96. 引き摺り込まれる闇
ジークは、彼らが消えた屋根の上を呆然と見上げていた。
つい先ほどまで謝罪をしていた少女が、異形の腕に攫われた。その仲間は剣を抜いて追い縋り、今はもう、建物の向こうへ姿を消している。
「な、何なんですか、あの化け物はぁ……!」
足元で震えるヤオの声に、ジークはハッと我に返った。何が起きたのかは分からなくとも、少女が自ら望んで連れ去られたのでないことだけは明白だった。
「おい、立て! 加勢するぞ!」
「な、何でですか!? あんな化け物に関わったら、ボクたちまで――」
「その嬢ちゃんは、お前を助けるために飛び込んだんだぞ!」
襟首を掴んで立たせると、ヤオは息を詰めた。
「恩を返す相手を、目の前で攫われて黙っていられるか。来い!」
ジークは背負った得物を押さえ、彼らの後を追って走り出した。取り残されたヤオも、遠ざかる背中と騒然とした通りを見比べた末、泣きそうな声を上げながら追いかけた。
***
ギシギシと木材の軋む音に、レミは重い瞼を開いた。
頬に触れているのは、冷たい床だった。身体を起こそうと手をついたが、肘に力が入らず、一度はその場へ崩れかける。どうにか身を支えて顔を上げても、視界に入るのは積み上げられた木箱ばかりだった。
「……カイン?」
呼びかけても、返事はなかった。
「リシェイ……フェイ……?」
つい先ほどまで、皆と一緒にいたはずだった。カインがすぐ隣にいて、こちらを見てくれていた。それなのに、今は誰の姿もない。
動きを止めると、床が緩やかに揺れていた。遠くから水の打ち寄せる音が届き、湿った空気には潮の匂いが混じっている。
「船……なの……?」
この街からは乗らないと、言っていたのに。
首筋の痛みを思い出して手を触れると、小さな傷が指先に引っかかった。あの直後からの記憶がなく、どれほど眠っていたのかも分からない。
木箱の間から奥へ目を向けても、闇が続いているだけだった。
狭く、冷たく、光の届かない場所。
息を吸った途端、研究所の部屋の匂いまで蘇った気がした。ここは違うと言い聞かせても、身体は勝手に強張り、膝の上へ置いた指が震え始める。
「……出なきゃ」
壁を頼りに立ち上がり、僅かに光の漏れる扉へ向かった。ふらついて木箱へ肩をぶつけたが、痛みよりも、早く明るい場所へ出たいという思いが勝った。
しかし、辿り着いた扉は押しても引いても開かなかった。
「誰か……いませんか?」
取っ手を両手で握り、もう一度引く。金具が鳴るばかりで、扉は動かない。
「お願い、開けてください! 私、ここにいるんです!」
掌で叩いた音が、狭い倉庫へ虚しく響いた。
あの部屋でも、こうして呼んだことがあった。誰かに聞こえるかもしれないと、扉の向こうで足を止めてもらえるかもしれないと、何度も声を上げた。
そのたびに、誰も来ないことを覚えていった。
「嫌……」
もう知ってしまったのだ。名前を呼べば振り向いてくれる人がいることも、寒ければ毛布を掛けてもらえることも、隣へ座るだけで心が温かくなることも。
あの頃のように、何も望まずにはいられなかった。
カインに会いたい。
あの手を握って、声を聞いて、もう大丈夫なのだと確かめたかった。
会えたら今度はためらわず、自分からそばにいたいと伝えるから。
「カイン……!」
扉へ額を寄せ、震える息を吸い込んだ。
「お願い、気づいて……! 助けて、カイン……!」
***
「どこへ行きやがった!?」
カインは屋根の縁を蹴り、細い路地へ飛び下りた。
追い続けていた黒い影は、荷の積み下ろしで混み合う通りへ消えていた。すぐに回り込んだはずなのに、そこには行き交う人々と荷車しか見当たらない。
路地の奥へ目を凝らし、黒い衣服が見えるたびに振り返った。違うと分かれば次の角へ走り、通りを見渡しては、また足を動かす。
立ち止まれば、その間にも遠ざかってしまう。
「カイン! 一度、こっち!」
追いついたフェイが腕を掴んだ。
「屋根から見えた限りじゃ、港の方へ向かってた。リシェイと手分けして――」
「だったら港へ行くぞ!」
「闇雲に走っても見落とす。運び込めそうな道から潰すんだ!」
カインは歯を食いしばり、ようやく頷いた。
分かっている。怒鳴ったところで見つからない。焦って通り過ぎれば、助けを求める声さえ聞き逃しかねない。
それでも、レミが今どこかで目を覚ましているかもしれないと思うと、胸の奥が潰れそうだった。
暗い場所が苦手なのだ。
