28.存在
気が付くと、アスールは真っ白な空間に浮いていた。一歩踏み出すと地に足がついたようで、確かな感触。
一歩、また一歩と進む。
ふと顔を上げると、視線の先に黒い渦のような煙を見た。その中心に人影がある。
──カリマだ。
銀灰の瞳は苦痛に耐えるように閉じられている。カリマは身体をその黒い煙に巻かれ、身動きが取れないでいた。
あれを斬ってしまえば──。
そう思うと手に剣が現れた。
王ガラノスから下賜された剣。代々引き継がれてきた王家の宝の一つだと言う。今では同じ製法で打つことができないのだと教えられた。
どうしてそんな大切な剣を自分に渡すのか。
それを不思議に思い問えば、ガラノスは微笑んで。息子を託す相手には、相応の力が必要だからと言った。
セリオン。俺は君を守れるだろうか…。
ここでカリマをもとに戻さなければ、果たすことができない。
このままにしておけば、カリマは心身共に魔獣と化していつか人々を襲う。国を荒らすだろう。
カリマ。今、自由にしてやるから──。
近づき剣をふるう。
黒い煙の様なそれは、斬った途端、あっけなく霧散した。
魔の力はシアンを完全に支配できていなかった。既にその力は残り香のようなもので、力はなかったのかも知れない。
「カリマ…」
声をかけると、解放されたカリマがゆっくりと目を開いた。
懐かしい銀灰の双眸が、そこにあった。
✢✢✢
「アスール…?」
「良かった…。もう、大丈夫だ」
目の前にアスールがいて、笑っている。カリマの頬に手を触れさせると、いつかの傷跡に触れ。
「──これで元に戻れる。本当に良かった…」
目の端に涙が浮かんでいた。
「俺、は…?」
「魔物に取り込まれていたんだ。でも、これで斬った」
アスールは手にした剣を軽く持ち上げて見せた。それは王ガラノスから下賜されたものだ。
「奴は消えた。二度と現れない。カリマは自由だ。もとに戻れる」
「…そう、なのか」
「ああ」
嬉しそうに笑む。
「それで──どうしてアスールはここに?」
アスールは肩をすくめると。
「俺も実際、ここがどこかは良く分からない」
そう言って、周囲を見渡す様にした。辺りは霧に包まれた様に真っ白な空間だ。
「──でも、シアン様の時もあったんだ。同じことが…。だから、カリマに触れられればきっとここに来られると思って…。お前がこうなったのも俺の責任だ。だから、目が覚めて何があっても、自分を責めるな? ──俺は、ここにずっといるから」
「ここに?」
「わかんねーけど、ここはお前の中だ。きっと。──これで、ずっと一緒だな?」
アスールはそう言って屈託なく笑うが、カリマは理解できなかった。
「なぜここに? 元の世界にはお前も俺と一緒にいるんだろう?」
「…お前とは、一緒にいる」
と、周囲の光が増した気がした。アスールは一旦俯き、再度顔を上げると。
「最後に言っとく。俺は──」
アスールはカリマの頬に両手を添え、その唇に口づけてきた。──確かな温もり。夢とは思えなかった。
アスールは頬に手を添え、カリマの瞳を見つめながら。
「…俺は、カリマが好きだ。多分、ずっと好きだったんだ。本当は…。ずっとずっと前から…」
「アスール?」
「これが本音だ。──さあ、もう行けよ…」
アスールはカリマの胸元を軽く押し返した。周囲の光が更に増し、目も明けて居れらないほど眩しくなる。
「カリマ…。覚えておいてくれ。俺はずっとお前の中にいる──」
だから、自分を責めるな。
✢✢✢
ルベルがアスールの後を追って暫くして、耳にしたこともない咆哮を聞いた。獣とも違う。
「──なんだ?」
すぐに部下を率いて声のした方向へ急ぐ。途中、視界の方向に不自然に折れた灌木があった。
「待て!」
誰かの通った気配だ。まだ新しい。
アスールか?
