97. 追憶の残響
『久しぶりだな…………レミ』
その声を聞いた瞬間、レミの背中が強張った。
目の前にいるのは機械人形で、博士自身はここにいない。それなのに、逃げ場のない部屋で見下ろされていた時と同じように、息が浅くなっていく。
『随分と長い家出だったな。ずっと面倒を見てやった私に、挨拶もなく出ていくとは』
「は、か……せ……」
『誰が外へ出ることを許した?』
ゴーレムの腕が動いた。
頬を打ち抜かれ、レミの身体が横へ飛んだ。
「……っ!!」
木箱へ背中をぶつけた衝撃で息が止まり、床へ崩れてからようやく咳が込み上げる。口の中に血の味が広がった。
『小娘が。私の手を煩わせた挙げ句、まだ呼ばれなければ返事もできんのか』
痛む頬を押さえようとして、手が止まった。
勝手に動けば、また打たれる。何をすれば怒らせずに済むのかを、身体が先に探していた。
仲間と過ごすうちに薄れていたはずの恐怖が、たった一声で戻ってきた。
『外へ出て、何をするつもりだった? まさか人間に混じって暮らせるとでも思ったのか』
「……私、は……」
伏せかけた顔を、どうにか上げた。
何も知らなかった自分に、皆は色々なことを教えてくれた。料理も、買い物も、誰かと笑い合うことも、少しずつ覚えてきたのだ。知らないままでいるしかないわけではなかった。
「私だって……人として生きたい! 知らないことは、覚えるから……ちゃんと、自分で……」
『誰が生き方の話をした』
冷ややかな声が、必死に繋いだ言葉を断ち切った。
『お前は本気で、自分が人間だと思っているのか?』
頬を押さえていた指から、力が抜けた。
『少し潜在魔力が多いだけの、普通の娘だと? 外の連中にそう扱われて、思い上がったか』
「……違う、んですか……」
『ならば証明してみろ。お前は何者だ? どこで生まれ、誰から生まれた?』
答えようと唇を開いても、声にならなかった。
レミは自分の手へ目を落とした。
扉を叩いて傷ついた皮膚から、赤い血が滲んでいる。殴られれば痛くて、怖ければ涙が出る。それは人間だからではないのか。
けれど、目の前の異形にも皮膚がある。
博士の手で作られ、命令されるままに動くものにも。
何を示せば、自分は違うと言えるのだろう。
「私は……レミ……」
『それが答えか? 呼び名を繰り返せば、自分が何か分かるとでも?』
初めてカインに名を尋ねられた時のことが、脳裏に浮かんだ。
自分はレミなのだと答えた。それ以外の呼び名を知らなかったから。家族と同じ名前があるかと問われても、何も返せなかった。
皆が当たり前に持っているものを、自分は知らない。
『お前に家族などいない』
「そんなこと……ない……!!」
否定した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「お父さんも……お母さんも、きっと……」
『顔を覚えているのか? 名は? お前を捜しに来たことが一度でもあったか?』
問いのたびに、縋ろうとしたものが遠ざかっていく。
いないのではなく、知らないだけだ。忘れているだけかもしれない。そう言いたかったのに、自分の中には確かめられる記憶がなかった。
『お前の思い込みに付き合う気はない。お前にあるのは、その力だけだ。それ以外に何の価値がある?』
涙が頬を伝い、打たれた場所に染みた。
価値があるから、一緒にいてくれたのだろうか。
皆の傷を治せるから。役に立つから。
そうではないと信じたいのに、長い年月をかけて刻み込まれた声が、その願いよりも深い場所から響いてくる。
「……こんな力、いらない……!!」
もう誰かを癒やせなくてもいい。
立派なことができなくても、温かな食事を作って、一緒に食べて、同じ空を見上げていたかった。
ただ、自分の足で歩く場所を選びたかった。
『では、お前はゴミだ』
レミは息を呑んだ。
『卑しい女。その力を除けば、何も知らず、何もできず、他人に養われるだけの役立たずだ。お前という女に価値があるのではない。その身体に利用価値があるから、生かしてある』
淡々と告げられる言葉に、目の前の床が遠くなる。
『ゴミはゴミらしく、部屋の隅で蹲っていろ』
研究所では、いつもそうだった。苦痛に耐えられなくなれば無能と罵られ、逆らえば、生かしてもらっていることを忘れるなと言われた。
旅の中で少しずつ積み上げてきたものが、その声に押し潰されていく。
嬉しかったことまで、自分が勝手に勘違いしただけのように思えてきた。
それでも、左手首の石が指先に触れた時、カインの顔が浮かんだ。
「……違う……」
ブレスレットを握り込み、レミは首を振った。
「皆は……そんなふうに、言わない……。私が何も知らなくても……」
『だから何だ。私が所有する検体を、他人がどう扱おうと関係ない』
「私は、物じゃない……!!」
