93. 貿易都市・オルケルグシティ
エリザ村の一件で大きく逸れた道筋を立て直すには、どうしても大都市を越えなければならなかった。
情報の集まる都市部には、追手が網を張っている恐れがある。
これまでは避けてきたものの、今はほかに適当な道もない。必要な用事だけを済ませ、長居せずに通り抜けるつもりだった。
やがて長かった旧街道が賑やかな大街道へ合流すると、景色は一変した。
道の両側には店が軒を連ね、車道を馬車や荷車がひっきりなしに行き交っている。車輪が石畳を叩く音に、客を呼ぶ声や異国の言葉が重なり、歩いているだけで四方から音に包まれるようだった。
貿易都市、オルケルグシティ。
重厚な石造りの建物が隙間なく立ち並ぶ街を見上げ、レミは感嘆の息を漏らした。
「す、すごい……! 人がたくさん……!」
浮かれている場合ではないと分かっていても、目に入るものすべてが気になった。
大きな荷を背負った商人、見慣れない衣服の旅人、店先へ積み上げられた色鮮やかな品々。どこを見ても人がいて、その向こうにも道と建物が続いている。
「リアンシティより、ずっと大きな街があるんだね……」
「そりゃあるさ。リアンシティだって小さくはないけど、全体で見れば中くらいだからな」
「あれで、中くらいなんだ……」
レミが目を丸くする隣で、カインは通行人の流れや脇道へ視線を配っていた。
ふと店先へ気を取られたレミの肩に、人がぶつかった。よろけた拍子に後ろからも押され、謝ろうと振り返る間に、仲間たちとの距離が開いてしまう。
「おい、こっち」
すかさず腕を掴まれ、レミはカインの側へ引き戻された。
「大丈夫か?」
「う、うん。ごめんね。人が、どんどん来るから……」
「ここで止まると危ねぇな」
カインは人波の切れ目を確かめると、掴んでいた腕を離し、代わりに彼女の手を取った。
「これならはぐれないだろ。気になるものがあっても、一人で行くなよ」
「……うん!」
レミが嬉しそうに握り返すと、カインの口元も自然に緩んだ。繋いだ手を引く速さは彼女に合わせて落とされ、人とすれ違うたび、カインがさりげなく間へ入る。
その後ろを歩くリシェイは、二人を見てからフェイへ顔を寄せた。
「ねぇ……あれで付き合ってないんだよね?」
「確認したくなる気持ちは分かるヨ」
「手、繋ぐのも普通になってるし……」
「そこで立ち止まってると、オレたちの方が置いてかれるぞ」
フェイに促され、リシェイも慌てて歩調を速めた。
エリザ村を出てから、二人の間に流れる空気は確かに変わっていた。
カインが手を伸ばせば、レミもためらいながら応じる。まだ何も分かっていないようでいて、自分から近づこうとすることも増えている。
このまま、皆と生きていく未来を望んでくれたら。
リシェイは繋がれた手を眺め、ずっと胸にあった疑問を思い出した。
「ねぇ、カイン」
追いついて呼びかけたものの、周囲の声に紛れそうになった。カインは少し先にある建物の壁際へ皆を促し、往来から外れたところで振り返った。
「どうした?」
リシェイは声を落とした。
「博士と、話し合うことはできないのかな。偉い人なんでしょ? ちゃんと話せば、分かってくれたりしない……?」
追われずに済めば、聖地へ行く必要もなくなる。博士にも何か考えがあるのなら、別の方法を示すことで納得してもらえないのだろうか。
だが、レミは小さく俯いた。
「私が話しても……きっと、聞いてくれないよ」
「レミ……」
「博士は、私が何を思っているかなんて……どうでも良いんだと思う」
何を訴えても、余計なことを考えず、黙って生きていればいいと言われてきた。苦しいと言っても、やめてほしいと泣き叫んでも、処置が止まることはなかった。
恐ろしい、薄闇の記憶。
繋いだ手に僅かな強張りを感じ、カインは握る力を緩めた。離すのではなく、彼女が苦しくならないように持ち直す。
「……俺だって、話して済むならそうしたいさ」
誰も傷つかず、彼女も自由になれる。それ以上に望ましい解決などなかった。
