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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第八章 私を呼ぶ声
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97. 追憶の残響


『久しぶりだな…………レミ』



 その声を聞いた瞬間、レミの背中が強張った。


 目の前にいるのは機械人形で、博士自身はここにいない。それなのに、逃げ場のない部屋で見下ろされていた時と同じように、息が浅くなっていく。


『随分と長い家出だったな。ずっと面倒を見てやった私に、挨拶もなく出ていくとは』


「は、か……せ……」


『誰が外へ出ることを許した?』



 ゴーレムの腕が動いた。


 頬を打ち抜かれ、レミの身体が横へ飛んだ。


「……っ!!」


 木箱へ背中をぶつけた衝撃で息が止まり、床へ崩れてからようやく咳が込み上げる。口の中に血の味が広がった。


『小娘が。私の手を煩わせた挙げ句、まだ呼ばれなければ返事もできんのか』


 痛む頬を押さえようとして、手が止まった。

 勝手に動けば、また打たれる。何をすれば怒らせずに済むのかを、身体が先に探していた。



 仲間と過ごすうちに薄れていたはずの恐怖が、たった一声で戻ってきた。


『外へ出て、何をするつもりだった? まさか人間に混じって暮らせるとでも思ったのか』

「……私、は……」



 伏せかけた顔を、どうにか上げた。


 何も知らなかった自分に、皆は色々なことを教えてくれた。料理も、買い物も、誰かと笑い合うことも、少しずつ覚えてきたのだ。知らないままでいるしかないわけではなかった。


「私だって……人として生きたい! 知らないことは、覚えるから……ちゃんと、自分で……」


『誰が生き方の話をした』


 冷ややかな声が、必死に繋いだ言葉を断ち切った。



『お前は本気で、自分が人間だと思っているのか?』



 頬を押さえていた指から、力が抜けた。


『少し潜在魔力が多いだけの、普通の娘だと? 外の連中にそう扱われて、思い上がったか』

「……違う、んですか……」

『ならば証明してみろ。お前は何者だ? どこで生まれ、誰から生まれた?』


 答えようと唇を開いても、声にならなかった。


 レミは自分の手へ目を落とした。


 扉を叩いて傷ついた皮膚から、赤い血が滲んでいる。殴られれば痛くて、怖ければ涙が出る。それは人間だからではないのか。


 けれど、目の前の異形にも皮膚がある。

 博士の手で作られ、命令されるままに動くものにも。


 何を示せば、自分は違うと言えるのだろう。


「私は……レミ……」

『それが答えか? 呼び名を繰り返せば、自分が何か分かるとでも?』


 初めてカインに名を尋ねられた時のことが、脳裏に浮かんだ。


 自分はレミなのだと答えた。それ以外の呼び名を知らなかったから。家族と同じ名前があるかと問われても、何も返せなかった。


 皆が当たり前に持っているものを、自分は知らない。


『お前に家族などいない』

「そんなこと……ない……!!」


 否定した声は、自分でも驚くほど弱かった。


「お父さんも……お母さんも、きっと……」

『顔を覚えているのか? 名は? お前を捜しに来たことが一度でもあったか?』


 問いのたびに、縋ろうとしたものが遠ざかっていく。


 いないのではなく、知らないだけだ。忘れているだけかもしれない。そう言いたかったのに、自分の中には確かめられる記憶がなかった。


『お前の思い込みに付き合う気はない。お前にあるのは、その力だけだ。それ以外に何の価値がある?』


 涙が頬を伝い、打たれた場所に染みた。


 価値があるから、一緒にいてくれたのだろうか。

 皆の傷を治せるから。役に立つから。


 そうではないと信じたいのに、長い年月をかけて刻み込まれた声が、その願いよりも深い場所から響いてくる。


「……こんな力、いらない……!!」


 もう誰かを癒やせなくてもいい。

 立派なことができなくても、温かな食事を作って、一緒に食べて、同じ空を見上げていたかった。



 ただ、自分の足で歩く場所を選びたかった。



『では、お前はゴミだ』



 レミは息を呑んだ。



『卑しい女。その力を除けば、何も知らず、何もできず、他人に養われるだけの役立たずだ。お前という女に価値があるのではない。その身体に利用価値があるから、生かしてある』


