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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第八章 私を呼ぶ声
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96. 引き摺り込まれる闇


 ジークは、彼らが消えた屋根の上を呆然と見上げていた。


 つい先ほどまで謝罪をしていた少女が、異形の腕に攫われた。その仲間は剣を抜いて追い縋り、今はもう、建物の向こうへ姿を消している。


「な、何なんですか、あの化け物はぁ……!」


 足元で震えるヤオの声に、ジークはハッと我に返った。何が起きたのかは分からなくとも、少女が自ら望んで連れ去られたのでないことだけは明白だった。


「おい、立て! 加勢するぞ!」

「な、何でですか!? あんな化け物に関わったら、ボクたちまで――」

「その嬢ちゃんは、お前を助けるために飛び込んだんだぞ!」


 襟首を掴んで立たせると、ヤオは息を詰めた。


「恩を返す相手を、目の前で攫われて黙っていられるか。来い!」


 ジークは背負った得物を押さえ、彼らの後を追って走り出した。取り残されたヤオも、遠ざかる背中と騒然とした通りを見比べた末、泣きそうな声を上げながら追いかけた。



 ***



 ギシギシと木材の軋む音に、レミは重い瞼を開いた。



 頬に触れているのは、冷たい床だった。身体を起こそうと手をついたが、肘に力が入らず、一度はその場へ崩れかける。どうにか身を支えて顔を上げても、視界に入るのは積み上げられた木箱ばかりだった。


