19.魔手
アスールの率いる部隊は、以前、兵士らが襲われた場所に再度向かったが、当時と何ら変わりなかった。
散らばった鎧の類は回収されていたが、地面には赤黒いシミが残っていて、茂みも荒れたまま。兵士らと共に周囲を探索し始めたが、今のところ魔獣やシアンの存在を示す様な発見はない。
アスールは以前そこで魔獣の跡が消えていた、更に奥へ分け入って見たが、特に異変は認められなかった。
やっぱり、何もなし──か。
戻ろうと踵を返しかけた所で、目の端に白い影を見た気がした。何だろうとそちらに顔を向ければ──。
「──シアン様?」
日が昇ってもなお薄暗い森の中、それは確実に目を引いた。視線を向けた先、確かに人が立っていたのだ。こちらを肩越しに振り返り見つめている。金色の髪、青い目。病的なまでに白い肌。
シアン様だ。見間違うはずがない。
「シアン様!」
呼びかけたと同時に、シアンは駆け出す。
懐から笛を出し皆に知らせようとして、その手を止めた。ここで大勢の人間を呼べば逃げてしまう可能性がある。自分ひとりなら、立ち止まるかも知れなかった。
捕まえるまでは──。
知らせるのはよそうと思った。
茂みを掻き分け、覆い被さる木を押さえ、後を追う。シアンはまるで勝手知ったる庭でも走り回る様に早かった。
見れば素足で駆けている。こんな荒れた森でそれはあり得なかった。直ぐに切り傷だらけになるだろうし、まともに走れるとは思えない。第一、シアンは走れるはずがないのだ。
可笑しい。
「シアン様! 俺です、アスールです! 待って下さいっ!」
避けた木の枝には鋭いトゲがあった。それが革の手袋を突き抜け、手のひらを突き刺す。
「っ!」
痛みについ立ち止まれば。
「…アスール?」
シアンも立ち止まったようだ。心配気な声をかけてくる。──と、直ぐ傍でカサリと積もった枯葉が小さな音を立てた。
アスールは傷ついた右手を左手で覆うようにして、顔を上げれば。
「!」
手を伸ばせば届く距離にシアンがいた。余りの近さに驚く。先ほどまでは、目を離せば消えそうなくらい、遠い場所にいたのだ。
何かがおかしい。
額に汗が滲む。シアンは近寄ってアスールの傷ついた右手を取った。手袋を外すと、血の流れるそこにためらわず口づける。
「シアン、様…?」
「……」
シアンが口づけ血を舐め取る。と、その傷口がぷくりと盛り上がり、あっという間に塞がってしまった。
「…これ、は?」
「──他者を自身に取り込むうちに、こんな不思議な力を手に入れた…。傷を癒し、回復させる…。他にも恐ろしい程の暴力的な力も──。僕は…普通の身体を手に入れた。それだけのはずだった…」
アスールの手を握り呟くように口にした。
「あの夜、僕は許した。魔物の囁きに耳を傾け…」
「魔物? それは──」
「許したその瞬間から、奴は僕の身体に乗り移った…。僕が成長し、力が蓄えられるまで待ったんだ。それが──あの日だった…」
「あの…日…?」
頷くと、アスールの手を強く握りしめ、顔を上げた。青いはずの瞳が白目まで紅く変化している。アスールは息を呑んだ。
「…ただ、普通の生活をしたかっただけだった。なのに、僕の中の奴はそれを許さなかった…。勝手に暴れだし、父上や兄や弟を──」
声が震える。アスールは咄嗟にシアンを抱きしめた。
「それは、あなたがした事じゃない! あなたは望んでいなかった…!」
「いいや…。実際、手を下したのは──僕だ…。それに、勝手とは言っても、奴は僕の心の奥底に潜む本心を覗き込んで、それを読み取って行動に移したんだ。そう、言っていた…」
「だめです! そんな言葉を信じてはダメだ! あなたは、そんな人じゃない…!」
シアンの身体が小刻みに震えだす。
「僕が…僕が、望んだ─…」
「あなたは、強い。辛抱強く病弱な身体を抱え必死に生きてきた。そんな奴の言葉を信じたらいけない。今からでも遅くない。そんな奴、追い出すんです!」
「…もう、遅い」
「遅くはない! あなたなら出来る!」
「…僕のせいで、父上も、義母も、アジュールもブラオもニゲルも…。いや、ニゲルは突き飛ばしただけだった…。──ニゲルは?」
アスールはあの時のニゲルを思い出す。あれで突き飛ばしただけだったとは。その力の大きさに心の内で恐怖した。
「──俺が着いた時はまだ息がありましたが、そのあと…。──ですが、終わってしまった事はもう仕方ないのです。幾ら後悔しても戻らない…。けれど、この先は違う。もう、奴の言葉に耳を貸してはいけない!」
「…僕は、僕は……」
そこでアスールは顔を上げると、肩を掴みシアンの真っ赤に染まった瞳を見つめた。
「俺の言葉にだけ耳を傾けて下さい! 以前と同じ様に。俺の話しにいつも懸命に耳を傾けてくれたシアン様の様に──」
と、シアンの声音が急に変わった。
『無理だ』
そう言うと、突然アスール腕を振りほどき、その場へ押し倒すと肩を押さえつけてきた。シアンにはあり得ない強さだ。
「シアン…様?」
湿った土や木の葉が頬に当たる。カビた匂いがした。
「…僕は、もう──」
そう言って顔を伏せる。
「シアン様、どうか俺の声を──」
「アスール…。僕を──許してくれ…!」
そう言うと、顔を上げアスールを見下ろしてきた。紅い眼差しに射すくめられた途端、身体が縛られた様に動かなくなる。
シアンはそれを見届けると、アスールの身につけていた防具を外しにかかった。取り付けていた革ひもや、金具が外されていく。
気が付けば武具がすっかり取り払われ、肌着一枚となっていた。冷たい風が吹き付け肌を冷やす。
「な、にを……?」
『こいつの望みを、したくともできなかった事をするまでだ』
低いザラリとした声。もうシアンのそれではなかった。
「シアン…! 俺の声を聞いてくだ──っ!」
必死に紅い目に向けて訴えたが、声は響かない。そのまま、ゆっくりとシアンが覆いかぶさってくる。
荒い呼吸が首筋に触れた所でぎゅっと目をつむった。顔を背ける。流石にこのあと何が行われようとしているかは分かっている。
シアン──!
