95. 雑踏の中の悪意
「無銭飲食して通りすがりの嬢ちゃんに庇ってもらったぁ!?」
ジークの声が、通りに轟いた。
フェイは一連の騒動を、ヤオが口にした言葉まで丁寧に語って聞かせた。
必要なら店主にも確かめてもらおうかと微笑まれ、ヤオは口を開きかけたまま青ざめている。
「そうなんだよネ。この可憐な嬢ちゃんが、殴られる覚悟で庇ってくれたわけ。しかも、危険な目に遭いながら貯めてきた大事な報酬まで、全部出してあげちゃってサ」
フェイが残念そうに溜息をつくたび、ジークの額に青筋が増えていった。その様子を横目に、今度はレミの頬へそっと手を添える。
「この可愛いお顔に痕でも残ってたら、どう責任を取るつもりだったんだろうネ。お礼も謝罪もないのに、それでもまだ庇ってあげようとするんだから……優しすぎるよ、レミちゃん」
「あの、フェイ……私は……」
「うんうん。君が気にしてないのは分かってるヨ。だからこそ、余計に…………ねぇ?」
最後の一言だけは、ヤオへ向けられていた。
相手の神経を的確に逆撫でする手腕に、カインは口を挟むのをやめた。ここまで来れば、もはや自分たちの出番ではない。
「ヤオ……てんめぇぇぇ! 俺様に散々恥をかかせやがって! この大バカ野郎がーーッ!」
丸太のような拳が脳天へ落ち、ヤオは頭を抱えて悲鳴を上げた。レミが心配そうに身を乗り出すより早く、ジークはその頭を押さえ、己も深々と頭を下げた。
「ほんっとうに申し訳ねぇ! 何も知らずに、こいつの出鱈目を真に受けちまった! 特に嬢ちゃんには、何と詫びりゃいいか……!」
「い、いいんです。みんな無事でしたし……!」
「そうですよ、ジークさん! 本当はボク一人でも何とか――」
「まだ言うか! まず謝れ! それから礼だ! 恩義を受けたら恩義で返せって、毎日言ってるだろうが!」
「す、すみませんでしたぁ!」
再び頭を押し下げられたヤオを見て、リシェイが小さく頷いた。
フェイも満足そうに笑みを深める一方、カインはようやく肩の力を抜いた。
荒っぽくはあるが、筋の通った相手らしい。
少なくとも、これ以上レミの善意を都合よく使わせることはなさそうだった。
このような仁義の男に師事していながら、何故少年の歪んだ性格が形成されてしまったのか理解に苦しむ。
「立て替えてもらった金は、俺様が返す。それと、詫びと礼を兼ねて何か奢らせてくれ。ちょうどメシ時だ。好きなものをたらふく食ってくれ!」
リシェイの顔が一瞬輝いたが、カインと目が合うと、残念そうに口を閉じた。
この街には長居できない。ただでさえ足を止めているのに、食事まで付き合う余裕はなかった。
「金を返してもらえりゃ十分だ。謝礼もいらねぇ。俺たち、先を急ぐんで」
「そうです。私、お礼が欲しくてしたわけではありませんから」
レミも慌てて首を振ったが、ジークは納得しかねる様子で腕を組んだ。
その背後では、絶え間なく人が行き交っていた。
荷車を避けた人波が左右へ分かれ、その隙間に黒い影が紛れ込んだことにも、誰一人気づかなかった。
「だが、それじゃ俺様の気が済まねぇ。せめて何か礼を……」
「本当に、もう大丈夫です。それより、ヤオさんをあまり怒らないであげてください。お財布を失くしたのは事故ですし……私、それで十分です」
レミが柔らかく微笑むと、ジークも言葉に詰まった。
どこまでも彼女らしいと思いながら、カインはその横顔を見つめた。自分を危険に晒してまで他人を庇うところには肝を冷やされるが、その優しさに何度も救われてきたのは、自分も同じだった。
無茶をするなと叱りながら、結局、この笑顔を見ると強くは言えなくなる。
こんなにも優しく、愛おしい彼女だからこそ、自分は――。
「痛……っ」
レミが小さく肩を跳ねさせた。
その微笑みが不意に消え、首の後ろへ手が伸びる。カインはすぐに周囲へ目を走らせたが、通行人は変わらず行き交い、彼女へ触れた者も見当たらなかった。
「どうした?」
「分からない……今、首の後ろがチクッと……」
