26.正体
「このあたりか?」
アスール達はけもの道を逸れ、村人の言った沢沿いを登ってきていた。
泥と砂利の混ざった川辺には、確かに大きな動物の足跡らしきものがある。
アスールは片膝をつきその跡を確認した。ネコ科の生き物の足跡だ。大人の手の平、三つ分はある。
「ここを水場にしているのか…」
「なら、張っていれば会えるな? 皆、準備しろ。相手に警戒させんじゃねぇぞ」
「はい!」
ルベルは気合を入れる。連れてきたのは十名ほど。とりあえず調査のためだ。大隊を率いてくる必要はなかった。
水場に来た魔獣にバレないよう、距離は保ち観察場所を作る。三カ所ほどに分けたそこは、風向きを見て、匂いが届かない場所を選ぶ。
足跡からみてもかなり巨体の魔獣だろう事がうかがえた。危険なことこの上ない。
もしもに備え、逃げる算段もつけていた。
囮の獣を数匹連れている。大抵はそれを離せば、そちらを追っていくはずだ。その間に逃げるつもりだ。魔獣には知能がある訳ではない。一般的な獣と同じだった。
ルベルは水場を睨み、
「奴は出てくるかな」
「どうだろう…」
ルベルと共に、身を隠す為、手を加えた茂みの陰から水場に目を向ける。
隠れて数時間。辺りはすっかり闇に包まれていた。森の奥とあって、日が落ちてから暗くなるのは早い。
人の目ではここに誰かが隠れていると、分からないだろう。
獣も同じだ。距離も十分取っている。よほど匂いに敏感でない限り近づかなければ分からないはずだ。
すぐに出てくるとは思わなかった。水場もいくつか持っているだろうから、ここへ訪れるとは限らなかった。
長期戦も覚悟していたのだが──。
水場の奥の茂みが不自然に揺れた気がした。と、傍らで見ていたルベルも気付いたのか、アスールの肩をかるく押す。同じく隠れている味方にも手で合図した。
しかし、茂みの間からどっと飛び出してきたのはキツネだった。数匹が飛び出して、水場へと近づきそれぞれが飲みだす。
なんだと肩を落としたルベルだったが、突然、そのキツネがピンと耳を立て身体を起こした。そうして慌てた様に水場を後にする。
何事かとそのまま様子を伺っていれば、ひときわ大きく茂みが揺れた。木々がざわめきぬっと黒い影が躍り出る。
月の出ている晩だった。樹に覆われた森にその光は届きにくいが、水場の上には木々がない。ぽっかりと明かりの差すそこへ、影の主が躍り出た。
「──っ!」
傍らのルベルが息を飲んだのが分かった。アスールも思わず握った剣の柄に力が入る。
それは、想像していた以上に大きな魔獣だった。
村人の言った以上に大きく見える。
足元から頭まで成人男性のゆうに三倍はある。巨体を揺らし優雅ともいえる動作で水場にやって来た。
首を下げ水を飲む。
頭から背中にかけて確かに白い鬣があった。長い尾尻にそれがつながる。皮膚は月の光を受けて黒く艶を帯びて光っていた。反射するのは固い証拠だろう。
下半身はネコ科の動物のそれだった。柄はなく、黒い体毛で覆われている。その毛も艶を帯びて輝いてみえた。
この時、魔獣を見て初めて美しいと思った。
そんな思いに囚われたのは初めてだった。今まで一度としてそんな風に感じたことはない。たいていが醜悪で凶暴な容姿でしかなかったからだ。
と、ふと何か感じたのか魔獣が顔を上げた。その顔がアスールの隠れている方向に向けられる。距離はかなりあるが、目鼻は分かった。
紅く塗り込まれた鋭い瞳。とがった耳に、裂けた口元。そこには鋭い牙が覗く。
明らかに魔獣だ。けれど、心の奥がざわつく。
俺は──知っている?
