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Frantically Flighted To You.

 シュー・チェラの教会はいまや霞んでいる。比喩ではなく、霧が漂うように建物の輪郭をぼやけさせているのだ。


 清い場であるはずの場に魔が集いはじめたのはいつだったか。奇跡の水が枯れてもう何年になる。魔症患者は増える一方で、怪我の治癒だけ施しても意味はない。


 降臨した待望の聖女が世界を回りはじめたのが救いだ。


 プライリー平原から聖水を持ち帰り、教会備え付けの瓶に貯める暇もなく配布した。先ほどまた聖職者が聖水を汲み取りに出たばかり。


 教会の奥にある空っぽの大きな水槽。その名の通りお飾りの聖杯が台座に乗っている。模造品で何の役にも立ちはしない。

 女性牧師(パストレス)はただの水でゴブレットを拭き清めた。


 建物の外で男女が騒いでいる。

 ほんの二、三日前に一人の魔症患者を担いで連れてきた彼らは、旅の途中に魔獣の群れに襲われたと証言した。その患者は集団を守り切って倒れたという。近くの教会に運ばれた彼の魔症は重い。治癒術をかけてはいたが、魔症で傷の正確な深さがわからずにいた。


 旅人たちは彼の命の決着が着くまで見守りたいと教会の手伝いや哨戒をするようになった。

 その男性が息を引き取るのは今日か明日になりそうだ、と憂鬱になる。このところ毎日のように新しい墓を増やしている。他の患者と分け合って与えた聖水で浄化できるのはわずかなもので、祓った魔と引き合って集まる魔とが拮抗していた。そうなっては人の生命力は耐えられず魔症は深刻化する。


 布巾を干して拭き掃除を終えた。面会に来ている患者家族の心の平穏のために、外の集団には静かにしてもらわねば、と牧師は外に出ようとした。

 

 わずかな扉の隙間から、ひんやりとした空気が漏れいでる。早朝とはいえ、身を震わせるような寒さではない。それよりも清浄さが優っていた。


 立つのは一組の男女。いや、聖女と護衛。平民のような服を着ていようとも、聖杯を持つ女性は世の中に一人だけ。


 銀の水を滴り落とす聖杯を両手で握りしめて、瞳からは涙がこぼれ落ちそうだった。雰囲気はこんなにも神々しいのに、表情は迷える子羊のような風体がなんともちぐはぐだった。


「私に魔症を浄化させてください」


 その背後で翼を生やした銀の馬が羽ばたきで教会内外の澱んだ魔を吹き飛ばす。霧は晴れた。

 一欠片の疑念も抱かず、魔症患者を寝かせた治癒室へ案内した。聖女は患者を選ばず、丁寧に端から順に浄化していく。


 危篤だった患者を着実に快復させていく聖女は、太陽の光がなくとも煌々としていた。


 一人の魔症患者を前にしてついに涙を落とす。その瞬間は凡庸なただの女性に見えた。無垢で、痛わしげな少女だった。

 魔の浄化により青年の傷の具合がやっと現れた。血こそ流れてはいなかったが、浅くはない。


 剣を()いているために護衛だと思われていた青年が、おもむろに患者の傷に触れた。わずかな時間の経過とともに怪我が癒えていく。


「ロックリッジさま。あなた治癒術が使えたの……ですか」


 涙の跡を残しながら呆気にとられる聖女に、青年は子犬のように笑った。


「レジー、でいいですよ。いちおう治癒術士(シャプライン)としての修行もしたことあったんですが、おれは剣を振るのが好きだったもので。これでシャーロさんの治癒も浄化も終わりました。あとは気力次第ですが、お強い人なのできっと助かりますよ」


