50.修復不可能
痛い。
冷たい地面に倒れ伏し、常軌を逸した痛みの前に精一杯の感想を抱いた。
痛い。胸が痛い。鋭く鈍く胸が痛む。背中から心臓を一突きにされたのだから当然だ。
いいや違う。そうじゃない。この胸の痛みがそれほど単純であったなら、どれほど良かったろう。心が砕けるようなこの感覚には、身に覚えがあった。
――ああそうか。俺、また裏切られたのか。
遠のきそうな意識の中、悪魔のような少年の笑い声が高々と響いた。
「ヒ〜ヒヒヒっ……あ〜お腹痛い。ほんと劣等種ってバカっばっかり。こ〜んな簡単な罠に引っかかるなんて」
――罠か。やっぱそうだよな……。
まさかあの自分が、己の身より他人を優先してしまうだなんて。まさか、「誰かを信じられるかも」なんて。
つくづく思う。自分は救いようのない馬鹿で、どうしようもなく愚かであると。
呆れてものも言えない。これで何度目だ。奴らに騙されて、安っぽい愛だの友情だのに裏切られて、とおの昔に結論は出ていた筈なのに。
今でも悪魔みたいな少年の笑い声が聞こえてくる。
そりゃ可笑しいに決まってる。この上なく惨めで、滑稽もいいところ。これまで散々人に裏切られてきて、地獄を見てきて、二度と他人を信用したりしないと心に誓って。それだと言うのに、女に愛の告白をされた程度で浮かれて踊らされて、結局はこのザマ。
思えば近頃の自分はどうかしていたと思う。見ず知らずの女を拾ってきて居候させたり、赤の他人とパーティーを組んだり、女へプレゼントだなんて笑わせてくれる。
あの日の誓いは何だったのか。これまで何を学んできたのか。こんな自分に心底腹が立って仕方がない。
震えながら右手を背中に回して、心臓に突立った剣を引き抜いて、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がると同時にベチャベチャと胸元から血が地面に流れ落ちるが、胸、背中、心臓に至るまで、既に完治している。
「なっ!?お前っ、どうして……!?」
立ち上がった彼を見て、魔人の少年の顔つきが変わった。
その驚愕も当然のこと。不意打ちによる心臓の破壊。そこから何事も無かったように立ち上がる人間など、常識の範疇を超えている。
ユウは引き抜いた短刀を放り捨てて、自身の左胸を見やった。既に全ての傷は完治している。だというのに未だ、鈍く鋭い胸の痛みは続いていた。
「お、お前何をした!?神聖術か!?くそおッ!」
魔人の少年が自らの腰に差す短剣を引き抜いた。
焦りに呑まれ、飛び込んでくる。
ノロマな攻撃が、ユウの視界に映っていた。
「なんなんだよ……」
覇気のない声で呟いて、右手に握った漆黒の魔剣で魔人の短剣を弾き飛ばした。
間の抜けた顔と無防備を晒す、魔人の少年。
人智を超えた速度に、少年は思考すら追いついていなかった。
振るった黒剣が、少年の残った片腕を斬り飛ばした。
切断された魔人の腕が回転しながら宙を舞い、少年の肩から鮮血が噴き出す。
歪んだ悲鳴が響き渡った。
「うるせえよ……」
微かに零れた言葉の直後、少年の両脚がその場で切り離された。
少年が四肢をもがれた事実を知覚する間もなく、強烈極まりない打撃が、残った胴体を弾け飛ばした。
倉庫内に蔓延るガラクタを押しのけ、少年の胴は冷たい壁に激突し、地に落ちた。
少年が血を吐きながら消えそうな意識を何とか保ち、薄ら目を開けたその先には、暗闇の中に佇む圧倒的邪悪が目を光らせてそこにいた。
恐怖のあまり全身が震え上がり、上擦った声しか吐き出せない。
「……ぃ……ぁあ、い、いやだ……ぁああいやだ……」
少年は手足の無い蛆のように、本能のままに這いつくばった。
しかしユウは足でその身体を仰向けに起こし、光の無い眼光を少年へと向ける。
「た、助けて……ハデル……レジーナ……たすけ」
その声も虚しく、黒剣は少年の腹を抉った。
「しね……」
血の入り交じった悲鳴が鳴り響く。
「しね……しね……」
されど二度、三度、まるで拷問のように幾度となく黒剣は突き立てられる。そして次第に勢いは増していき、遅れて出てきた感情が徐々徐々に燃え上がっていく。
「しねっ、しねっ、死ね死ね死ねっ!死ねよッ!!死んでくれよおッ!!」
剣を突き立てる度、腹の底から湧き上がる果てしない憤怒。煮えたぎり、叫び出したい程の憎悪が渦巻き、身体中を熱く支配している。もう、抑えは効かなかった。
幾度も剣を突き刺し、その度に生温かい血が飛び散って、いつしか足元からの悲鳴は聞こえなくなり、彼が絶命したあとも暫く、剣が肉を貫く気持ちの悪い音だけが響いていた。
ようやく剣を振るう手を止めて、徐に血だらけになった手を見つめる。