その先で森が切れている。進んだ先は急峻な崖になっていた。
その谷の底を覗き込めば、人影が見える。茂みの中には裸身の男が横たわっていた。そこだけぽっかりと淡く光って見える。
「…カリマ?」
どうやら落ちたと思われるアスールの姿はどこにも見当たらない。
とにかく今はカリマの救出が先だ。ルベルは部下とともに下りられそうな箇所を見つけると救助に向かった。
カリマは自身の邸宅の寝台の上で目覚めた。
見慣れた白亜の天井。窓から差し込む淡い光。以前となにも変わらない風景だった。
人に──戻っている…。
カリマは自身の手のひらを見つめた。
その後の医師の診断でも特に異常は見つからなかった。だが、胸に痛みを感じる。大切なものを失った、その喪失感があった。
カリマは、森の奥で倒れていた所を、ルベル達に救出されたのだと知らされた。
ネラの森での魔獣捜索は打ち切られたと言う。何処を探してもその姿は認められなかったからだ。
それは──そうだろう。
カリマは自室の窓枠に寄りかかり、視線を目の前に広がる森に転じた。
その魔獣は、自分だったのだから…。
セリオン自ら指揮を取って討伐に出たが、あるのは痕跡のみ。仕方なく軍を配備し、いったん、城まで戻った。
その後も何も見つけられず、ひと月ほど行われた捜索も打ち切られたのだ。
カリマが発見されたのは、その森の奥だった。
すぐにセリオンに知らされ本人と確認されたが、意識が戻らず、そのまま邸で様子を見ることとなったのだ。
意識が戻ったと知ると、セリオンが直々に会いに来た。アスールの行方を尋ねに──。
「アスールが言っていた…。お前を元にもどすと。そう言って危険を覚悟で出ていったんだ。そして、アスールは戻らず、お前が帰ってきた。──何があった?」
自室で休んでいたカリマは、静かな眼差しでセリオンを見返す。隠すことはできない。これは実際にあったことなのだから。
「──俺は確かに魔獣だった。シアン様を倒した際、魔物を受け入れた。瀕死のアスールを救うためには仕方なかった…」
「──そうか…」
「…その後、魔物に乗っ取られる前に、人里を離れた。隠れたつもりだったが、結局見つかって…。アスールが助けに来た。正直嬉しかった。しかし、元に戻れるとは思わなかった…」
外の景色に目を向ける。窓際を鳥が鳴きながら横切った。
「アスールはお前に会えたのか?」
「ああ。会った。それで──」
カリマは自身の両手を見つめる。
「この手で捕らえて、そのまま──自身に取り込んだ」
「取り込む?」
訝しむセリオンを、カリマは黙って見返す。
「腹部にできた口に、放り込んで取り込んだ──」
「──っさま!」
席を立ったセリオンが詰め寄ってカリマの胸ぐらを掴む。
「──言い訳はしない。それが事実だからだ」
「アスールを食らったのか!」
「…正しくは自身の一部にした、だ。魔獣になった俺は、獲物を取り込むことで力を得ていた。身体が大きくなればなるほど、大きな力を必要とした…。魔物がそれで力を蓄えようとしていたのだろう。魔物の感覚で言えば、アスールは──とても魅力的な獲物だった…」
あの時。
うっすらと残っていた意識で、そう感じ取っていた。
手の中のアスールを逃したくないと思った。魔物が獲物を欲するのと、自身がアスールを求める気持ちとが重なったのだろう。
アスールをこの身体に取り込んだ。命を奪ったのだ。
「──このっ!」
セリオンの拳が左の頬を打つ。カリマは床に倒れこんだ。
「…セリオン。処分はいくらでも受けるつもりだ。どんなものでもな…。それだけの事をした。お前の手で今、斬ってくれても構わない」
「──そう、されたいんだろう?」
「……」
「……しばらく謹慎を言いつける」
そう言い捨てると、セリオンは一度も振り返らずその場を去った。
目覚めて暫くして落ち着くと記憶が蘇った。アスールが言った言葉。自身と共にいると言ったアスール。
俺はあの時──。
アスールを腕に抱いたことは覚えている。
誰にも渡したくないと、そう思った時には、すでにアスールは自身の身体に取り込まれていた。
アスールを、この手で──。
目を落した先の手の平を握り締める。
──俺は獣だ。
唯一手をかけた人間がアスールだった。
それは、カリマが一番大切に思っていたもの。それを自身で葬ったのだ。
けれど、アスールはそれを覚悟でカリマに近付いた。触れればシアンの時と同じように、カリマ自身と話せるからと。
消えかけるその姿が言った。自分を責めるなと。
それは──無理だ……。
守りたかったものを手にかけたのだ。どんな理由があっても通らない。
アスールが命懸けで救った命を、自ら滅する事は出来なかった。どうせなら、激昂したセリオンに斬って欲しかった。その方がどんなに楽になれたか。
アスールの言葉が蘇る。ずっと一緒だと。
あれはこういう事だったのか…。
口づけられた口元に自然と手が行く。自分を好きだったと語ったアスール。
頬に一筋涙が伝う。アスールがそっと自分に寄り添う気がした。
何もかも幻だったらいいのにと、強く願った。