 がしりとレジーの腕を掴む者がいた。

 直前にカリナが浄化を行った隣のベッドの患者の身内だった。浄化の最中は感謝の言葉を告げていたのだが。態度が豹変していた。


「うちの人にも、治癒をお願いします……どうか」


 レジーはベッド脇に立ったけれども、腕を持ち上げようとはしなかった。治すべき外傷はない。魔症も残らず祓われている。


「この方は、もうこの世の苦しみから解放されました」


「そんな……傷も塞がって、魔症も浄化されたのになんで?!」


 今度はカリナに詰め寄った。


「あなたが治癒してよ。そうしたらこの人も目を覚ますわ。聖女さまなら、すごい力があるんでしょう?」


 聖職者が治癒術を使えるからか、その最上位にある聖女はもっとすごい術を使えるのだろうと考える下民は多い。

 真実を伝えるのがこんなにも辛いなんて。


「残念ながら、私は治癒術を使えません」


「嘘でしょ。そんなんでなにが聖女よ。なんで他の人は助かって、うちの人だけ……」


 彼女の爪がやわらかい腕に食い込む。


「奇跡を起こせるのが、聖女なんじゃないの」


 唇を震わせて、ごめんなさいと言いかけたときに、カリナの背中から伸びるものがあった。男の手が聖女に絡む腕を引き剥がす。


「……ご婦人、この方への不義理は許しません」


 魔を祓った恩こそあれ、聖女が命を奪ったわけではない。

 ぜぇぜぇとガラガラの声で、ふらふらの足なのに、肩を抱いた女に寄りかかることもせず立っている。しかしそれも限界を迎えた。


「シャーロ? 無理しちゃだめ」


「レジー、肩貸せ」


 言ったきり、倒れた。意識を失ったシャーロをレジーが背負ってベッドまで運ぶ。


 カリナは嘆く婦人の前で、それ以降の涙を(こら)えた。


「私が来るのが遅くなったために……いいえ、私の力が及ばず、すみません」


 嗚咽している方からの返事はない。

 聖女は彼女と自身を重ねているのではないか。一日、いや数時間でも聖女が早く駆けつけていれば、かの夫は助かったかもしれない。逆に聖女がさらに遅かったならば、シャーロと呼ばれた青年も助からなかったかもしれない。その瀬戸際はここで口論しても栓なきこと。


 床に座り込む、似ているようでいて対照的な女性たちに、牧師は胸を痛めた。床に平伏している女を起こして、別室へ連れ出す。

 女はぽつぽつと溢す。

 わかっていた。もうあの人が取り返せないことは。間に合わないとかではなかった。最後をそばで看取れることが幸いなのも。

 牧師はそうですね、としか返さなかった。


 横たわる男に別れの言葉を口にして、聖女は彼の髪を撫でている。青年の髪飾りと、聖女の手首に巻かれたリボンは、全く同じ色味をしていた。

 詮索するのは野暮というもの。

 牧師は見過ごした。



 外では無邪気に聖獣と戯れる子どもたちがいる。

 ペガサスに加え、銀の模様をした首の長いジラフがいた。

 人間が好きなのか、サービス精神が豊富だ。魔症していた子どもたちはみな軽症だったため、浄化を受けてすっかり元気を取り戻していた。交代で銀の体を撫でたり、大人の手を借りて背に乗せてもらったりしている。子どもの相手をしていた見慣れない男女は、聖獣に騎乗して聖女を迎えに来たという。


 聖女は水槽を聖水で満たして早々に、立ち去るために挨拶をしてくれた。


「突然来て騒ぎを起こしてしまい、すみませんでした」


「こちらこそ、聖女さまにはあのようなことになり申し訳ございませんでした。どうぞ先ほどのことはお気に掛けませんよう。あの方は気が動転されていたのです」


「わかります……わかってます。ありがとうございます」


 その受け入れようは聖職者としてよりも、看取る家族の心情に寄り添っていた。


「貴重なお力をお使いになっての浄化をありがとうございました」


 女性牧師は深く頭を下げて、聖女を見送った。



Frantically Flighted To You.

(必死にあなたの元へ)



聖獣でアニマルセラピー。

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