「……カイン?」


 呼びかけても、返事はなかった。


「リシェイ……フェイ……?」


 つい先ほどまで、皆と一緒にいたはずだった。カインがすぐ隣にいて、こちらを見てくれていた。それなのに、今は誰の姿もない。


 動きを止めると、床が緩やかに揺れていた。遠くから水の打ち寄せる音が届き、湿った空気には潮の匂いが混じっている。


「船……なの……?」


 この街からは乗らないと、言っていたのに。


 首筋の痛みを思い出して手を触れると、小さな傷が指先に引っかかった。あの直後からの記憶がなく、どれほど眠っていたのかも分からない。


 木箱の間から奥へ目を向けても、闇が続いているだけだった。



 狭く、冷たく、光の届かない場所。



 息を吸った途端、研究所の部屋の匂いまで蘇った気がした。ここは違うと言い聞かせても、身体は勝手に強張り、膝の上へ置いた指が震え始める。


「……出なきゃ」


 壁を頼りに立ち上がり、僅かに光の漏れる扉へ向かった。ふらついて木箱へ肩をぶつけたが、痛みよりも、早く明るい場所へ出たいという思いが勝った。


 しかし、辿り着いた扉は押しても引いても開かなかった。


「誰か……いませんか?」


 取っ手を両手で握り、もう一度引く。金具が鳴るばかりで、扉は動かない。


「お願い、開けてください! 私、ここにいるんです!」


 掌で叩いた音が、狭い倉庫へ虚しく響いた。


 あの部屋でも、こうして呼んだことがあった。誰かに聞こえるかもしれないと、扉の向こうで足を止めてもらえるかもしれないと、何度も声を上げた。


 そのたびに、誰も来ないことを覚えていった。


「嫌……」


 もう知ってしまったのだ。名前を呼べば振り向いてくれる人がいることも、寒ければ毛布を掛けてもらえることも、隣へ座るだけで心が温かくなることも。


 あの頃のように、何も望まずにはいられなかった。



 カインに会いたい。



 あの手を握って、声を聞いて、もう大丈夫なのだと確かめたかった。

 会えたら今度はためらわず、自分からそばにいたいと伝えるから。



「カイン……!」


 扉へ額を寄せ、震える息を吸い込んだ。



「お願い、気づいて……! 助けて、カイン……!」



 ***



「どこへ行きやがった!?」



 カインは屋根の縁を蹴り、細い路地へ飛び下りた。


 追い続けていた黒い影は、荷の積み下ろしで混み合う通りへ消えていた。すぐに回り込んだはずなのに、そこには行き交う人々と荷車しか見当たらない。


 路地の奥へ目を凝らし、黒い衣服が見えるたびに振り返った。違うと分かれば次の角へ走り、通りを見渡しては、また足を動かす。


 立ち止まれば、その間にも遠ざかってしまう。



「カイン! 一度、こっち!」


 追いついたフェイが腕を掴んだ。


「屋根から見えた限りじゃ、港の方へ向かってた。リシェイと手分けして――」

「だったら港へ行くぞ!」

「闇雲に走っても見落とす。運び込めそうな道から潰すんだ!」


 カインは歯を食いしばり、ようやく頷いた。


 分かっている。怒鳴ったところで見つからない。焦って通り過ぎれば、助けを求める声さえ聞き逃しかねない。


 それでも、レミが今どこかで目を覚ましているかもしれないと思うと、胸の奥が潰れそうだった。


 暗い場所が苦手なのだ。


 誰もいない部屋に閉じ込められれば、どれほど怯えるか知っている。きっと仲間を探し、声を上げている。自分の名を呼んでいるかもしれない。


 怖くなったら駆けつけると、約束したのに。


「頼むから、間に合ってくれ……!!」


 掴み損ねた指先に、彼女の袖の感触だけが残っていた。


 あと少しだった。

 もう僅かに手を伸ばせていれば、引き留められたはずだった。その一瞬を何度も思い返しながら、カインは港へ続く道を駆けた。



 一度研究所へ戻されれば、今度こそ誰も近づけなくなるだろう。

 外へ出た彼女が二度と逃げられないよう、何をされるか分からない。


 ようやく自分から手を握ってくれるようになった。未来の約束に、行きたいと言ってくれた。その一つひとつを、これからも増やしていきたかった。


 まだ、伝えられていないことさえある。


 どれほど大切なのか。


 そばにいてほしい。


 仲間という言葉だけでは、もう到底足りないほど想っていることを。



「レミ!」



 人々が振り返るのも構わず、声を張り上げた。



「どこだ! 返事しろ……レミッ!」



 答えはなかった。


 カインは足を止めかけた。だが、すぐに首を振り、さらに声を張り上げる。



「レミ、聞こえてるなら返事しろ! 俺が来た! 必ず見つける、だから諦めるな!」



 港へ続く通りを駆け抜けながら、何度も彼女の名を呼んだ。


「返事をしろ! 頼む、声を聞かせてくれ!」


 喉が裂けるほど叫んでも、返ってくるのは人々のざわめきと荷車の音だけだった。声を張るたび、胸の奥から何かが削り取られていく。それでも叫ばずにはいられない。


 彼女が暗闇の中で、自分の名を呼んでいるかもしれない。そう思うと、足を止めることなどできなかった。


「レミ、俺はここだ! お前を置いていかない! 絶対に、絶対に奪わせねぇから!」



 港から響いた汽笛が、カインの叫びを呑み込んだ。



 ***



 扉を叩く手が、痛んでいた。



 擦り剥けた皮膚から血が滲み、鉄の取っ手へ赤い筋を残している。それでもレミは手を止められなかった。黙ってしまえば、このまま誰にも気づかれず、どこかへ運ばれてしまう気がした。



 遠くで汽笛が鳴った。



 船が出るのだろうか。皆のいる街から、もう離れてしまうのだろうか。



「待って……私、まだ……!」



 帰りたい場所がある。


 会いたい人がいる。


 別れなければならないと、自分に言い聞かせてきた。いつか聖地へ着けば、もう二度と会えなくなるのだと。それなのに、突然突きつけられた孤独には、とても耐えられなかった。



 カインの隣へ帰りたかった。



 その願いを胸の奥へ押し込める余裕など、もう残っていなかった。


「ここにいるよ……カイン……!」



 声が掠れ、扉へ触れた手がずり落ちかけた、その時だった。


 カチャリ、と鍵が鳴った。


 レミは息を止めた。



 向こうに誰かがいる。取っ手が動き、閉ざされていた扉の縁から、細い光が差し込んだ。


 来てくれた。


 そう思った瞬間、張り詰めていた胸が緩んだ。彼なら見つけてくれると、信じていた。何度名前を呼んでも返事がなくて、不安でたまらなかったけれど、それでも――。


「カイ……」


 開いた扉へ伸ばしかけた手が、止まった。



 逆光の中に立つ影は、彼よりもどこか歪だった。目が光に慣れるにつれ、瞼のない眼球と、皮膚の下を這う青白い回路が浮かび上がってくる。


 レミは後ずさろうとして足をもつれさせ、その場へ崩れ落ちた。



「あ……あぁ……」



 知っている。


 あの研究所の奥で、何度も見た姿だった。


 いくら頼んでも処置をやめず、痛みに泣いても手を止めない。命令された通りに動く、自我を持たない生体ゴーレム。



『ターゲット……認識……』



 平坦な声に、レミの喉が引き攣った。



 博士に捕まってしまったのだ。



 扉が開いても、外へ出られるわけではなかった。声が届いても、助けてもらえるわけではなかった。

 期待して伸ばした手を胸へ引き寄せると、左手首のブレスレットが触れた。あの夜、カインが自分の掌へ乗せてくれた、小さな宝物だった。指で握り込んでも、彼の手のようには温かくならなかった。


「……カイン……」


 縋るように漏れた名にも、目の前の異形は反応しない。

 その胸元に埋め込まれた魔晶石が明滅し、薄暗い倉庫の中を青く照らした。


『……伝声術式……展開……』


 ザザ、と耳障りな音が響いた。


 レミは扉の向こうを見つめた。異形の背後には明るい通路があるのに、その先へ逃げ出すことも、声を上げることもできなかった。



 そして、雑音の奥から聞こえた声が、僅かに残っていた希望まで凍らせた。




『久しぶりだな…………レミ』




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