49.残酷
部屋の中に幼い少女の啜り泣く声が、小さく聞こえていた。
部屋の中にはそれ以外に音もなく、暖かみもなく、小さいランプだけが微かに火を瞬かせて少女を見守っている。
部屋の扉が軋んで、誰かが入ってくる音がした。
少女は近づいてくるその足音だけで、それが誰なのかすぐにわかる。
泣きじゃくる少女は無抵抗のまま、背後から抱きしめられた。
「どうしたのマレ?」
優しい声で少女の頭を撫でたのはメルディー・イーベルシィ。マレの実の母であった。
「みんながわたしをバカにするの……っお母さんには耳も尻尾もあるのに、わたしにだけ無いのは変だって……」
マレトワ・イーベルシィ。彼女は兎人系獣人族の母メルディと、純人間族である父ホース・イーベルシィとの間に生まれた、獣人族と人間族のハーフである。
本来全ての獣人族は共通して、彼らの象徴とも言える耳と尾を持って生まれてくる。だが彼女の場合、人間族である父ホースの身体的遺伝がより顕著に現れた。この世に生を受けたその瞬間から、彼女には母メルディのような長い耳も尻尾も存在しなかった。
ウッズベーラの子供達は嫌いだ。どこに行ってもマレはいつもバカにされる。ウッズベーラに住む子供の大半は獣人族で、その子達に会う度にやい耳無しだの、尻尾無しだの、差別主義者だのと罵られる。
差別主義者はあなたたちだよ、なんて言ってやりたいが、言えたためしはなかった。
こうなるにも理由がある。獣人族はその昔、主に人間族によって奴隷として売り買いされてた過去がある。獣人の国、ガルダン王国の躍進と共に、世界各国で奴隷売買禁止の法が制定された今でも、裏では密かに奴隷売買が行われているのが現状。だから獣人族の間では人間族を酷く憎む派閥があるのだ。そして親がそうなら子もそうなるのは必然で、獣人族の親を持ちながら見た目は人間族そっくりの女の子はいい標的だった。
「それは辛かったわね。こっちへいらっしゃい」
言われるままに、マレは泣き腫れた顔を母に向けて、その胸に飛び込んだ。母の身体にしがみつき、いつもみたいに泣きながら顔を埋める。
そんなマレの頭を、母は優しく撫でてくれた。
そして、
「はい、できた」
母はそっと何かをマレの髪に結んだ。
「……なに?」
「鏡を見てごらん?」
言われるままに、部屋にあった鏡に目を向けると、そこには白いリボンを髪に結んだ自分が映っていた。
その真っ白なリボンの特徴的な結び目は、まるで母と同じ兎人族の耳を思わせる。
「これっ……」
嬉しくてつい、母の顔を見上げた。
「わたしっ、ウサギさんみたい……!」
「ふふっ、これでお揃いね。とっても似合ってるわよ」
母に貰ったプレゼント。世界でたったひとつの、大切な宝物。これ以上に嬉しいものは無い。
嬉しさのあまり飛び跳ねて、さっきまで泣いていたことなんか忘れて、
「お母さんありがとっ!大好き!」
とびきりの笑顔で母に礼を言ったのだった。
これは記憶だ。
幸せだった頃の記憶。
自分がいて、母がいて、夜中に仕事帰りの父に『おかえりなさい』を言って笑う。例え周囲の人間に何を言われて泣こうとも、彼女にとってこの生活が幸せそのものだった。そしてこの幸せがずっと続くのだと、幼い少女は根拠もなくそんなことを思っていたのだ。
しかし思い知った。
世界は――。
「マレッ、メルディッ!逃げろぉッ!!」
聞いたことも無いような父の怒鳴り声で目を覚ました。
目を開いて最初に目にしたものは、薄暗い部屋で鈍く光るナイフを持った数人の男達の姿だった。薄汚れた服を着ていて、醜悪で冷酷で、嫌悪感を抱かずにはいられない、そんな笑みを浮かべる人間族の男達だった。
そのうちの誰かが一言、こう言った。
「男はいらねぇ、殺せ」