――何やってんだ俺……。
頭がぼんやりして、思考がまとまらない。自分は何のためにここにいて、何をやっていたのかすら分からなくなっていて、気がつくと静かに涙が頬を伝っていた。
「…………」
そんな折、ふと視線を動かした先に彼女がいた。
今も地面にへたり込み、震えながらこっちを見ている。
ユウの全身から、抑制されていたマナが一気に溢れ出す。常人があてられれば即座に失神してもおかしくない。それほどの威圧、覇気、殺気の類である。
マレは震えた。愛する人を刺した罪よりも、魔人を滅多刺しする極悪な光景よりも、自身に向けられた本物の殺意があまりにも本能を刺激する。
ゆっくりと動けない彼女の元へと歩み寄る。
引き摺られる黒剣が、火花を飛ばしながら硬い地面に傷跡を描いていく。
薄い影が彼女の目の前で止まった。
「ユ、ユウ……さん……」
震えた声が聞こえた。
しかしもう、彼には届かない。
――殺してやる……。
頭の中に張り付いたみたいに、その言葉だけがあった。
人の心を弄び、信じさせ、この上なく卑劣なやり方で裏切って見せた。
まるで人としての尊厳を踏み躙る様な、生きてることさえ無意味と思わせる様な、ありえないほど痛烈な、説明がつかないほど猛烈な、吐き気を催すほどの暴虐である。
もはや、殺すしかなかった。それしかなかった。制御不能の感情が、この女を殺せと叫んでいる。この心を鎮めるには、この痛みを消し去るには、目の前の少女を八つ裂きにする以外に他はない。
剣を強く握り、力を込める。
まるで処刑人の様なゆっくりとした動作で、黒剣を上段に構える。
すると彼女は何かを諦めたように、受け入れたように、ゆっくりと瞳を閉じた。
その眼から涙が零れる。
黒剣が振るわれる。
彼女の頭頂部に目掛けて刃が進む。
あと少し。あと零点数秒後には、その頭を叩き割るだろう。
「――」
胸元に光る翡翠の石が微かに揺れた。
「っ、」
黒剣が彼女の頭上でピタリと動きを止めた。
剣が、いや剣を握る手が、カタカタと震えている。
驚愕した。
なぜだ。なぜ躊躇う。一振だ。たったそれだけで全てを終わらせられるのに。くだらない過去も、事実も、この胸の痛みも、全て無かったことに出来るはずだ。
それだというのに、手が動かない。
彼女との記憶がフラッシュバックする。
『ユウさん!』
頭の奥に聞こえてくる。彼女の声が。
『ユウさん……』
――うるさい。
『私のこと、信じられませんか?』
――うるさい。邪魔するな。
あの首飾りさえ無ければ、それが視界に入りさえしなければ、思い出さずに済んだのに。あのまま剣を振るえたのに。
――うるさいんだよ。全部嘘だったくせに。あの目も、あの表情も、あの時の言葉も、あの時間も、何もかも嘘だったくせに。嫌いなんだよ……大嫌いなんだよ……お前なんか……。
『好きです』
頭の中に蘇る、忘れられるはずもない光景。
「くそがぁあああああッ!!」
破裂した、腹の底でぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が溢れ出し、ユウは黒剣を地面に叩き付けた。
鋭過ぎる斬れ味が石床を貫通し突き刺さり、突風を巻き起こして静止した。
彼は崩れるように膝をつき、地面に突立つ剣を握ったまま俯いた。
「ユ……ユウさ…………」
目の前にいる少女が、震える声でなにか言おうとしている。
しかしそれを聞入れる余裕など遠に無く、俯いたまま、口をついて零れた。
「消えろよ、クソ女……頼むから……俺の前から、消えてくれ……」
それが決定打だった。二人の繋がりを断ち切る、決定的な言葉だった。
涙が床に落ちた、微かな音が聞こえた。
「…………なさ」
そして、彼女は去った。
――
冷えきった地面に座り、ユウはずっと俯き続けた。
その空間には、もう誰もいない。ここには自分一人だ。ただそこら中に用途不明のガラクタが散らばっていて、少し離れた場所に魔人族の死体が転がってて、足元には血塗れの黒剣が投げ置かれてあるだけ。
周囲に人の気配は無い。魔人族の仲間が襲っても来ない。仲間が惨たらしく殺られる姿を見て怖気付いたのだろう。自分達じゃ歯が立たないと悟って逃げたのだろう。
だけどもう、どうでもよかった。さっきまで溢れていた怒りは鎮まり、今では途方もない虚しさが胸を圧迫している。
空虚だ。
そんなとき、倉庫内の埃っぽい空気が少しだけ揺れたのを感じた。
倉庫の扉が少しだけ開いて、外の空気が流れ込んだ。軽い足音が聞こえる。
誰だ。いや、誰だろうと関係ない。もう全てがどうでもいい。全て、壊してしまいたい。
足音が目の前で止まった。
俯いた視線が見覚えのある革靴を捉えた。
「やっとみつけた」
