっ……ごめんねぇっ……」
呼吸器を曇らせて、母が震える手をこちらへ伸ばした。
「……っ」
しかし、彼は逃げ出した。
怖かったのだ。別人の様に痩せ細った母の手が、その手に触れるのが怖かった。良い子でなくなった自分に、その手に触れる資格などないとそう思ってしまったのだ。
それが、母との最後だった。
翌日父と共に病院で再開した母の顔には白い布が掛けられていて、隣で自分の右手をギュッと握る父の肩が震えていた。
それを見て、光汰はそれが現実なんだとやっと理解出来た。
こうなったのは、きっと自分が良い子じゃなくなったからだ。悪いのは全部、自分のせいだ。
「お父さん…………ぼく、良い子にするからっ……勉強も頑張るし……皆にも優しくするし……そしたらお母さん……また元気になるよね……?また、一緒に」
彼の言葉を遮るように、父が強く抱き締めた。
そして震える声で告げる。
「もういい……もう、いいんだっ……」
もしもあの時、母の手を取っていたらどうなっていたのだろう。母は何て言ってくれたのだろう。その機会を自ら投げ捨てたのは、他でもない彼自身。その日その行いこそが、一神光汰の人生における唯一の罪だった。