誰もいない部屋に閉じ込められれば、どれほど怯えるか知っている。きっと仲間を探し、声を上げている。自分の名を呼んでいるかもしれない。
怖くなったら駆けつけると、約束したのに。
「頼むから、間に合ってくれ……!!」
掴み損ねた指先に、彼女の袖の感触だけが残っていた。
あと少しだった。
もう僅かに手を伸ばせていれば、引き留められたはずだった。その一瞬を何度も思い返しながら、カインは港へ続く道を駆けた。
一度研究所へ戻されれば、今度こそ誰も近づけなくなるだろう。
外へ出た彼女が二度と逃げられないよう、何をされるか分からない。
ようやく自分から手を握ってくれるようになった。未来の約束に、行きたいと言ってくれた。その一つひとつを、これからも増やしていきたかった。
まだ、伝えられていないことさえある。
どれほど大切なのか。
そばにいてほしい。
仲間という言葉だけでは、もう到底足りないほど想っていることを。
「レミ!」
人々が振り返るのも構わず、声を張り上げた。
「どこだ! 返事しろ……レミッ!」
答えはなかった。
カインは足を止めかけた。だが、すぐに首を振り、さらに声を張り上げる。
「レミ、聞こえてるなら返事しろ! 俺が来た! 必ず見つける、だから諦めるな!」
港へ続く通りを駆け抜けながら、何度も彼女の名を呼んだ。
「返事をしろ! 頼む、声を聞かせてくれ!」
喉が裂けるほど叫んでも、返ってくるのは人々のざわめきと荷車の音だけだった。声を張るたび、胸の奥から何かが削り取られていく。それでも叫ばずにはいられない。
彼女が暗闇の中で、自分の名を呼んでいるかもしれない。そう思うと、足を止めることなどできなかった。
「レミ、俺はここだ! お前を置いていかない! 絶対に、絶対に奪わせねぇから!」
港から響いた汽笛が、カインの叫びを呑み込んだ。
***
扉を叩く手が、痛んでいた。
擦り剥けた皮膚から血が滲み、鉄の取っ手へ赤い筋を残している。それでもレミは手を止められなかった。黙ってしまえば、このまま誰にも気づかれず、どこかへ運ばれてしまう気がした。
遠くで汽笛が鳴った。
船が出るのだろうか。皆のいる街から、もう離れてしまうのだろうか。
「待って……私、まだ……!」
帰りたい場所がある。
会いたい人がいる。
別れなければならないと、自分に言い聞かせてきた。いつか聖地へ着けば、もう二度と会えなくなるのだと。それなのに、突然突きつけられた孤独には、とても耐えられなかった。
カインの隣へ帰りたかった。
その願いを胸の奥へ押し込める余裕など、もう残っていなかった。
「ここにいるよ……カイン……!」
声が掠れ、扉へ触れた手がずり落ちかけた、その時だった。
カチャリ、と鍵が鳴った。
レミは息を止めた。
向こうに誰かがいる。取っ手が動き、閉ざされていた扉の縁から、細い光が差し込んだ。
来てくれた。
そう思った瞬間、張り詰めていた胸が緩んだ。彼なら見つけてくれると、信じていた。何度名前を呼んでも返事がなくて、不安でたまらなかったけれど、それでも――。
「カイ……」
開いた扉へ伸ばしかけた手が、止まった。
逆光の中に立つ影は、彼よりもどこか歪だった。目が光に慣れるにつれ、瞼のない眼球と、皮膚の下を這う青白い回路が浮かび上がってくる。
レミは後ずさろうとして足をもつれさせ、その場へ崩れ落ちた。
「あ……あぁ……」
知っている。
あの研究所の奥で、何度も見た姿だった。
いくら頼んでも処置をやめず、痛みに泣いても手を止めない。命令された通りに動く、自我を持たない生体ゴーレム。
『ターゲット……認識……』
平坦な声に、レミの喉が引き攣った。
博士に捕まってしまったのだ。
扉が開いても、外へ出られるわけではなかった。声が届いても、助けてもらえるわけではなかった。
期待して伸ばした手を胸へ引き寄せると、左手首のブレスレットが触れた。あの夜、カインが自分の掌へ乗せてくれた、小さな宝物だった。指で握り込んでも、彼の手のようには温かくならなかった。
「……カイン……」
縋るように漏れた名にも、目の前の異形は反応しない。
その胸元に埋め込まれた魔晶石が明滅し、薄暗い倉庫の中を青く照らした。
『……伝声術式……展開……』
ザザ、と耳障りな音が響いた。
レミは扉の向こうを見つめた。異形の背後には明るい通路があるのに、その先へ逃げ出すことも、声を上げることもできなかった。
そして、雑音の奥から聞こえた声が、僅かに残っていた希望まで凍らせた。
『久しぶりだな…………レミ』




