98. 絶対に離さない
港へ辿り着いてからも、レミの姿は見つからなかった。
岸壁には大小の船がひしめき、積荷を運ぶ人足と乗船を待つ旅人が入り乱れている。荷車の音に呼び声が重なり、誰かが助けを求めていても、すぐそばを通らなければ聞き逃してしまいそうだった。
「レミーーッ! どこだ、返事してくれ!」
カインは停泊する船を見上げながら走り続けた。
ライフェンの研究所は海の向こうにある。連れ戻すつもりなら、いずれ船を使うはずだ。
一隻出港するたびに、その中へ彼女が閉じ込められているのではないかと、胸が冷たくなる。
一度戻されれば、ライフェンは二度と他人を近づけないだろう。
限界を知らせる仕組みさえ壊れているのではないかと疑われるほど、彼女の身体は酷使されてきた。その男が、逃げ出したレミへ何をするのか。
考えかけた光景を振り払い、カインは次の船へ駆け寄った。
「銀髪の女の子を見なかったか!? 黒いローブの奴が連れてた!」
「いや、こっちには……」
「そうか、悪い!」
礼を言い終えるより先に、また走り出す。
まだ間に合う。
そう思わなければ、足を動かし続けることさえできなかった。
***
重い衝撃音とともに、床を覆う板がひしゃげた。
振り下ろされた剣は、レミの脚があった場所へ突き立っていた。
刃が落ちる寸前、身を引くように横へ転がった彼女は、木箱の山へ肩から倒れ込んでいた。
「はっ……はぁっ……!」
崩れた箱が床へ落ちても、レミは顔を上げられなかった。身体は逃れたはずなのに、意識の中では今も、刃が何度も振り下ろされている。
暗い部屋で、怖いことが起こる。
知っていた。
あそこへ行く前に、夢で見ていた。
それでも大丈夫だと言ってくれたから。怖くなったら呼べばいいと、約束してくれたから。
「お兄、さま……怖い……」
木箱へ縋る指が震え、うまく力が入らない。目を開けても、高まるエーテルと涙の向こうで景色が赤く滲み、昔と今の区別がつかなかった。
「レティシアを……助けて……」
自分の口から零れた名にも気づかず、レミは床を踏みしめた。
剣が引き抜かれる音がする。
また来る。
逃げなければ。
けれど、どこへ行けばいいのか分からなかった。
「助けて……誰か……私の声を聞いて……!」
***
胸の奥を、激しい鼓動が打った。
「……っ!?」
カインは足を止め、目元を押さえた。
両の瞳へ焼けつくような熱が広がり、息を吸うと同時に、周囲の気配が異様なほど鮮明になる。
真紅の瞳が、覚醒していた。
今さら怒りが昂ったわけではない。自分で力を求めてもいなかった。それなのに、身体の奥から何かに引かれるように、視線が一方向へ向く。
「……レミ……?」
以前にも、同じことがあった。
彼女が一人でリアンシティを去った時だ。突然瞳が熱を帯び、その後でリシェイが、レミがいなくなったと駆け込んできた。
行き先を知っていても、通った道まで分かるはずはなかった。それなのに、あの時も迷わなかった。彼女のいる方へ行かなければならないと、強く感じたのだ。
今、胸を突き上げる衝動も、それと同じだった。
「あっちだ!」
カインは大きな桟橋へ続く道から逸れ、倉庫の間を駆け抜けた。
呼び止めるフェイの声へ「こっちにいる!」と返し、富裕層の船が並ぶ私設の停泊所へ飛び込む。
確かに、この方角から感じていた。
しかし船へ視線を走らせた途端、瞳の熱が引き始めた。
追い縋るように意識を集中させても、先ほどまで胸を引いていた感覚が薄れていく。
「くそ……あと少しだろ……!」
それでも、遠くではない。ここまで確かに導かれてきた。
カインは並ぶ船を睨み、腹の底から声を張った。
「レミーーーッッ!!!」
***
その声に、レミは顔を上げた。
崩れた箱を踏み越え、ゴーレムが近づいてくる。その足音の向こうから、もう一度、自分を呼ぶ声が聞こえた。
今度こそ、記憶の中の声ではなかった。
「カイン……!」
暗い倉庫が目に映った。木箱も、開いたままの扉も、振り上げられようとしている剣も。
あの人が来てくれた。
その事実に縋った瞬間、レミの手が動いた。
支えにしていた木箱を両手で押し、積み上がった山をゴーレムの方へ崩す。箱が肩へ落ち、続いて足元へ転がった。剣で払い除けようとしたゴーレムの身体が傾き、進路が塞がれる。
