27.暗闇
アスールが来た。
カリマは暫く水場に佇み、アスールたちが去った方向を見つめている。
かなり離れた場所にいたが、すぐにわかった。感覚が恐ろしく研ぎ澄まされている。ことに思うものに対しては敏感だ。
魔物の声はあれ以来、しない。息をひそめ奥底に潜んでいる様だ。
身体は魔物に乗っ取られても、精神までは侵されていないと言う事か──。
アスール達はきっと偵察に来たのだろう。ここは村にも近い。誰かが自分を見かけて報告したのか。
ここを去らねば──。
うかつだった。獲物が捕らえやすかった為、人里に近いこの水場を利用していたのだが。水場は他にも数カ所ある。ここにこだわらなくとも十分事足りた。
アスールたちは追ってくるだろうか。
ふとした拍子に、水面に浮かぶ自身の姿を見ることがある。あまりの異形に、自身でも恐怖した。
排除しようとするか──。
ここまで来ては、そうなるのもやむを得ないと思った。
もう自分ではどうにもならない…。
シアンがアスールの声で戻った様に、カリマにもアスールの声が必要だと思った。
彼の声だけが響く──。
けれど、それだけで元に戻れるのかどうか。ここまで巨大化し異形となった自分が、人に戻ることができるのか。
精神は侵されていないと思いつつも、最近は思考があいまいになってきている。動物と同じように本能にのみ支配されている時間が多くなって来たのだ。
人と関わらない──。そうもなるのだろう。
まだ人としての意識があるうちに、アスールに会いたかった。
今になってシアンがアスールを求めた理由が分かる気がする。彼の声によってのみ、人としての意識が戻るのなら、ならなんとしても彼に会いたいと願うだろう。
カリマは今、目の前を横切った魔獣を捕らえ食している。
人型のほうの口ではなく、胴体の胸元がぱっくりと裂けるように開き、獲物を飲み込むのだ。
そこが口となっている。咀嚼はしていない。
放り込むと、溶けるようにそれはなくなった。生きたまま自身の一部にしてると言ってもいい。粘土をこねて自身につけている様な感覚だ。それ自身がカリマの一部となっていく。
そのものがもつ力を、そのまま取り込めた。だから、そこへ放り込めば放り込むほど力が湧く。
シアンにはそのような変化はなかったはず…。
なぜそのような変化になったのかは知る由もないが、大型になればなるほど、大量の力を必要とする。その方が力を取り入れるには、楽だったのかも知れない。そう思った。
いずれにしても、人ではないな──。
淡々とそんな自身を見つめた。
✢✢✢
アスールが城を立って直ぐ、討伐隊が編成され、後を追うようにネラへと出発した。
その後、セリオンから言い渡された猶予は、ネラに到着してから五日間のみ。それ以上、かかるようなら森へ討伐隊を差し向けると言う。
もしもを思えばそれで良いのかも知れないが、魔獣を探すには時間が足りないと感じた。
ルベルが後を追っているはず。
ネラを立つ前、ルベルにはそう言いおいていた。逸る気持ちを抑え先を急ぐ。
休息らしい休息も取らず、馬を走らせ数日早くネラへと到着した。すぐ、ルベルを呼び出し状況を聞く。
アスールの天幕を訪れたルベルは、例の魔獣の動きを掴んでいた。
「前の水場はもう使ってねぇな。そこからかなり奥に入った水場に移ってる。そこまで三日はかかるだろう。けもの道だ。馬は入れねぇ」
「わかった…。すぐにでも出発する。連れて行くのはルベルのほか数人でいい。とくにかく魔獣を見つけるのが先だ」
「──そいつ、カリマだと思うのか?」
ルベルには、セリオンへ話した内容を伝えていた。
「…俺はそう思ってる。もう一度会えばわかるはずだ。シアン様の時の様に人に戻れるのかは──わからないけど…」
「仮にあれがカリマだとして、あんなでっかいもんが、もとに戻れるとは思えねぇ。危険を冒して命を無駄にするな」
「──いいや。俺は行く。…もし、躊躇いがあるなら、ルベル達はここにいてくれて構わない。もともと一人で行くつもりだったんだ。ただ、王命で連れて行かなければならなくなって…。ルベルたちは魔獣のいる場所を教えてくれたらそれでいい。あとは──」
「ふざけるな。俺をみくびるなよ? 仲間を置いてさっさと逃げだすような腰抜けじゃねぇ。──王命だからじゃねぇぞ。そこんとこ、わかっとけ」
ルベルはそう言って、アスールの胸もとを指先でついた。
「ルベル…」
「あんたのことは認めてる。王やカリマにはかなわんだろうが、盾に位はなってやると思うくらいには好いてる。どこにだってついていくさ」
「…ありがとう。ルベル」
セリオンが口にした言葉が脳裏に蘇ってきた。
『君を思うものがほかにもいるということを忘れるな』
それはセリオン自身のことを指したのかもしれないが、確かにこんな自分でも心を向けてくれる人たちがいる。彼らの思いに答えるためにも命を粗末にすることは許されないのだろう。
でも──。
日を追うごとに、あれはカリマだと思えた。直感だ。幼い頃からずっと傍にいた。どんなに姿が変わっても、そうだと分かる。
俺の為にああなったんだ…。
死にかけたアスールを救うために、魔物に心を売った。シアンの時と同じなら、救う手立てはある。
きっと──。
危険だとわかっても、なんとしても、カリマを取り戻したかった。
