94. 狡い少年とその上司
通りの一角で店の扉が荒々しく開き、誰かの身体が路上へ投げ出された。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ!」
尻餅をついたのは、リシェイと同じくらいの年頃の少年だった。続いて料理人姿の大男が飛び出し、店先へ怒声を響かせる。
「金もねぇのに飯を食いやがって! いい度胸じゃねぇか!」
「だから、無銭飲食なんかじゃないんです!」
「じゃあ払え!」
「それが、その……財布が……!」
カインたちは、そのやり取りだけで大方の事情を察した。
人の入り乱れる貿易都市では珍しくない揉め事なのだろう。通行人もちらりと見るだけで、足を止めようとはしなかった。
「おい、行くぞ」
カインが歩き出そうとすると、繋いでいた手が引かれた。
「でも……あの人、違うって言ってるよ。誤解されてるんじゃ……」
「事情は知らねぇけど、代金を払ってないのは確かだろ。揉めるなら警備隊に任せりゃいい」
ここで騒ぎに関われば、人目を引く。レミを連れている以上、避けたい事態だった。
だが少年は、とうとう路上で頭を下げ始めていた。
「すみません! 財布を落としちゃったんです! 探してきますから、勘弁してくださいよぉ!」
「そのまま逃げるつもりだろうが!」
くすんだ金髪に、幼さの残る顔立ち。身なりは上等で、腰には長剣まで佩いているが、今はひたすら小さくなっている。
店主がその胸ぐらを掴み上げ、拳を振り上げた。
レミの手が、カインの指をすり抜けた。
「やめて!」
「おい、レミ!?」
呼び止めるより早く、レミは二人の間へ飛び込み、少年を掴む腕へしがみついた。不意を突かれた店主の手が緩み、少年が地面へ転がる。
だが、振り下ろしかけた拳は止まらなかった。
レミが身を縮め、目を閉じたところで、鈍い音がした。
「……殴るこたぁねぇだろ」
追いついたカインが、拳を片手で受け止めていた。
店主は額に青筋を浮かべて押し込もうとしたが、その腕は動かない。カインが一歩前へ出て軽く押し返すと、体勢を崩し、尻餅をついた。
レミが目を開くのを確かめ、カインはその頭を軽く小突いた。
「危ねぇだろ、馬鹿! お前が殴られてどうすんだよ!」
「ごめんなさい……でも、殴るのは……」
俯いたレミが、小さく続けた。
「怖くて、痛くて……終わってからも、ずっと覚えてるんだよ」
カインは言葉を詰まらせた。
彼女が見ていたのは、代金を払ったかどうかではなかった。逃げ場を失い、殴られるのを待つしかない者の姿だったのだ。
その気持ちを否定することはできなかった。
けれど、彼女が次の標的になるところを見た恐怖も、すぐには消えない。
「……分かった。でも、次は俺たちを呼べ。お前まで殴られたら、こっちだって堪らねぇよ」
「うん……ごめんなさい」
カインはその頭へ一度手を置き、立ち上がった店主へ向き直った。
「いくらだ。そいつの分、俺が立て替える」
財布を出そうとした手を、レミが止めた。代わりに自分の金を取り出し、店主へ差し出す。
「私が払います。だから、もう殴らないでください」
魔水晶を売って得た、彼女の手持ちの金だった。カインが口を開きかけると、レミは小さく首を振った。飛び出したのは自分なのだからと、その目が訴えていた。
騒ぎに足を止めた人々の視線が集まる中、店主は差し出された金をひったくるように受け取った。見知らぬ少女まで殴りかけたことには気まずさを覚えたのか、目を逸らし、少年へ吐き捨てる。
「……次からは、食う前に確かめろ!」
店へ戻った男が荒々しく扉を閉めると、フェイとリシェイも二人へ歩み寄った。
「怪我はないかい?」
「うん。大丈夫」
「もぉ、見てる方は大丈夫じゃなかったんだからね!」
リシェイが頬を膨らませ、レミは申し訳なさそうに肩を落とした。
見物していた者たちも、再び歩き始めていた。
その人波の中に、冷ややかな目でこちらを見つめる影があったことには、誰も気づかなかった。
「いやぁ、本当に頭にきますね!」
明るい声に振り返ると、先ほどの少年が服の埃を払っていた。レミは駆け寄って少年の無事を確認する。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「ええ! あなたも怪我をしなくて、本当によかったですね!」
レミが安堵する一方、残る三人は揃って眉を寄せた。その言い方では、まるで偶然、同じ災難に遭った者同士である。