カインが研究所で会ったライフェンは、冷静で理知的な人物だった。四十代後半と聞いた年齢より若く見え、身なりも口調も整っていた。
確かに共同研究案をバッサリ切り捨てるなど冷酷な態度ではあったが、それは基本的にあの依頼主のせいだ。
少なくとも、全く言葉の通じない相手には見えなかった。
だからこそ、その後で目にしたレミの姿が、今も忘れられない。
研究室から戻った彼女は全身に傷を負い、虫の息で、それでも自分の置かれた境遇を当然のように受け入れていた。あれほど落ち着いた顔で話す男が、その裏で、彼女に何をしていたのか。
あの時の処置も、身体の異常に関係しているのだろうか。
ゼロは、限界を知らせるリミッターが壊れているのではないかと言っていた。確かなことはまだ何も分からないが、彼女が知らぬ間に力を使いすぎ、命を危険に晒している可能性はある。
博士なら、その原因を知っているのかもしれない。
だが、知っているからこそ、彼女を手放さないのだとしたら。
研究が途上なのか、すでに何らかの成果を得ているのかさえ、カインには分からなかった。ただ、外へ逃れたレミを追わせるほど、博士が彼女に執着していることだけは確かだった。
「……考えてないわけじゃねぇよ。でも、向こうが何を欲しがってるのかも分からないまま、連絡を取るのは危ねぇ」
「うん……ごめん。そんな簡単な話じゃないよね」
リシェイが肩を落とすと、レミは首を横に振った。
「ありがとう。私のために、考えてくれたんでしょう?」
その微笑みに、リシェイはますます何も言えなくなった。
その時、低く重い汽笛が街の上へ響き渡った。
レミが顔を上げ、音のした方へ振り返る。通りの向こうでは大きな荷車が進み、人々の間を抜けて、港へ向かっているようだった。
「今のは、何の音?」
「船が出港を知らせてるんだヨ」
フェイも港の方へ目を向けた。
「ここは大きな貿易港だからネ。荷物を運ぶ船も客船も、色々集まってくるのさ」
「船……」
レミの表情が明るくなった。
「じゃあ、ここから船に乗れば、大陸を越えられるの?」
カインは、繋いでいた手を意識した。
救済の聖地へ向かうには、海を渡ってラメント大陸へ進み、エヴァルナ国を経由しなければならない。ずっと内陸を歩いてきたレミが、ようやく辿り着いた港に期待するのは当然だった。
それでも、その声を聞くと胸が重くなった。
自分から手を握り返してくれるようになっても、彼女が目指す場所は変わっていない。その先に待つ別れも、まだなくなったわけではなかった。むしろ、どんどん近づいている。
「あー……ここから乗るのは、ちょっと待った方がいいかな」
フェイが慎重に切り出した。
「どうして?」
「大きな港は管理も厳しいんだ。客船に乗れば乗客の名簿が残るし、調べられたら、どの船でどこへ向かったか分かっちゃうからサ」
「博士たちにも……?」
「その可能性がある。船の上じゃ、途中で降りて道を変えることもできないだろ?」
航海には数日かかる。出港したからといって安全とは限らず、行き先を知られれば、到着する港で待ち受けられる恐れもあった。
カインも頷いた。
「ここは通り抜けて、もう少し小さい港を探そう。どこから乗るにしても、まず船と港の様子を確かめねぇとな」
「……そっか。そうだよね」
レミは残念そうに目を伏せたが、それ以上は言わなかった。
必要な用心だと、カイン自身も思っていた。けれど、すぐに船へ乗らずに済むことへ安堵したのも、本心だった。
もう少しだけ時間が欲しい。
遠くになど行かないでほしい。
彼女がこの世界で生きていく道を見つけ、聖地以外の行き先を望んでくれるまで、そばにいたかった。
その願いを、彼女の安全のためという言葉に重ねている自分がいた。
落ち込んだ横顔を見ると後ろめたかったが、繋いだ手を離すことも、ここから船に乗ろうと言うこともできなかった。
「金がないとはどういうことだ!!」
突然、雑踏を突き破るような怒鳴り声が響き、一行は揃って顔を上げた。
連続2話更新します。