触れてくるのはシアンのはずなのに、到底そうは思えなかった。冷たい手の平、唇。
別の何者かが、自分を侵そうとしている。そう思えた。
✢✢✢
シアンが動くたび、耳元の枯葉が音を立てる。土の匂いが鼻を突いた。
こんな──。ことが…。
襲う痛みと怖気だつ不快感。吐き気がした。無理な体勢に身体が悲鳴をあげる。早く終われとそればかり願った。
けれど暫くして、様子が変わった。初めこそ手荒だったのが、優しく触れてくる様になったのだ。
シアンは眉間にしわを寄せ、苦しげな表情をする。まるで何かに抵抗しているように見えた。
シアン様……。
「…っ!」
名前を呼びたいが声を出せない。
揺れる視界。目に映るシアンの必死な表情に変化を感じた。そのまま、アスールは意識を手放していた。
気がつくと、濃い霧に覆われていた。
子どもの泣き声が聞こえる。泣きすぎて嗚咽となっていた。
声の主を探す。こんな霧では見通せない。
と、声の主が唐突に霧の中から現れた。金色の髪、白すぎる項が痛々しい。その体には、煙の様な黒い影が巻き付いている。
「シアン様…」
アスールの声に僅かに顔を上げた。
「アスール?」
「どうして、泣くのですか?」
「だって、僕は…大切な、アスールを傷つけた…」
アスールは震える背に指先を触れさせた。びくと更に震える。それを機に嫌がる様に煙が何処かへと消えた。逃げたらしい。
骨の浮き上がった背中が、薄い布越しにも分かる。病のせいだ。
「俺は…大丈夫です。こんなこと、たいした事じゃない。それに、シアン様が相手なら怖いこともない」
笑みを浮かべて見下ろす。
「アスール…?」
「どうか、泣かないで下さい。あなたが泣いていると俺も悲しくなる。でももし、俺に悪いと思うなら、魔物に心を明け渡さないで下さい。あなたならきっと出来る」
「でも、アスール。現に僕は君をこの手で虐げている…。酷いことを…」
「シアン様」
アスールは向き合うと、そっとその頬に触れ顔をおこした。
「あなたは俺をちっとも傷つけていない。今も優しく触れている…。触れられているのが、あなたで良かった」
「アスール…」
「あなたはちゃんと、魔物の支配から逃れています。もう少し、勇気を出せばきっと追い出せる。頑張って下さい。シアン様。どうか、恐れずに──」
「アスール!」
シアンが腕を伸ばし抱きついて来た。しっかりと抱きしめて、アスールは目覚める。
けれど、その時、既にシアンは傍にいなかった。
✢✢✢
どこか遠くで笛の音がした。
シアンはうつろな目でアスールを見下ろす。あれから大した時間は経っていない。
うつ伏せに横たわったアスールに意識はないようだった。酷いありさまだ。
身に着けていた白い肌着はかろうじて腕に引っかかる程度。濃い褐色の肌のあちこちに痣や噛み跡が残る。血が滲んでいる箇所もあった。
アスールの身体から自身を引き起こす。小さくアスールが呻いた。下肢にいたっては目も当てられない。
僕は──なんて酷い事を。
「ご、めん…。僕は──こんな…っ」
はだけたて僅かに残った肌着をかきよせ、身体を覆う。夢の中でアスールは自分を許していた。
でも、あれは──夢じゃない。
精神の世界だと感じた。魔物に支配される中、自身の意識にアスールが入り込んできたのだ。
すべてが済むと、魔物は鳴りを潜めた。自身の行為に満足したのだろう。
それでも、シアンは全てを支配された訳ではなかったらしい。それはアスールの言う通りなのだろう。
けれど──。
こんなふうに汚すつもりはなかった。アスールは大切な弟の様な存在。自分を慕って来る姿に、親の様な感情を覚えたことさえある。
アスールに親はいなかった。そのせいで余計にアスールはシアンに懐いたのかも知れない。
ある日、会話の流れで尋ねた事がある。幸せかと。
アスールは孤児院で育ち、身よりもない。ここに来るまでは随分、辛い目にもあったはずだ。他人の目から見れば、不幸そのものだろう。
しかし、アスールは言った。幸せだと。
セリオン達と、出会えた事が何より幸せなんだと。許されるなら、このままずっと一緒にいたいと言った。けれど、身分の違いから、ずっと一緒は無理なのだとも語った。
確かに、今の従者の身分も通常ならあり得ないものだった。