指先で首筋を探ったレミは、困ったように眉を寄せた。
「髪が引っかかっただけかな。何でもないと、おも……」
言葉が途切れた。
焦点の合っていた青い瞳が揺れ、膝から力が抜ける。カインは咄嗟に腕を伸ばした。
「レミ!?」
その身体を受け止める寸前、青白い光が二人の間へ滑り込んだ。
帯状のエーテルがレミの胴へ巻きつき、華奢な身体を横合いから引き攫う。
掴もうとした手の中を、彼女の袖が擦り抜けた。
「なっ――!」
指を閉じても、何もなかった。
倒れかけていたはずのレミが、人波の向こうへ凄まじい勢いで引きずられていく。カインは地を蹴り、行き先を目で追った。
通行人が悲鳴を上げて身を引いた、その先に、黒いローブの人物が立っていた。
力を失ったレミを片腕で抱え込み、垂れた銀髪の向こうから、生気のない声を漏らす。
『目標確認……捕獲完了……』
レミの腕が、だらりと揺れた。
つい先ほどまで笑っていた。自分の隣にいて、声を交わし、手を伸ばせば触れられる場所にいた。その彼女が、今は呼びかけに応えることもなく、見知らぬ腕に抱えられている。
カインは瞳孔を極限まで見開いた。
「レミーーーッッ!!!」
叫んだ時には、すでに剣を抜いていた。
「てめぇぇぇッ!! レミを返せ!!」
ローブの人物がレミを抱え直して跳び退く。その動きへ食らいつくように踏み込み、彼女を避けて相手の肩口へ刃を走らせたが、切っ先は黒い布を掠めただけだった。
逃がすか。
振り抜いた勢いを足で殺し、左手の鞘を下から突き上げる。相手の顎を捉えた瞬間、硬い衝撃が腕へ返った。
人を打った感触ではなかった。
首が不自然な角度へ跳ね、ずれたフードの下から顔が覗いた。裂けた人工皮膚の奥で青白い回路が脈打ち、瞼のない眼球が、感情もなくこちらを映している。
(エーテルゴーレム……!)
研究所で戦った異形が、脳裏に蘇った。
人の姿に似せ、雑踏へ紛れ込ませていたのだ。自分たちが足を止め、警戒を緩める瞬間を待っていた。
「ライフェン……!!」
噛み締めた歯の奥で、その名が軋んだ。
また奪うのか。
ようやく笑えるようになった彼女を。自分から誰かへ手を伸ばせるようになった彼女を。やっと手に入れた居場所と、穏やかな時間を。
あの暗い場所へ、もう一度引きずり戻すというのか。
「ふざけんな、この野郎!!」
レミは物じゃない。誰かの都合で連れ去られていい存在じゃない。自分の目の前で、何度も奪われてたまるものか。
そんなことは、絶対にさせない。
カインが再び間合いを詰めた時、ゴーレムの胸元で魔晶石が強く光った。
「カイン、下がれ!」
フェイの声と同時に、足元から衝撃が弾けた。
砂埃が噴き上がり、通行人が悲鳴を上げて逃げ惑う。カインは腕で顔を庇いながら踏みとどまったが、その一瞬で黒い影は頭上へ跳んでいた。
「待てッ!」
伸ばした手は、レミの垂れた指先にさえ届かなかった。
ゴーレムが三階建ての建物の縁を掴み、レミを抱えたまま屋根へ躍り上がる。フェイが銃を抜いたものの、抱えられた彼女と射線が重なり、引き金を絞れない。
「レミ! レミ、返事して!」
リシェイの声にも、彼女は顔を上げなかった。屋根の上で銀髪が揺れ、次の瞬間には黒い影ごと隣の建物へ消えかける。
カインは剣を握り締め、人波を押し分けて走り出した。
あの腕から引き剥がさなければ。今すぐ追いつかなければ、彼女はまた、誰にも声の届かない場所へ連れていかれる。
すぐ隣にいたのに。
守れる距離に、いたはずなのに。
何も掴めなかった手が、怒りで震えた。レミの微笑みと、力なく垂れた腕が交互に脳裏を焼き、息をすることさえもどかしい。
許さない。
絶対に取り戻す。
誰が相手だろうと、どこへ逃げようと、必ず追いついて引きずり戻す。
見失うまいと屋根を睨み上げた瞳の奥で、焼けつくような熱が膨れ上がった。カインはさらに追いかける速度を上げた。
「レミッ!! 待ちやがれぇぇッ!! くそがぁぁぁッ!!」