ルベルが肩口を引いた。逃げる合図だ。
魔獣の瞳はひたとこちらに向けられている。こちらに勘づいた証拠だろう。あんな巨大な魔獣に追われれば、幾ら策を講じても太刀打ちできない。
味方の合図で獣が放たれる。急に自由になって、驚いた獣は魔獣を避けるように水場を横切った。
しかし、魔獣の目はこちらに向けられたまま。僅かにその紅い目が細められた気がした。獣が息を漏らす。
アスール。
「え…?」
「おい! もうだめだ! 行くぞ!」
動こうとしないアスールの首元を掴む様にルベルが引いた。それでようやくアスールも足を動かす。魔獣は追っては来なかった。
「あれは──なんだ?」
ルベルは安全な場所まで抜けると、肩で息をつきながら背後を振り返った。
森を抜け村にほど近い平原に出たが、あんな魔獣に追われればここまで逃げてもすぐに追いつかれると思えた。
「…見たこともない、魔獣だ」
「化け物だ。あれは──退治しないとだめだろう?」
「…だが、追って来なかった」
アスールは森を見つめる。
「いや。今回は偶然だろう。普通は追ってくる。魔獣は警戒心が強く、縄張り意識も大きい。ことに水場は隙が生まれる場所だ。次はないだろう」
「…紅い目を、していた」
「一応、人の顔はもっていたが、獣の胸もとに口みてぇなもんがあった…。尋常じゃない。ありゃ、化け物だ。俺たちの手じゃ負えないぞ。どうする?」
「…王へ報告する。裁可してもらう」
「そうだな…。だが、早い方がいい。どんな手を使っても倒すべきだ。いずれ、甚大な被害を被ることになるぞ。第三王子の比じゃない」
「わかった。すぐに連絡しよう」
アスールはその日のうちに伝令を飛ばすと、ルベルたちにはくれぐれも警戒を怠らない様に告げた。もし魔獣が出てきても手を出さず逃げろと指示をし、自らは馬をかって王都へと向かった。
✢✢✢
それは久しぶりの帰還だった。
もとより、戻るつもりはなかったが、今回ばかりは王に会って事情を自ら伝えねばならなかった。
指定されたのは広間ではなく、王の私室。以前はセリオンの父、ガラノスの居室だった。
その対応が、以前のセリオンと変わらないようで、少し胸が切なくもなった。アスール自身は思いに区切りをつけたが、セリオンは今だ引きずっている証拠にも思えた。
セリオンを待つ間、居室に据えられた椅子を見つめる。その椅子に座って、よくセリオンをたしなめていたのを思い出した。それでも、その顔はいつも慈愛に満ちていて。
懐かしい記憶だ。だが、今はそれ以上浸っている暇はない。
急ぐ足音と共にドアが開いた。セリオンの後に慌てた様に従者がつづく。
「アスール!」
呼ばれて低く頭を下げた。
「──ご健勝なようでなにより。セリオン陛下。この度は報告の為、ぶしつけながらお呼び立ていたしました──」
「そんな口上はいい。──怪我は? カリマから体調を崩したと聞いた。芳しくないと聞いていた…」
「もう、大丈夫です。セリオン陛下。それより、御話ししたい旨が──」
言ってから背後に立つ従者に目を向けた。
その意図を悟ったセリオンが、下がる様に指示する。従者が出ていくと、改めてセリオンを見つめた。
光を集めたような金糸は変わらない。湖の様に澄んだ瞳も。髪を短く切りそろえた以外、何も変わってはいなかった。
僅かに目を細めたものの、直ぐに表情を戻すと。
「ネラの近郊の森で見つかった魔獣についてです」
「…伝令で読んだ。かなりの大物だとはあったが──。特別伝えたいことがあるのか?」
「私が見た第三王子の様子と、似たものを感じました」
「どういう意味だ? ──いや、それよりまず、敬語はやめだ。ここでは昔と同じでいい。頼む…」
請われれば否とは言えない。仕方なく態度を以前と同じように改めた。
「目が──紅い目が同じだった…」
「目?」
アスールは頷く。
「シアン様と同じ目をしていた。…あの魔獣は──シアン様と同じだと思う…」
「同じとは、どう言う意味だ?」
「同質…そんな気がする…」
「それだけでか? 紅い目の魔獣など探せば他にいるかもしれないだろう?」
「あれは──見たものでないと分からない…。受ける印象が同じだったんだ。それに、一つ引っかかることがあるんだ。──俺は確かに死にかけていた。シアン様に連れ出された時点で危なかったんだ」
「……」
セリオンは沈黙する。
「その後、カリマがシアン様を倒し、事なきを得た。けど──俺はそのあと、胸が痛んで息ができなくなって…。意識を失くしたんだ。多分、呼吸が止まったんだと思う…」
あの時。頭のどこかでこれで終わりなのだと悟っていた。最後に見たカリマの顔を、胸に刻んだ気がする。
「──それで…?」
セリオンの声が震えていた。アスールは目を伏せると、
「──気が付くと、すべてが終わっていた。俺は村の宿のベッドの上だった。怪我もなく、もとの状態に殆ど戻っていたんだ。カリマはそこにいて、回復を喜んでくれた。──でも、確かにあの時、俺は瀕死の状態だった…。シアン様は魔獣となったことで、回復させる力を得ていた。けれど、俺を回復させる前にこと切れた…。──だから、シアン様は俺を回復していない…」