たったそれだけの一言で、誰かのナイフが父の腹部を貫いた。続いて二人、三人が棒立ちの父の胸に、脇腹に、同じようにしてナイフを突き立てる。
一瞬のことで、わけも分からずその光景をただ見ていた。瞬きもせず、マレはじっと見つめていた。
数秒、世界中の時が止まる感覚にさえ陥り、理解不能を余儀なくされ、そして小刻みに震えながらこちらを睨む父の充血した目と、その青白い顔を見てようやく全てを理解する。
「にっ、げ……」
泥のような血の塊を吐き出して、父は最後の言葉さえ紡ぐ暇もなく地に伏した。
倒れた父の顔を、ただ呆然と見つめる。
半目開きで、光の失われた父の瞳と目が合っている。
状況は分かっている。父がどうなったのか分かっている。父が最後に何を言おうとしたのかも分かっている。当然、今どうするべきかも。
しかし体が石みたいに固まって動かないのだ。頭が考えることを拒否している。
目の前の悪魔達の黒いナイフが不気味に光って見える。
腕の力がだらんと抜けて、マレは全てを諦めた。
もう何もかも終わり
「あ゛あ゛あぁぁああ――――ッ!!」
金切り声が鼓膜を叩いた。
母メルディが男達に飛びかかったのだ。
「うぉっ!?な、なんだこいつっ!」
母は血走った目で手前にいた男に掴みかかり、ナイフを押さえて髪を引っ張り、力の限りに抗っている。
母がこちらへ振り返った。
「逃げなさいマレ゛ッ!!」
そのとき、生まれて初めて見た。母の剥き出しの本能。その表情が恐怖でしかなかった。マレの知る母とは全く別の生き物に見える。こんな母は見たことがない。顔も声も、まるで別人がそこにいる。
その鬼迫にあてられて、震えは更に加速した。
マレだって分かっている。逃げるのだ。今すぐに。父が言ったように、母が言ったように、そうすべきなのだ。今なら男達が油断している。今ならそこの扉から部屋を抜け出せる。走れば。
しかし足が動かない。
「はっ……はぁっ……はあっ……」
胸を押える。呼吸が乱れて声が出る。妙な汗が全身から吹き出してきて、手足がぶるぶると震える。
無理だ。
「マレッ!早くッ……!!」
無理だよ。
母の壊れそうな叫び声も虚しく、そして呆気なく。
「あっ」
小さく悲鳴を上げて母が倒れた。
「バ、バカ野郎ッ!兎人の女は殺すな!」
「け、けどこいつ、力がっ……」
母の着ている白い寝巻きが、見る見る黒く染まってゆく。
「お、おかあ……さ……」
今頃になって、石のように重たい足が動き始める。
震える足で、ゆたゆたと横倒れている母に近づいて顔を覗き込んだ。
そこには額に汗を滲ませ、しかしいつもの優しい目をした母が笑っていた。
「マ、レ……」
「お、おかあ、さん……?」
母はマレの顔に手を伸ばし、その頭をぐっと引き寄せた。
マレの頬に赤い指跡が掠れ、鉄の匂いが滲む。
「マレ……強くて優しいわたしの子…………私とお父さんの、自慢の、子よ……」
今にも消えそうな声で母は言う。
「いい、マレ……この世界は、女神様は、あなたが信じる限り、きっとあなたに幸運を与えてくださる……だから、どんなに辛いことがあっても、絶望してはダメ……」
「おかあ、さん……っ……」
零れた涙が、母の頬にポツリと落ちて線を描いた。
「いつか、いつか必ず……っあなたを、心から信じ、愛してくれる人と出会える、から……だから……幸せを……あきらめ、ないで…………」
母の手から力が抜けていくのが分かる。
「うぁあっ……おかあ゛さん……!!」
「マ、レ……あい、して……」
自分を包む母の手が離れたその瞬間、幼い少女は思い知ったのだった。
世界はどうやら残酷なようで、神なんていなくて、一片の情けも容赦もないらしい。
*
湿ついた空気。カビと埃の匂い。
長らく夢を見ていた気がする。目を開けるには最悪の気分だった。
「……レ…………マレっ!」