レミはその隙に立ち上がった。
「カイン……!」
足がもつれても、扉の枠へぶつかっても、止まらなかった。皆と歩いてきたこの脚で、今度は自分から彼のいる場所へ戻りたかった。
狭い通路を抜け、明るい甲板へ飛び出す。
「助けて……カイン!」
眩しさに目を細めた先で、港が見えた。けれど、船縁と岸の間には、すでに海水が揺れていた。
離れていく。
このままでは、彼の声さえ届かなくなる。
泳げないことは分かっていた。
深い水へ落ちれば、溺れてしまうかもしれない。それでも船の中へ戻ることだけは、どうしてもできなかった。
海へ出れば、見つけてもらえるかもしれない。
カインなら、伸ばした手を掴んでくれるかもしれない。
レミは柵へ手を掛けたが、直後に背後から首筋を掴まれた。
「……っ!」
身体が甲板へ引き戻され、足が床を離れた。
喉を圧迫されて息が詰まり、それでもレミは岸へ向かって手を伸ばした。
まだ、ここにいる。
お願い、行かないで。
「いやぁぁぁぁぁ――――ッッ!!」
***
カインは弾かれたように振り返った。
一隻の小型船の甲板で、銀色の髪が揺れた。黒い腕に引かれ、その姿が船室の陰へ消えていく。
「あれか!!」
迷う余地はなかった。
岸壁へ向かって走る間にも、船は沖へ進んでいた。悲鳴に気づいた人々が立ち止まり、カインはその間をすり抜けるように加速する。
「レミ! 今行く、待ってろ!」
ようやく見つけた。
あんな声を上げるまで、何をされていた。
どれほど怖い思いをして、自分を呼んでいた。
早く、あの腕から取り戻さなければ。
街の雑踏から追いついたジークが、カインの向かう先を見て声を張った。
「兄ちゃん、待て!」
岸壁の先には、もう海しかない。船はすでに離れ、さらに速度を上げている。跳んでいる間にも距離は開くのだ。
「無茶だ! 届かねぇぞ、落ちる!」
「だったら、ここで見送れってのかよ!!」
足を緩めることなく、カインは叫んだ。
「できるかできないかじゃねぇ! やらなきゃ、全部終わりなんだよ!!」
今ここで止まれば、レミはまた暗闇へ連れ戻される。呼んでも来なかったのだと、彼女に思わせたくなかった。
差し伸べられた手を、今度こそ掴みたかった。
共に花火を見る約束も、まだ果たしていない。
これから先も隣にいてほしいと、伝えられてさえいない。
「はあああああぁぁッッッ!!」
岸壁の端を、カインは渾身の力で蹴り抜いた。
身体が海上へ躍り出る。
風を切り、船の甲板を目指して腕を伸ばした。しかし、指先の向こうで船縁が遠ざかる。勢いは尽き始め、身体が下へ引かれた。
――届かない。
その現実に、カインは歯を剥いた。
「落ちて……たまるかぁぁぁぁッッ!!」
右腕へエーテルを集中させ、空中で体を捻るように回転させる。遠心力と共に抜き放った剣を海面へ叩きつけた。
刀身から迸った高熱と衝撃が水を裂き、轟音とともに水柱が噴き上がる。カインは自ら放った衝撃の反動を受け、落ちかけた身体を押し上げた。
船縁が迫ると、左手を伸ばし、濡れた柵を掴んだ。肩が引き千切れそうな重みに呻きながらも、指だけは絶対に離さなかった。腕を引きつけ、柵へ足を掛けると、そのまま甲板へ身体を投げ込む。
激しく転がって膝をついた時には、もう船室へ顔を向けていた。
***
「……マジかよ、なんだあの兄ちゃんは……!?」
ジークは機雷の如く噴き上がった水飛沫と、その向こうの船を見比べた。
届かない距離だった。
それを、あの男は空中で強引に埋めてしまったのだ。
リシェイは柵を越えたカインの姿を確かめると、詰めていた息をようやく吐いた。
「やったぁ、追いついた! カインってば本当にすごい! ねぇねぇフェイ、『愛の力』ってやつかなぁ?」
「……いや、アホの力じゃない……? 真紅の瞳を発動させてなくても、最近どんどん人間離れしてきてるよ、あいつ……」
フェイも安堵の息を漏らしたが、すぐに岸壁へ目を走らせた。
まだレミを取り戻したわけではない。カイン一人を、あの船へ残すつもりもなかった。
「感心するのは後。オレたちも船を探そう!」
そう言って駆け出す横顔からは、すでに笑みが消えていた。