 淡々と告げられる言葉に、目の前の床が遠くなる。


『ゴミはゴミらしく、部屋の隅で蹲っていろ』


 研究所では、いつもそうだった。苦痛に耐えられなくなれば無能と罵られ、逆らえば、生かしてもらっていることを忘れるなと言われた。


 旅の中で少しずつ積み上げてきたものが、その声に押し潰されていく。

 嬉しかったことまで、自分が勝手に勘違いしただけのように思えてきた。



 それでも、左手首の石が指先に触れた時、カインの顔が浮かんだ。


「……違う……」


 ブレスレットを握り込み、レミは首を振った。


「皆は……そんなふうに、言わない……。私が何も知らなくても……」

『だから何だ。私が所有する検体を、他人がどう扱おうと関係ない』

「私は、物じゃない……!!」

『お前の同意など求めていない』


 反論を待つ間さえ与えられなかった。



『あの男に連れ出されて、己の立場まで忘れたか。優しくされれば人間になれるとでも思ったのかね』



 カインのことまで、その声に汚されるのが嫌だった。違うと叫びたいのに、喉が引き攣り、息だけが漏れた。


『戻ってきた以上、もう勝手は許さん。もっとも、今回の逃亡も無駄ではなかった。お前が外でしてきたことは、私の研究を随分と進めてくれたのでな』


「……え……?」

『結果としては上々だ。礼を言ってやってもいい』



 何を知られ、何に使われたのかも分からなかった。



 必死に逃げてきた時間も、自分で選んだつもりの行動も、すべて博士の手の内だったというのか。

 握り締めた石が掌へ食い込み、その痛みだけが、かろうじて今の自分を繋ぎ止めていた。


「お願い……帰して……!」


 自分でも、何を口にしたのかと思った。


 あの研究所へ戻ることではない。仲間のいる場所へ、カインの隣へ帰りたかった。


『帰る場所などない。お前の置き場所は私が決める』


 声には、僅かな苛立ちすらなかった。


『研究は最終段階に入った。もはや生存に必要な部分さえ残れば、お前の身体がどうなろうと支障はない』

「……何を……」

『また歩いて逃げられては面倒だ。その両足を斬り落としておこう』


 レミは動けなかった。


 意味を理解するより先に、視線が自分の脚へ落ちる。山道を歩き、カインを追って丘へ駆け上がった脚だった。


『傷口は処置してやる。失血で死なれては困るからな』



 通信の雑音が途切れた。



 代わって、金属の擦れる音が倉庫に響いた。ゴーレムが剣を抜き、床に座り込んだレミへ歩み寄ってくる。


「……嫌……」


 踵で床を押して逃れようとしても、背中には木箱があった。左右へ目を走らせる間に、異形の影が頭上を覆った。


「やめて……お願い……!」


 剣先が下がり、足元へ向けられる。



 閉ざされた部屋。冷たい床。どれほど頼んでも、何も変わらないまま近づいてくる恐怖。



 この光景を、自分は知っている。



 研究所だけではない。もっと昔にも、同じように怖くて、誰かを呼ぼうとしたことがあった。


 不意に、知らないはずの声が耳の奥で響いた。






『いっしょに来てほしいよ……こわいよ……』




 幼い声だった。


 自分の声なのだと気づいた瞬間、見える景色の高さが変わった。目の前にある手は今よりずっと小さく、誰かの服を掴んでいる。



『大丈夫だ』



 頭に、温かな手が触れた。


 まだ声変わりもしていない少年の声。それなのに、言葉遣いは大人びていて、いつも自分を安心させようとしていた。


 知っている。


 この人を、自分は知っている。



『儀式は怖いものではない。心配せずに行くといい。俺はここで、お前の帰りを待っている』



 顔を見たいのに、思い出せなかった。ただ、優しく頭を撫でる手と、その人のそばを離れたくなかった気持ちだけが、胸の奥から溢れてくる。


 自分には、過去があった。


 何もなかったのではない。誰かと一緒にいて、名前を呼んでもらい、帰りを待ってもらえるはずだった。


 その温もりへ縋ろうとした途端、目の前で剣が持ち上がった。


 今と昔が重なり、どちらへ逃げればよいのか分からなくなる。小さな手を伸ばしているのが幼い自分なのか、床に座り込んだ今の自分なのかさえ、見分けられなかった。



『もしも怖いことがあったら、俺を呼べ』



「……お……に……」



 唇が、忘れていた呼び方をなぞった。


 何度も呼んだ。嬉しい時も、寂しい時も、怖くて泣いてしまった時も。その人はいつだって振り向いてくれた。




『呼べばお兄様が駆けつけて、レティシアを護ってやるからな』




 ――レティシア。




 その名が、閉ざされていた記憶の底へ落ちた。



「お……兄、さま……?」



 思い出しかけた顔が、恐怖の向こうで歪んだ。優しい声に続くはずの記憶が、痛みと悲鳴に塗り潰されていく。


 嫌だ。その先は見たくない。

 でも、呼ばなければ。




「お兄様……! 助けて! 怖い、助けて、お兄様っ!」



 誰に向かって叫んでいるのかも分からないまま、レミは両手を伸ばした。必ず来てくれると信じていた幼い心が、今の自分を押し流していた。


 帰りを待っていると、言ってくれたから。

 頑張れば、また会えるはずだったから。




 呼び続ける少女の声にも、機械人形は動きを止めなかった。


 刃が振り下ろされる。


 レミの青い瞳には、もう目の前の倉庫が映っていなかった。閉じ込めていた悲鳴も、忘れていた痛みも、一度に喉の奥へせり上がってくる。



「いやぁぁぁぁぁーーーっっ!!!!!」



 視界が真っ赤に染まった。



 身体が裂けるような痛みの中で、今の自分を支えていたものが崩れ落ちていく。

 どこにいるのかも、誰を呼んでいたのかも分からなくなり、ただ幼い日の声だけが、遠ざかる意識の底へ降り注いだ。




『良い子にしているんだぞ、レティシア……』





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