しかし、セリオンは第五王子。よほどの事がない限り後を継ぐことはない。自由に生きられる身だ。
自分が王だったら、きっとアスールの思う様にさせただろう。
セリオンとカリマと、ずっと三人でいられるように──。
が、シアンが後を継ぐことはない。優秀な兄や弟がいる。それに、とうに病弱な自分は後継から外されている。
アスールの幸せを望むのに…。
自分には何の力もなかった。
シアンはのろのろと身体を動かし、武具と共に放り出されていたローブを引き寄せ、アスールの身体を覆う。
アスール。僕は…どうすれば。
『そいつも食ってしまえ』
あいつだ。
「…出来るわけがない」
『そいつは強い。食えばもっと強くなる。力を得られるぞ? 強靭な身体を持てるぞ?』
「…そんなことで、アスールを襲えと? これ以上、アスールに手出しはさせない!」
『食え。食ってしまえ。そうなれば、そいつはお前の一部になる。二度と誰かのものにはならない』
「お前の言いなりになどならない! 僕はアスールを守る…!」
『…そいつに手を出したくせに。よく言う。俺はお前の心に従ったまでだ。…そうしたかったんだろう? お前が心の中で愉しんでいたのを知っているぞ?』
「うるさい! 黙れ! 僕は──そんな、ことは──」
『俺に嘘はつけない』
意地の悪い声が耳元でした。
そんな、ことは──。
アスールの首筋や胸元についた赤い痣に目を向けた。執拗につけられたそれから、思わず目をそむける。
僕は──愉しんで、いた?
と、茂みを揺らす音を聞いた気がした。顔を上げれば兵装をした偉丈夫な男が立っていた。
「…シアン様?」
カリマだった。呆然とした様子でそこに立っている。だが、剣は抜き身のままでいつでも斬りかかれる様に構えていた。
「っ!」
咄嗟にアスールの側から離れ、いつでも逃げられる距離を取った。
「…それは──アスール? 何が──あったのですか?」
カリマが剣を構えたまま足早に近づいて来る。そうして二人のちょうど中間に倒れるアスールのもとまで来ると、しゃがみ込みその首筋に触れた。息のあるのを確認しほっとすると、再びシアンに顔を向けた。
「もう一度聞きます。…何が、あったのですか? どうして、あなたはここに?」
その眼差しは険しい。
無防備に投げ出された手足。かけられたマントの端から覗くそれに、アスールの身に何があったのか察したのだろう。
『殺れ』
ざっと肌が粟立つ。変化の手前にそうなった。このまま、声に耳を貸せば時待たずして獣に変化してしまうだろう。
身体は四脚の獣へと変化し、肌は鋼の様な毛に覆われ、口には牙が生える。目は紅く煌々と光った。大きな狼と言ってもいいだろう。ただ、より獰猛な生き物となる。魔獣だ。
『殺ってしまえ』
声がする。しかし、シアンは首を振って耐えた。
「もう、沢山だ…!」
吐き捨てる様にそう口にすると、カリマに背を向けて一気に駆け出した。
それは到底、人が追いつける速さではない。そうして、闇深い森へシアンは姿を隠した。
✢✢✢
シアン様…。
カリマはシアンを追いかけようとして、それを止めた。
魔物の多い森で無闇にひとりになっては危険だ。何より、木々の茂った森をあの速さで駆ける事は出来ない。追いつくのは無理だった。
シアンの追跡を諦めると、アスールの元に戻って傍らに片膝をつく。
「アスール…」
枯れ葉や土くれのついた頬に触れ、声をかけた。勿論返答はない。
酷い有様だ。身体にかけられていた汚れたローブを捲ると、無残な様がさらされる。目をそむけたくなる光景だ。
だが、そらさない。アスールに何が起こったか、どうしてこうなったのか、しっかり事実を認め、二度と起こらない様にしなければならない。
自身が羽織っていたローブを脱ぐと、それでアスールをの身体をすっぽりと包んだ。そのまま腕に抱きかかえる。
これではたからは、アスールの身に何が起こったか分からないだろう。
「…? っ…」
一瞬、目を開けた様だが、またすぐに閉じてしまった。カリマが声をかける間もない。
膝の上に乗せた身体を抱き締める。抱えた身体は確かに大人のそれなのに、幼い頃を思い起こさせた。
こんな目に遭わせるために、守ってきたわけではないのに。
「すまない。アスール…」
カリマは肩を震わすと、深く目を閉じた。