森に入って三日目。
奥に分け入ると、どんどん道は悪路となった。張り出した枝が足や頬を打つ。
魔獣が少ないとはいえ、もとより人が寄り付かない場所だ。道などあるはずがない。ルベルがいくらか茂った木々を払ってあったが、その程度でどうにかなるものでもなかった。
急がないと討伐隊が来てしまう。
何としてもその前にカリマに会いたかった。
「──そろそろだ」
ルベルの声に気を引き締める。
一つ息を吐いて先に目を向けた。そこは前より幾分細い流れの沢だった。以前と同じ様に川辺には何物かが踏み分けた跡がある。
「たいてい、夕方には現れるが、現れる日は不規則だ。毎日来たかと思えば、一週間ほど姿を現さないこともある。今日はどうだろうな…」
「あれから、様子は変わらないか?」
「大人しいもんだ。村の方へ出てくる気配はないな」
「そうか。良かった…」
そうして数時間。そろそろ現れてもいい時刻になったが、姿は見えない。
アスールはルベルにそこで待つように言うと、自身は魔獣が来る方向、踏み分けられた奥へと向かおうとした。
「アスール、よせ!」
小声でルベルが引き止めるが、
「大丈夫だ。そこにいてくれ」
ルベルを制して奥へと向かう。アスールは何故か奥へと引かれたのだ。カリマがそこにいる気がして。
しかし、ルベルが追いついて引き止めた。
「これ以上はダメだ」
「行かせてくれ。でないとカリマが──」
すると、ルベルは悲しげな顔で首を横に振り、
「ダメなんだ。約束でな」
「約束?」
「セリオン様だ…」
気が付けば周囲を兵が囲んでいる。
連れてきたのは手練ればかり。カリマやアスールに指導を受けた者たちだ。その腕は知っている。そう簡単にこの中を抜けられないことは明白だ。
「…セリオンが?」
「ああ。アスールが帰る少し前に伝令が来た。アスールが何か無謀な行動をするようなら引き留めろと直々に命が下った。…今のこれがそうだろう。あまりに無謀だ」
「ルベル。止めないでくれ。あれはカリマだ。彼を助けたいんだ!」
「命と引き換えに止めるのか? それを陛下は見越していたんだろう。王都からの軍はもうすぐそこまで来ている…。王の軍に任せてお前は引け」
「…いやだ。応じられない。カリマはもとに戻れるんだ!」
「アスール──」
諭すようにルベルが声を上げた瞬間、そのルベルに向かって剣を振りかざした。
咄嗟にルベルがかわすが、その隙を突いて脇を駆け抜ける。
「アスール!」
ルベルが呼んだが、無視して走り出した。
✢✢✢
ルベル達が後を追う。
アスールは道のない森の中をただカリマの気配を求めて走った。兵は後を追って来る。
急がないと──。
気ばかりが焦る。何としてもその前にカリマに会いたかった。進むごとに闇が深くなる。確かにそこには大型の生き物が行き来した痕跡があった。
カリマ──。
と、視界が開けたと思った次の瞬間、おろした足が地を踏まずに空をきった。
「!」
がくりと身体が落ちて、そのまま闇の中へ放り出される。どうやら、深い穴が空いていたらしい。
く──っ!
手近な草木を掴もうとしたが間に合わない。次に受ける衝撃に備えたが──それが来なかった。代わりにがっしりとした何かに身体を支えられる。地面に落ちた衝撃とは違った。
「…?」
闇が濃い。何かただならぬ気配を感じた。
そっと息を詰めるような緊張感。風もないのに木々が揺れる。
アスールは自分を支えたものがなんなのか、見上げようとしてそこへ固まった。
「…カリ、マ?」
思わずその名を呼んでいた。
アスールの頭上には、木々より更に巨大な体躯を持ってこちらを見下ろす魔獣がいた。その腕に受け止められていたのだ。
やはり面影が表情に残る。紅い目、口元から覗く牙。それがあってもわかった。
カリマだ──。
返答などあるはずもない。ただ腕に捕らえたアスールを見下ろしている。
アスールは自身を奮い立たせる様に息を吐いたあと、その腕に手をかけながら。
「──カリマ。元に戻ろう。…出来るはずだ」
魔獣は低く呻く。
「…もし、今すぐに戻れないなら、時間をかけよう。何処か遠くへ行って──」
と、魔獣の腕がさらにアスールを持ち上げた。両脇に回された腕には、びっしりと黒いうろこに覆われる。温もりはあまりなくヒンヤリとした心地だ。
ちょうど顔の見える位置まで持ち上げられた。
顔はうろこがなかった。ただ肌の色は濃い紫色となっている。その頬に、見覚えのある傷跡が薄く浮き上がる様に残っているのに気づいた。
蜘蛛に襲われた俺を救った時の──。
アスールは手を伸ばしその傷跡に触れた。
紅い目が細められる。無表情なそこに僅かな感情が見えた気がした。やはりひんやりとしている。
面影は残るものの、あまりに異形となったその姿に、
「ごめん…。俺の所為だ。俺の―…」
涙がこぼれた。
カリマがそのまま抱き締めてくる。胸元に押し付けられ息苦しかった。しかし、押し付けられた事でカリマの鼓動を感じる。
カリマは生きている──。
腕は回らないが、伸ばして抱きしめるように添わせた。
「カリマ…。もとに──戻ろう」
次の瞬間、アスールは暗闇に閉ざされた。
温かい穴倉に放り込まれたような心地。
感じるカリマの心音。熱いほどの体温。
その熱に包まれながら、自身がカリマの中へ溶けていく様に感じた。




