4-1 漂流
恒星暦569年8月10日
惑星メダリア
閉所に閉じ込められた場合、トイレの問題は大きい。
もちろん、空気、水や食糧の問題もある。娯楽の問題も忘れてはならない。
空気については循環清浄装置がある場合、ある程度無視できる。二酸化炭素を酸素とカーボンに分離できる循環清浄装置が実用化して以来、かつて潜水艦や宇宙船乗りが困っていた問題はエネルギーが続く限り解決されている。
水は12時間飲まなくても酷暑の場所でも無い限り喉が渇いたなぁ程度で済むし、空中の水蒸気を吸収し液化する装置が生きている限り不快感という店でも問題は少ない。もちろん、これもエネルギーが続く限りだが。
食糧については、人間1週間食べなくても死ぬことはない。
そうなれば、問題はトイレだった。トイレを12時間我慢することはかなりきつい。小だけなら、触覚と嗅覚に若干の不快感があるが、もう一つ、となればそうは言ってられない。
軍人は、訓練をしていた。機動歩兵は、通常毎月一回は24時間連続で簡易装甲服を着用して閉所に籠もる訓練をする。簡易装甲服のエネルギーが尽きるまで休むことなく連続して戦い続けるためだ。大も小もという状況でも闘える精神力を養い、尾籠な状況での経験を積む。年に一度希望者だけが実施する艦隊士官達はそれを「機動歩兵の雪隠詰め」と嘲っていたが、惑星メダリアでの経験は多くの機動歩兵達にその訓練の重要性を確信させていた。
もちろん、その中には機動歩兵をしていたころのケンタは含まれていない。ケンタとしては、あのような経験は二度としたくない。暖かい布団で寝たいし、トイレもすぐに行きたい。風呂も入りたい。天空の見える広いところは真っ平だが、狭くて暗いところも勘弁して欲しい。
何時ものようにケンタは少数派だったので、機動歩兵の頃は沈黙を守っていたし、憲兵となってその手の訓練から解放されたことを神々に感謝することは表だってしていない。憲兵は年に一度実施することになっているが、特段の事情があれば実施しないことができる。
だが、民間人はそうではない。教育機関での軍事教練、民間人の体験入隊において「機動歩兵の雪隠詰め」は実施禁止事項として要領に常に項目として記載されている。軍と民間との架け橋である予備役の兵士達についても年次招集訓練の際、反軍思想蔓延防止のため、機動歩兵であっても実施は希望者だけとなっている。そして、かつて経験したことのある予備役の兵士達が希望することはない。
「もう、最低。」
サトコは、救難カプセルの中でもう何度目かになるか分からない台詞を呟いた。三半規管を刺激する感覚については、救難カプセルに入った際の薬物注射により麻痺させられている。
このため、サトコを不快にさせているものは、それ以外の状況だった。
大気圏突入を前に、事前に言い含められていたとおりトイレには行っていた。だが、それも大気圏突入前後を乗り切るための手続きだった。半日我慢してきたが、我慢にも限界がある。
あの時、近くに知り合いがいたら、サトコは恥ずかしさのあまり憤死していたことだろう。いや、今でも恥ずかしくて意識を手放したい。
「もう、最低。」
悪臭は何というか隠し切れていない。
だが、それより不快な感覚は触覚だった。微妙な湿度。息が跳ね返る圧迫感。一部に残る排泄物の感触。身体を洗えない事による不快感。
頭がおかしくなりそうだった。どこかで似たような経験をしていなければ頭はとっくの昔におかしくなっていただろう。
「もう、最低。」
サトコの気分を悪くさせていることは、身体的不快に加え、どこで似たような経験をしていたか思い出せないことだった。
何しろ、救難カプセルの中で宇宙服を脱ぐこともできないサトコにはやることは何もない。時間だけは沢山ある。救難カプセルの中で意識を取り戻して周囲を確認した際、個人用携帯情報端末の書籍欄に教科書しか入れなかったことをこれほど後悔したことはない。
色々好きな本や映画があったはずだったのに、去年より前のコンテンツがなく、大叔父宅では好みのコンテンツを見つけることができなかった。このため、個人用携帯情報端末に好みのコンテンツは入っておらず、宇宙船内では船内限定で供給されるコンテンツを眺めていただけだった。ちなみに、船内限定コンテンツは法的には船内ではない救難カプセルの中で見ることは出来ない。
「何か良いことないかな。」
揺れているので、きっとこの呪われた惑星の海に落下しているはずだ。
「この惑星と来たら、コルドバ大陸以外にまともに大陸もないから…」
サトコは、自分が独り言でこの惑星を呪われたと形容したことに驚いた。自分はこの星について何の知識も無いはずだ。まして、この星について形容詞をつけるほどの思い入れなど無いはず。
隔靴掻痒で色々思い出したい、だが思い出したくない、そんな感情を認識し、サトコは混乱した。
別のことを考えた方が良い。
頭のどこかで自制する声が聞こえる。だが一度考え始めたことについて、止めることはできなかった。
「あー、頭痛い。」
普段なら、色々な誘惑があり、考えることを止めることができたが、今は何もなかった。わざわざ考えを止めるために教科書を開く気にもなれない。
「幾ら酔い止め打たれていても、この中で教科書開いたら、確実に気分が悪くなる自信がある。」
教科書、という単語を拾い、宇宙服のバイザーに色々なタイトルが表示される。実際、揺れる救難カプセルの中で偏微分方程式の解法の解説が流れ出すと、悪臭と相まって急速に気分が悪くなってきた。
目を閉じて暫くすると、脈拍や呼気からバイザーから教科書が消える。
「ああ取りたい。誰かヘルメットの取り方教えてくれないのかなあ。」
もうこの悪臭には耐えられない。
「取りたいのですか?」
独り言に宇宙服積載のAIが反応する。男性の声だった。
宇宙服にもAIが積んでいたんだ。でも、今までどうして反応してくれなかったの?何かキーワードがあったのかな。
「取りたいに決まっているじゃない、何時助けが来るの?」
サトコは吐き捨てるように言った。少し気が楽になる。今までもう最低、と繰り返していたときには返事をしてくれなかったAIが返事をくれるだけでもかなり違う。
「回答します。」
宇宙服のAIはそんなに性能は高くないらしい。
「ロック解除、左方向に60度回すと外すことができます。ただし、ヘルメットを取ることは勧めません、現在、本救難カプセルはコルドバ大陸から580海里南方に存在、毎時2海里で西側に移動しています。あと5時間で低気圧の影響を…」
「そんなのはどうでもいいから、何時助けが来るの?」
サトコはAIを遮った。
「不明。本救難カプセルは現在地上用救難信号発信中、半径100海里であれば信号を受信可能。」
「なら、早く助けを呼んで。」
ろくに回答を確認をせずにヘルメットを脱ぎながらサトコは命じた。ヘルメットを取ると大きく息を吸う。それから救難カプセルの窓を見て、カプセルにへばりつく軟体動物らしき姿に悲鳴を上げ、波の衝撃で頭を打ち、意識を失った。