名前を呼ぶ声が聞こえて目を開けると、彼がそこにいた。
「ユウ、さん……?」
「マレ……!」
名前を呼ぶと、ユウの強ばった顔が少しだけホッとしたように緩んだ。心配してくれていたのだろう、とマレは思う。彼はそういう人だ。誰かを想いやれる、優しい人だ。長い付き合いじゃないが、マレには分かっている。ただ、ほんの少し臆病なだけ。
「ユウさん、ここは……?」
「何かの倉庫みたいだ。マレはフードの奴らに捕まって、ここまで連れてこられたんだよ」
フードの奴ら――覚えている。橋の上で突然襲いかかってきた黒い外套を羽織った連中だ。
マレが周囲を見渡すと、雑多な物品の数々が埃をかぶって散乱している。それらの中には、汚れはあるが多少高価そうなものも紛れてる。どこぞの商人や貴族によって何年も放置されてきた廃倉庫といったところだろう。
「とにかくここを出よう。ここにいたらまたいつ襲われるかわかったもんじゃない」
ユウはスっと立ち上がると、辺りを警戒するように見渡したあと、腰から黒剣を引き抜いた。
そんな彼の背中を見つめながらマレも立ち上がるが、目眩がして足がよろける。
崩れかけた体勢をユウが支えてくれた。
「大丈夫か?」
「すみません……」
頭痛がして、マレは血の気の引いた額に手を当てた。
「……、」
気づいた。
手の甲に見たこともない黒い紋様が張り付くように刻まれている。
なんだろう、これ。
反対の手で触れてみるが、痛くも痒くもない。擦ってみても取れないし、単なる汚れでは無い。
立ち上がると、ワンピースの裾の片側がスリットみたいに破れている。今日の日のために友人の意見も借りて買った服だ。気に入っていたのに。
――あれ……。
また気づいた。腰のベルトが重い。
当然だ。だってベルトには小さなポーチとあの短刀が差してあるから。
ゆっくりと悟られぬよう、腰に手を持っていく。
うん、ちゃんとある。
手触りだけで短刀がちゃんとそこにあることを確認する。
――上手くやらなきゃ……。
何を。
なんだろう。何か変だ。頭の奥にずっと引っかかってることがある。何か大切なことを忘れている気がする。
「マレ、歩けるか?」
「ユウさん、わたし……」
「話はあとだ。早くここを」
「逃がさないよ」
広い倉庫内に少年の声が反響した。
声のした方へ目をやると、そこにはいつの間にか一人の少年が立っていた。
倉庫の暗闇の中でも判別できる赤茶色の頭髪。そこから捻れるように生えた二本の角。そして闇を纏ったような不気味なオーラ。その様相はまるでおとぎ話に出てくる魔人族のようだ。
マレの身体がビクッと震える。
本能が直感した。彼がそうなのだと。
「てめえ……あの時の魔人族か」
ユウが少年を知った口振りで睨みつけた。
「お前には腕を斬られた借りがあるんだ、絶対に逃がすもんか」
そう言った魔人の少年には片腕がない。ユウと魔人の少年は一度戦ったということなのだろうとマレは理解する。
「ユ、ユウさん……」
「下がってろマレ……!」
ユウはマレを庇うように剣を振り、横目でこちらへ視線を向けて言った。
「大丈夫だ。君は俺が守る」
そう囁いた彼の横顔にマレの心臓は高鳴り、そして思う。
ああ、やっぱり好きだ。
その横顔も、落ち着く声も、臆病で綺麗な瞳も、心優しいところも。本心から思う。きっと彼は運命の人だ。母の言っていた人はこの人だ。マレは勝手にそう思っている。彼さえいれば、どんな苦難だって乗り越えられる。そんな気がする。
「ユウ、さん……」
溢れる感情を抑えられない。彼に守られてることが、その優しさを一身に受けられることが、これ以上ないくらい嬉しい。
今すぐに抱きしめて、彼に愛していると伝えたい。それ程に彼が愛おしい。
手が動いた。
半分以上は無意識に、腰にある短刀に右手が伸びていた。