「その力の事は初耳だ。シアンに──そんな力が?」
「右腕をシアンに砕かれた。それを──治したんだ。時間が無くて、それ以上治せないと言って…」
確かにシアンに連れ出された時、腕は治っていた。
「治したのがシアンでないなら、誰が? そこにはカリマしかいなかったんだろう? 幾ら何だってカリマにそんな力はないはずだ」
アスールはセリオンを見た。訝し気な眼差し。そう。そこにはカリマ《《しか》》、いなかった。
「思うに…シアンに取り入った魔物は、宿主を変えることができるんだと思う。どうやってそうなるのかわからないけれど…。シアン様は何かから乗り移られ操られ…。でも、カリマに討たれた。中の魔物はどうするか──。きっと近くにいたものに乗り移ろうとしたんじゃないかと…」
「カリマにか?」
アスールは頷く。
「でないと、俺の回復は誰がしたんだとなる。カリマが施したなら、合点が行く。魔物の力を得て俺を回復させて、姿を消した。──誰にも知られずに身を隠した理由がそれなら納得がいく」
「…そんな事があるのか?」
「分からない。すべて想像だ。でも──」
「でも?」
「あの、魔獣を見た時、見おぼえがあると思った。まったく似てもにつかないのに──カリマを思ったんだ。そうしたら、去り際、こちらに気づいた魔獣が俺の名前を呼んだ気がして…」
セリオンは目を瞠る。
「バカな…」
「俺の思い過ごしならいい。──けれど、そうでなければ、じゃあどうしてカリマは姿を消したんだ? 理由もなくそんな事をする奴じゃない。魔物につかれたのだとしたら──納得できる」
「信じられない。──いや、信じたくないな…」
「魔獣を討つのか?」
アスールの問いかけに、セリオンは視線を伏せたが。
「…討たねば、民がいつかやられる。そんな人里に近い森に現れるんだ。人を襲うこともあるだろう。そうなってからじゃ、遅い…」
「あれは、カリマかもしれない。正式に討伐に出る前に、俺に試させてくれないか?」
「…何をする気だ」
セリオンから視線を外すと、窓の外に目を向けた。青く茂った木々が葉を風に揺らす。
「もう一度、偵察にでるだけだ。本当にあれがカリマなのか確かめたい」
「確かめてどうする? カリマからの報告にあったが、聞けばシアンの時はお前の力で元に戻すことができたとか…。同じことがカリマでも起こると?」
「力なんてないさ。ただ、声をかけただけだ。魔物に打ち勝つように…。それがカリマにも効くのか確かめたい」
「危険だ」
「危険でも。あれがもし、カリマだったなら、放っておくことはできない。…もとに戻れる機会があるのなら、試したい。もし、俺が魔獣になったら、お前は助けようとするだろう? 一緒だ」
「…それは」
セリオンは唇をかんだ。ふとこちらを見返し。
「──アスールにとって、カリマはそんな存在なのか?」
「大切な存在にかわりない。それはセリオンだって同じだ。…けれど、セリオンはもう、俺がいなくとも傍にいてくれる存在がある。俺は必要ないだろ?」
「──」
セリオンは黙って見返してくる。
何か言いたい事をを堪えるようにしているが、それを口にだすのは躊躇われるのだろう。アスールは笑うと。
「本当はカリマにだって、俺は必要じゃない。けれど、あれがカリマだとすれば、今助けられるのは俺だけだ。だから行く。──すまない、セリオン」
「おまえが必要じゃないことなどない。…俺にとってもアスールは──」
「セリオン。友人として思ってくれるのなら嬉しいよ。──それだけで充分なんだ」
セリオンが言わんとしたことを遮る。もう、それは終わった事なのだ。
「…また、俺を置いて行くのか?」
セリオンの瞳に切ない色が浮かぶ。胸に痛みを覚えながらも、顔を上げると。
「お前には守るべきものがある。それは、セリオンだけにしかできない。とても大切なことだ。セリオンの行動ひとつで皆の幸せが決まる。──俺はずっとセリオンの幸せを願っているから」
セリオンはしばらく黙したのち。
「行っていい。──ただ、必ず生きて帰ってくるように。無茶はするな? 無理だと分かれば諦めろ。カリマだってお前に何か起こるのは良しとしないはずだ。あいつは──」
言いかけてセリオンはその先を言いよどむ。
「──いや。これは余計だな。もう分かっているんだろう? あいつの思いも」
「……」
アスールは黙ってセリオンを見返す。それですべてを理解したセリオンはそれ以上何も言わず。
「…討伐の為の兵はすぐにそちらに向かわせる。待てるのは数日だ。君からの連絡がなければ、直ぐに突入する。誰か手練を引き連れて行くなら、ルベルを必ず入れろ。奴は優秀だ。警備隊長にも伝える。これは王命だ」
「ありがとう。…セリオン」
そのまま部屋を辞そうとすると、不意に椅子を立ってセリオンが腕を掴んできた。
「セリオン?」
「…君を思うものが、ほかにもいると言う事を忘れるな」
「…ああ」
セリオンの瞳に一瞬、強い揺らめきが見えたが、それもすぐにかき消え。
「──いってこい」
それに頷くと、アスールは部屋を辞した。