声を聞いて顔を上げると、彼女がいた。
倉庫の窓から入り込む青白い月光が、その白金の髪を美しく輝かせる。
彼女だ。
「君、こんなところで何やってるのかね」
片腕を腰に当てて、少し草臥れた様に溜息混じりにそう言う。
「……、泣いてるの?」
見上げたユウの顔を見て、アルテは少し驚いた顔をした。
ユウは慌てて俯き直し、服の袖で目元を擦る。
「なにしに来た……」
「君が全然戻らないから探しに来たんだよ。それより、マレちゃんは」
その名前を聞いた瞬間、ユウは酷く悲しげに顔を歪めてアルテを見た。そして直ぐに表情を隠す様にまた俯く。
その様子から何かを察したアルテは、その惨憺たる周囲の光景を見渡して息を飲んだ。
何かあった。それだけは理解出来る。
「ユウ君、帰ろう」
そう言ってアルテは膝をつき、ユウの手に触れる。
その瞬間、ユウはその手を払い除け、彼女を睨みつけた。
その目は、まるで嫌悪そのもの。
「ユウ君……」
「触るなっ……おれに、近づくな……」
「ユウ君……わたし」
「もういいから、どっか行け」
アルテは首を横に振った。
「……っ、いいからどっか行けよッ!迷惑なんだよ!もう俺に、関わるな……」
しかしアルテは、首を振るう。
「んで……どうして……」
「私は、ここを離れるわけにはいかない。私は君の味方だから」
「るせえ……関係ねえだろっ……」
「君が関係ないって思ってても、私には関係がある。君が辛い時、傍にいてあげたい。手を、握ってあげたい」
「……だまれっ」
「黙らない。今の君を、放ってはおけないから」
「……っ!」
鋭く振り翳された黒剣が、アルテの首元に既で止まる。
美しい髪がはらはらと数本切れ落ちる。
睨みつけるユウに、凛と真っ直ぐな瞳が向けられる。
「これ以上俺に関わるって言うなら……ただじゃ済まねえぞ」
「ううん。しないよ。君は私に、何もしない」
「は……お前が死ねば俺が死ぬもんな。舐めんな……腕一本切り落とすくらいわけねえよ」
「それでも、しない。君は私にそんなこと、絶対にしない。信じてるから」
「……っ、」
ユウの顔がさらに歪む。
「……っざけんな。なにが、何が信じてるだっ……信じるだッ!ふざけるなッ!」
彼女の言葉に、消えかかっていた怒りと憎悪が蘇り、溢れかえる。
解き放たれた強大なマナが周囲全てを呑み込み、常軌を逸した威圧がひとりの少女に向けられた。
されど彼女は決して怯むことも無く、ただ凛と、その覚悟に満ちた真っ直ぐな瞳を向けてくる。
その瞳は、まさに高潔そのものだった。
「私は、ユウ君を信じてる」
「……ッ嘘を」
「嘘じゃないよ」
彼女は剣を握る彼の手にそっと触れた。
反射的にユウの身体が跳ねる。が、しかし身体は動かない。
「なに、を……」
「ほら、怖くない。わたし、君の手に触れられてる」
彼女の暖かいその手に、一切の震えはない。怯えや恐怖、迷いといったものが感じられない。
すると今度は、彼女が額が当たりそうなくらい顔を近づけて言った。
「ユウ君、言ってたよね。私のことを守るって。そんな君が、私を傷つけるはずない」
「……っ、」
「君が私を守るなら、私も君を守りたい。君が私を助けるなら、私も君を助けたい。ね……」
アルテが微笑む。
ユウの握る剣がカランと地に落ちる。
強大なマナが萎んでいく。
ユウの頬に涙が伝った。
「……っ、無理だ……俺はもう、誰も信用出来ないっ……お前のことだって……」
「どうして?」
「お前もいずれ、俺を裏切るに決まってる……っ、もう、無理なんだ……」
「どうして、私が君を裏切るの?」
天使のように微笑んだまま、彼女は問うた。
それは核心をつくものだった。
確かに、どうして彼女が自分を裏切るというのだろう。どうしてそんなことをする必要がある。だって自分と彼女は運命共同体なわけで、片方が死ねばもう片方も死ぬわけで、裏切りようがないじゃないか。互いにずっと傍にいて、互いが互いを守り合う。そんな状況下で、何をどう裏切ることがあるのだろう。
ユウは気づいてしまった。
つまりはこの世界でただ一人、彼女だけは信頼を許せる相手。呪いによって紡がれた、歪で強固な信頼関係。それを築ける唯一の存在であるのだ。
たった今、その事実に気づいた。しかし、
「けど、俺は」
その言い訳を遮るかの様に、アルテは彼を抱きしめた。その温もりが、冷えた身体にじんわりと染み込んでくる。
「大丈夫だよ……私だけは…………何があっても、ずっと一緒だよ」
「……ぅ、」
他の誰がそう言ったところで、信用なんて出来るわけない。けれど彼女は違う。世界でただひとり、彼女だけは。
溢れ出した涙に止めどはなく、ユウはその日初めて、彼女の温もりに縋った。