ゆっくりと抜かれた短刀のその切先が、正面を向く。
もう、とっくに気づいている。こんなのはおかしい。何でこんなことをしてるのか、自分自身でもまるで説明がつかない。
体は勝手に動くのに、本能はそれを拒絶している。だから反発するみたいに全身がぶるぶると震えている。
「……っ」
握られた短刀がガタガタと震え、自分を庇い立つ彼の背へと少しづつ近づいていく。
――な、なんでっ……。
ありえないことだ。考えられないことだ。たった今、自分を守るために身を挺する彼を、心から愛する彼を、この手で殺そうなどと。
しかし震える手は止まらない。止まってくれない。意思とは関係なく目の前の無防備な背へと近づいて行く。
この暗闇でも薄らと、刀身が淡く光を帯びている。素人目にも名刀なのは間違いない。この短刀は人ひとりの命を容易く刈り取るだろう。
――だ、だめ……っお願い……。
声さえ出せない。
必死に抵抗しようと剣を持つ手に力を込めているが、まるで言うことをきかない。
汗が吹き出し、涙が滲み、全身を恐怖が支配する。
――ダメ。嫌だ。お願い。お願いだからッ……。
しかし最早、抑えは効かなかった。
「――――ッ」
身の毛もよだつ、恐ろしい音が聞こえた。
肉を切り裂き骨を破壊する感触が手元にまで伝わった。
それでも構わず、鋭敏な刃を奥まで力任せに捻じ込んだ。
「ぐはッ……」
血が吹き出し、生暖かい血がマレの頬に飛び散った。
まるで時が止まったかのよう。
マレの握る短刀は確かに、背後から彼の心臓を深々と貫いている。その信じられない光景が今、マレの瞳を通して、明確な事実としてその場にあることを伝えている。
「マ、レ……おまっ……」
血を吐き痙攣しながら振り返った彼と、目が合った。
いつかの記憶がフラッシュバックして重なる。
充血しきった彼の目に気圧されたか、マレの足は突然に力を失い数歩後ずさった先で崩れ落ちた。
その数秒後、目の前の彼もまた、冷たい地面に力なく膝を折り倒れ伏した。
うつ伏せに倒れた彼の周囲に、黒い血溜まりが見る間に広がっていく。そんな光景を前にマレはただ、尻餅を着いてへたり込み、目を泳がせることしか出来ない。
「ち、ちがっ……わ、わたしは……」
ようやく封じられた口が開いた。
しかし言葉が見つからない。
視点が安定せず、視界が揺れる。
目に映る光景を認めたくなかった。
「ちがっ……わ、わたしは……こんなっ…………」
こんなはずじゃなかった。
こんなことをするつもりはなかった。
こんなことになるなんて。
何を言ったところで、自分のやった事実は変わりようがない。
目の前で地に伏す彼。背中に突き立つ血濡れた短刀。その深すぎる傷口から、血溜まりは今も広がり続けている。
「ち、ちがうの……わ、わたしは……」
言い訳の言葉すら思いつかない。涙さえ途切れた。
この期に及んで彼女は意味の無い言葉を探すばかりで、自らの罪さえ未だ受け入れられずにいた。
「ふふっ……ふははははっ!あっははははは――ッ!」
悪魔のような笑い声が聞こえる。
魔人族の少年が、歪んだ笑みを浮かべて大笑いしている。
ああ、全て思い出した。
ここへ連れてこられた時から、全ては仕組まれていた。魔人族の仲間に呪いをかけられた。彼を貫いた短刀も、魔人族から渡されたものだった。
全て、彼らの思惑通りだったのだ。
「ちがう……ちがうのっ……」
ただ呪文のように呟く。
また、まただ。また私のせいで、誰かが死ぬ。この真っ赤な血を見た事がある。この光景を前にも見た。これは全て、自分のやったことだ。
「ひどい……ひどいよっ……」
今更溢れ出した涙は、薄汚れた地面を濡らしてゆく。
「こんなのっ、ひどいよ゛ぉ……!」
彼女はとっくの前に知っていた。
この世界は、息も出来ぬほど残酷なのだと。




