17.闇の声
兄たちが、弟たちが羨ましかった。
太陽のもと、あちらこちら駆け回り笑い声をあげている。
日の当たらない窓のこちら側にいることしかできない自分には別世界だった。そして、自分は永遠にこちら側にいる事しかできないのだ。
どうして、僕はこんな体に生まれてきたのだろう? 兄弟たちの様に走り回れないのだろう?
生きるためには、ただこうして、じっとしているほかない。ほんの少しでも息切れがするような行為をすれば、死が待ち受けているのだ。
すっかり寝ているとばかり思われたのか、枕元で医師と乳母とが、そう話しているのが耳に入った。
今年、十二歳となるシアンは、自分の置かれた状況にただ落胆する。
感情が揺れるような出来事も避けなければいけません、そう言われていた。
身体も動かせない上に、心の自由まで奪われるとは。大声で笑うことも、泣くこともできない。ただ、生きるために静かに。感情さえも押し殺して生きていくのだ。
『それは──辛いな?』
誰かが甘い声で囁いた。
「誰?」
その声は、王宮の書庫からある物を持ち帰ってから、聞こえる様になったのだ。
持ち帰ったのはかなり年期の入った古びた木箱。周囲を朱で塗られていたようだが、それも剥げ落ち、朽ちて箱の端々がかけていた。
王家の古い歴史書を探していた時、書架の後ろへ落ちていたのを見つけたのだ。
長い年月、放置され埃をかぶったそれは、一見すると廃棄されても可笑しくない代物に見えたが、興味が先に立ち、その蓋を開けてみた。
中にはさらに布に厳重に包まれた小箱がある。時を経てボロボロになった布に触れると簡単に剥がれ落ちた。
一体、何が入っているんだろう?
布を避け、元は朱色だった小箱を開けると、綿にくるまれた一つの玉があった。
手のひらに丁度収まるくらい。玉は透明だったが中心に行くほど黒く濁って見えた。それもごくわずか。それがなければただの無色透明が玉になっただろう。
その小箱だけを持ち、部屋に戻った。
それから、その声が聞こえるようになったのだ。
夜ベッドに横になり、眠れぬまま窓の外を眺めていれば暗闇から声がした。
優しく語りかける声。それは、猫なで声に近かった。じっとりと湿気を帯び張り付くような──。
言葉にはしていないのに、つらつらと考えていたことが、なぜか声の主には聞こえていたらしい。
「──誰なの?」
辺りを見回すが人影はない。けれど──。
『俺が叶えてやろうか?』
確かに聞こえる。いぶかしく思いながらもシアンは答えた。
「…なにを?」
『自由に動ける体にしてやろう。山や森を駆け回り、泣くのも笑うのも自由だ』
「そんな…無理だよ」
そんな魔法みたいなことが起こる訳がない。シアンは俯く。しかし、声の主は続けた。
『簡単さ。俺を受け入れると、そう一言いえばいい。それですべてが叶う』
シアンは首を振った。馬鹿げている。
「嘘つき。僕は寝るよ…」
その夜はそれで終わった。
✢✢✢
シアンは翌朝、それを夢だと思いすっかり忘れていたのだが、夜になるとまた聞こえてきた。それで、夢ではないと気付いた。
あの声の主はいったい誰なのだろう。
姿は見せないのに、なぜかシアンの心の内を読み取り、甘く誘う。
それは幾晩も続いた。
幾度目かの夜、また例の声が語り掛けてきた。すでに恐怖心はどこかへと消えている。こうして語り掛けてくるだけで、何かあると言う事はないのだ。
『ほかの兄弟が羨ましいだろう? このままじゃ、お前は死ぬまでここに縛り付けられる。兄たちは人生を謳歌するだろう。だが、お前はこの薄暗い部屋でじっとしているだけ…。なんて惨めな一生だ。つまらない、つまらないな…』
影の声はそう言って笑った。
シアンはただ押し黙る。感情を露にしてはいけないと言われていた。ただ、流せと。でないと死んでしまうのだ。この心臓はそう長くもたないらしい。
時折訪れて話相手なる、アスールの話にもただうっすらと笑みを浮かべるだけ。
セリオンはそんな自分の相手が詰まらず、相手を従者になったアスールに押し付けたのだ。
けれど、アスールは嫌がりもせず、時間があると顔を見せた。優しい子だと思った。
『その子ども、好いているのかい?』
シアンの心を読み取ったそれは、そう語り掛けてくる。
「いい子だよ。身分は低いけれど関係ない。いつも部屋に来て、それまであったことを話してくれるんだ。僕の話しにも耳を傾けてくれる…。確かに好いているよ」
シアンは前にアスールからもらったネックレスのトップの飾り彫を握り締める。それは癖になっていて、動物の角を削って作ったそれは艶を帯びていた。
アスールの瞳は、澄んだ灰褐色。肌はチョコレートを少し薄くした色。日焼けした黒に近い髪はサラサラとしていた。
シアンは、庭でセリオンやカリマと剣技の鍛錬をしている姿をいつも眺めていた。
しなやかな肢体。すっくと立って剣を構える姿はシアンの目を引いた。こちらに気付くと、ニコと照れ臭そうに笑んでくれる。
シアンにとって唯一とも言える大切な存在だった。しかし、声の主は笑うと。
『違う、違う。そいつを好きにしたいと思うのかい?』
からかう様な声に、シアンはその言葉の意図を理解してカッとなる。
「相手は子どもだ! それに、僕は大切な友人として──」
途端に、キュッと胸が詰まり息が出来なくなった。胸を押さえうずくまる。脂汗が額に浮かんだ。
『クック…、苦しいなぁ。友達だろうとそうじゃなかろうと、今のお前ではどうする事も出来ない。一緒に駆け回る事も、身体に触れることも出来ない。死を待つだけだ。苦しいなぁ…』
あっちへ行け!
涙が頬を流れていく。このまま、ここで死ぬのだろうか。
兄弟の笑い合う声。アスールの笑顔。
アスールだけは、自分を疎まなかった。ここで死んだら、悲しんでくれるだろうか。
目の前にネックレスのトップが見えた。それにそっと触れる。
ああでも。もう少し、生きたかった──。
息が出来ずに意識が遠くなる。指先の力が抜け冷たくなるのが分かった。するとすぐ耳元で。
『汝を受け入れる、──そう言え』
今までに聞いたことのない低い地を這うような声。
目の端に、机においたままだった玉が光って見えた。黒く見えていた濁りが渦を巻き、まるでそこから出ようとしているように見える。
そう言えば、楽になる?
『そうだ。助かる。健康な体を手に入れられる…』
嘘でもいい。楽になれるなら──。
「な、んじを…、うけ、いれ──」
──る。
チリと何か固いものにひびが入った音がした。玉が割れたのだ。玉から煙が飛び出す。
そうして、ぞわり、と、何かが身体を這った気配がしたのを最後に、シアンは目を閉じた。