少年は店の扉へ舌を出し、のびのびと背伸びをした。
「まったく、野蛮なんだから。財布を落としたと知っていたら、ボクだって食べませんよ! でも、こうして助かったんですから、神様はちゃんと見てるんですねぇ」
「……おい」
カインの低い声に、少年は振り返ると顔色を変えた。
ただでさえ背が高く、修羅場をくぐってきた鋭い目つきの男に本気で睨みつけられると、気弱な少年はビクリと肩を跳ねさせた。
「な、何ですか?」
「神様の前に、こいつに言うことがあるだろ」
金を払ったのも、殴られそうになったのも、目の前にいるレミだ。彼女の助けを当然のこととして済まされては、黙っていられなかった。
ところが少年は、納得したように手を打った。
「ああ、お金ですね! 邸に戻ったら郵送させますよ。住所を教えていただけますか? 謝礼も上乗せしておきますから!」
カインの眉間に、深い皺が刻まれた。
「……そういう話じゃねぇんだよ」
「足りませんか?」
「ねぇ、一発だけなら駄目かな」
リシェイが小声で尋ねると、フェイがにこやかに答えた。
「やめときな。今度はこっちが治療費を払うことになるヨ。気持ちはよーーーく分かるケド」
「そ、それも困るよ。ね、もう行こう?」
レミが仲間たちを見回した、その時だった。
「あっ、テメェ! やっと見つけたぞ、ヤオ!」
腹に響く声とともに、人波の向こうから大男が現れた。
燃えるような赤い短髪に、鋭い青い瞳。目元と鼻頭には大きな傷が走り、分厚い身体の背には、布で包まれた巨大な得物を背負っている。
「ひぇっ! ジ、ジークさん!?」
少年は逃げようとしたが、男は巨躯に似合わぬ速さで距離を詰め、あっさりと襟首を捕まえた。
「集合は十二時っつっただろうが! 俺様は時間にルーズな奴が大っ嫌いなんだよ!」
「それには、色々と訳があるんですぅ〜!」
また変な揉め事が始まったとばかりに、カインは額を押さえた。男は少年を捕まえたまま、一行へ顔を向ける。
「ん? 何だ、アンタらは」
「俺たちは――」
「こ、この人を助けていたんです!」
カインを遮り、少年がレミを指差した。
「……私?」
自分を指したレミへ、少年は必死に頷いた。
「この人がガラの悪い男に絡まれていましてね! 見捨てるわけにもいかず、ボクが間に入ったんです。遅れるとは思いましたが、人助けを優先すべきだと!」
ジークから見えない位置で手を合わせ、レミへ片目を瞑ってみせた。口裏を合わせてほしいのだと分かり、レミは困惑した。
「……そうなのか、銀髪の嬢ちゃん?」
問われたレミは、少年を見た。先ほどとは別の理由で怯えきっている。嘘はいけないと思うが、ここで否定すれば、また酷く叱られるのだろうか。
だが、その見苦しい態度に、カインたちの堪忍袋は今度こそ切れていた。
レミが庇おうと口を開いたその瞬間、カインの手が伸びた。
「えっと、は……んんー!?」
肯定の言葉になる前に、掌が口元をぴたりと覆った。レミが驚いて見上げても、カインは有無を言わせず自分の側へ引き寄せ、少年を睨んでいる。
「お前は黙ってろ。こいつの都合で、嘘までついてやる必要はねぇ」
「その通り。ここからは、オレが話すヨ」
フェイが、極上の笑みを浮かべて前へ出た。
「オレはフェイ。旅の途中なんだけど、おたくと、その子の関係を聞いてもいい?」
「俺様はジーク=アルテイン。所属組織の用事で来てる。こいつはヤオ=エイジャ、まだ新米の部下だ」
「ふうん……部下ねぇ」
フェイはゆっくり頷き、ヤオへ目を向けた。その笑顔を見たカインは、ようやくレミの口から手を離した。リシェイも黙って腕を組む。
怒鳴るよりも殴るよりも、相手が一番困るところへ言葉を差し込んでいく。二人とも、この顔になったフェイを知っていた。
「じゃあ、責任者の方に会えてよかったヨ。本人とは、どうにも話が噛み合わなくてサ」
「……何?」
ジークの眉が寄ると、ヤオは慌てて笑顔を作った。
「い、いえ、大したことでは! ちょっとした行き違いがありましてね!」
「そうそう。助けた方と助けられた方が入れ替わっちゃうくらいの、ちょっとした行き違い」
即座に同意され、ヤオの笑顔が引き攣った。
「……ヤオ。どういうことだ」
「そ、それは……」
「順番に話そうか。その方が、間違いもないだろ?」
フェイは返事を待たず、先ほどの店へ視線を向けた。
「まず、あの店からこの子が放り出されてきたところからなんだけどネ――」
もう1話、夜に更新予定です。