『お前の同意など求めていない』
反論を待つ間さえ与えられなかった。
『あの男に連れ出されて、己の立場まで忘れたか。優しくされれば人間になれるとでも思ったのかね』
カインのことまで、その声に汚されるのが嫌だった。違うと叫びたいのに、喉が引き攣り、息だけが漏れた。
『戻ってきた以上、もう勝手は許さん。もっとも、今回の逃亡も無駄ではなかった。お前が外でしてきたことは、私の研究を随分と進めてくれたのでな』
「……え……?」
『結果としては上々だ。礼を言ってやってもいい』
何を知られ、何に使われたのかも分からなかった。
必死に逃げてきた時間も、自分で選んだつもりの行動も、すべて博士の手の内だったというのか。
握り締めた石が掌へ食い込み、その痛みだけが、かろうじて今の自分を繋ぎ止めていた。
「お願い……帰して……!」
自分でも、何を口にしたのかと思った。
あの研究所へ戻ることではない。仲間のいる場所へ、カインの隣へ帰りたかった。
『帰る場所などない。お前の置き場所は私が決める』
声には、僅かな苛立ちすらなかった。
『研究は最終段階に入った。もはや生存に必要な部分さえ残れば、お前の身体がどうなろうと支障はない』
「……何を……」
『また歩いて逃げられては面倒だ。その両足を斬り落としておこう』
レミは動けなかった。
意味を理解するより先に、視線が自分の脚へ落ちる。山道を歩き、カインを追って丘へ駆け上がった脚だった。
『傷口は処置してやる。失血で死なれては困るからな』
通信の雑音が途切れた。
代わって、金属の擦れる音が倉庫に響いた。ゴーレムが剣を抜き、床に座り込んだレミへ歩み寄ってくる。
「……嫌……」
踵で床を押して逃れようとしても、背中には木箱があった。左右へ目を走らせる間に、異形の影が頭上を覆った。
「やめて……お願い……!」
剣先が下がり、足元へ向けられる。
閉ざされた部屋。冷たい床。どれほど頼んでも、何も変わらないまま近づいてくる恐怖。
この光景を、自分は知っている。
研究所だけではない。もっと昔にも、同じように怖くて、誰かを呼ぼうとしたことがあった。
不意に、知らないはずの声が耳の奥で響いた。
『いっしょに来てほしいよ……こわいよ……』
幼い声だった。
自分の声なのだと気づいた瞬間、見える景色の高さが変わった。目の前にある手は今よりずっと小さく、誰かの服を掴んでいる。
『大丈夫だ』
頭に、温かな手が触れた。
まだ声変わりもしていない少年の声。それなのに、言葉遣いは大人びていて、いつも自分を安心させようとしていた。
知っている。
この人を、自分は知っている。
『儀式は怖いものではない。心配せずに行くといい。俺はここで、お前の帰りを待っている』
顔を見たいのに、思い出せなかった。ただ、優しく頭を撫でる手と、その人のそばを離れたくなかった気持ちだけが、胸の奥から溢れてくる。
自分には、過去があった。
何もなかったのではない。誰かと一緒にいて、名前を呼んでもらい、帰りを待ってもらえるはずだった。
その温もりへ縋ろうとした途端、目の前で剣が持ち上がった。
今と昔が重なり、どちらへ逃げればよいのか分からなくなる。小さな手を伸ばしているのが幼い自分なのか、床に座り込んだ今の自分なのかさえ、見分けられなかった。
『もしも怖いことがあったら、俺を呼べ』
「……お……に……」
唇が、忘れていた呼び方をなぞった。
何度も呼んだ。嬉しい時も、寂しい時も、怖くて泣いてしまった時も。その人はいつだって振り向いてくれた。
『呼べばお兄様が駆けつけて、レティシアを護ってやるからな』
――レティシア。
その名が、閉ざされていた記憶の底へ落ちた。
「お……兄、さま……?」
思い出しかけた顔が、恐怖の向こうで歪んだ。優しい声に続くはずの記憶が、痛みと悲鳴に塗り潰されていく。
嫌だ。その先は見たくない。
でも、呼ばなければ。
「お兄様……! 助けて! 怖い、助けて、お兄様っ!」
誰に向かって叫んでいるのかも分からないまま、レミは両手を伸ばした。必ず来てくれると信じていた幼い心が、今の自分を押し流していた。
帰りを待っていると、言ってくれたから。
頑張れば、また会えるはずだったから。
呼び続ける少女の声にも、機械人形は動きを止めなかった。
刃が振り下ろされる。
レミの青い瞳には、もう目の前の倉庫が映っていなかった。閉じ込めていた悲鳴も、忘れていた痛みも、一度に喉の奥へせり上がってくる。
「いやぁぁぁぁぁーーーっっ!!!!!」
視界が真っ赤に染まった。
身体が裂けるような痛みの中で、今の自分を支えていたものが崩れ落ちていく。
どこにいるのかも、誰を呼んでいたのかも分からなくなり、ただ幼い日の声だけが、遠ざかる意識の底へ降り注いだ。
『良い子にしているんだぞ、レティシア……』




