91. あの温もりの意味
レミに無理をさせないよう旅を続け、七日が経っていた。
人里や大通りを避ける一行は、宿より無人の山小屋を頼ることが増えていた。山の天気は変わりやすいため、この日は早めに移動を切り上げ、カインとフェイが水汲みと野草の採取へ出かけた。
小屋に残ったリシェイは、手鏡を覗きながら前髪を整えていた。
隣では、レミが左手首のブレスレットを撫でている。花火の夜に貰って以来、時々こうして眺めては、嬉しそうに目元を緩めていた。
(カインも、たまには気の利いたことするじゃん!)
カインが進んで女性にプレゼントを贈るなど、知る限りでは初めてだ。レミの喜びようを見るとこちらも嬉しくなる。
リシェイが微笑ましく思いながら櫛を動かしていると、レミが顔を上げた。
「ねぇ、リシェイ」
「んー?」
「リシェイとカインって、キスしたことあるの?」
手鏡が膝へ落ちた。
リシェイはそれを拾わず、ゆっくり振り向いた。
「……誰と誰が?」
「リシェイと、カイン……」
「ない! ないないない! 何で!?」
思わず立ち上がって身を引いた。
毎日のように小言を言われ、頭を小突かれ、食べすぎだの走るなだのと叱られる相手だ。
はっきり言ってあちらは自分の事を女性に分類すらしていないと思う。
レミの言葉を想像しかけ、全力で追い払った。
「やめてよ、鳥肌立っちゃったよ!?」
「ご、ごめんなさい……」
「あ、違う! レミに怒ってるんじゃなくて! 何で急に、そんなこと聞いたの!?」
「だって、二人はお互いに好きでしょう?」
「好きだよ!? でも家族とか、仲間として。アタシとカインは兄妹みたいなものだから!」
そこまで言って、口を閉じた。
レミはからかっていなかった。本当に分からなくて、答えを待っている顔だった。
リシェイは落ちた鏡を拾い、伏せて置いた。
「……ねぇ。その質問、何があって出てきたの?」
レミがブレスレットを隠すように手を重ねた。
花火の夜が、頭をよぎる。
二人きりにしてやった後、真っ赤になって布団へ潜ったレミ。何を聞いても、ろくに答えなかったカイン。
「……カインと、したの?」
返事はなかった。
代わりに、レミの顔が耳まで赤くなった。
「ほっぺ?」
小さく首が横へ振られる。
「……口?」
今度は頷かれた。
「早くない!?」
叫んでから慌てて入口を見た。二人はまだ戻っていない。胸を押さえて声を落としたが、気持ちは少しも落ち着かなかった。
告白はしていないと聞いた。
なのに、どうしてキスはしているのだ。
好きだと言えなくて困っているんじゃなかったのか。
何処で順番を追い越した。
「あの……嫌だったわけじゃないの。ただ、私、何も知らないから。仲のいい人とはすることなのかなって……」
それで、自分とカインの関係を尋ねたらしい。
なるほど。話の筋は分かった。
分かったが、兄貴分との口づけを、身内へ確認するのは勘弁してほしかった。
「……先に言うけど、アタシ、詳しくないからね?」
「そうなの?」
「そうだよ! 今、レミより分かってないことがあるくらいだから!」
カインが女の子とそういう事をしているのを、見たこともなかった。
いや、別に見たくもない。
けれど実際にあったらしい。レミの赤い顔を見れば、聞き間違いでもなさそうだった。
リシェイは一度深呼吸し、隣へ座り直した。
「普通は……仲がいいだけで、誰とでもするものじゃないと思う。恋人とか、そういうふうに好きな人とするんじゃないかな」
「そういうふうに、好きな人……」
「あっ、カインが何考えてたかは本人に聞いてね! アタシが代わりに決めるのは違うから!」
勢いよく付け足すと、レミは真剣に頷いた。
くっついたらいいなとは思っていた。二人きりにすれば、少しは素直になれるかもしれないとも。
だが、今ここで本人の気持ちを勝手に言ってしまうのは違う。そのくらいは、恋愛に疎い自分にも分かった。
「それより、レミはどうだったの? 嫌だったとか、もうしてほしくないとか……」
「ううん!」
間髪を入れず否定され、リシェイは目を瞬いた。
レミ自身も驚いたように口を閉じ、膝へ視線を落とす。
「……胸が苦しくなって、どうしたらいいか分からなかったの。でも、離れたくなくて……服を掴んじゃった」
「そ、そっか」
「そうしたら、もう一度、今度はもっと……」
「待って」
リシェイは片手を上げた。
もう一度。
一回ではなかったのか。
しかも一度目より聞くに耐えない状況な気がする。
鏡を伏せておいてよかった。今の自分は、きっと相当変な顔をしている。
「……リシェイ?」
「ちょっと考えてるだけ。続きは……いったん大丈夫」
「でも、どうしていいか分からなくて」
「うん。それは分かった。すごく分かった」
分からないのはカインの方だ。
普段は「早く寝ろ」「足元見ろ」と世話を焼いているくせに、二人になると何をしているのだろう。いや、それを今聞いたのだが、頭が受け入れるのを拒んでいた。
好きな異性なのだから、そういう事をしたいと思うのはある意味健全なのだろうが。
メルなら、きっと目を輝かせて続きを聞く。
どうして、こういう時にいないのか。
専門の人が必要だった。
「……変だったかな」
小さな声に、リシェイは顔を上げた。
レミが不安そうにこちらを見ている。自分が慌てすぎたせいで、何か悪いことをしたと思わせてしまったらしい。
「変じゃないよ。びっくりしたのは、アタシの都合だから」
「……うん」
「嬉しかったんだよね?」
「……多分。恥ずかしくて、今もカインの顔を見ると、思い出しちゃうけど……」
ブレスレットへ触れる指が、そっと石を撫でた。
その仕草を見ていると、茶化す気にはなれなかった。
大切にされることを、まだどう受け取ればいいか分からないのだろう。
嬉しくても、自分の感じ方が間違っていないか、不安になるのかもしれない。
それに今まで人やものに対しての感情の起伏が薄かったレミが真剣に考えている。それは自分達も望んだ変化だった。
何か言ってあげたい、そう思った。
「初めてなら、分からなくても仕方ないんじゃない? アタシだって、そんなことになったら困ると思う」
「リシェイも?」
「困るよ。今だって、話を聞くだけでこんなに困ってるのに」
レミの口元が少し緩んだ。それを見て、リシェイもようやく笑えた。
「だから、すぐに答えを出さなくてもいいと思う。嬉しかったなら、嬉しかったでいいし。もっと一緒にいたいなら、そう思ってていいんじゃないかな」
「……いいのかな」
「いいでしょ。カインに迷惑かも、とか考えてる?」
「……うん」
やっぱり、とリシェイは肩を落とした。
あちらは、迷惑どころではないだろう。
もっとどころか、ずっと一緒にいたいはずだから。
だが、それも本人に言わせたい。
「カインがどうしてほしいかより、先に、自分はどうしたいか考えてみなよ。嫌なことなら嫌って言っていいし、嬉しいことまで、遠慮してなかったことにしなくていいと思う」
「……自分は、どうしたいか」
「うん。レミの気持ちなんだから、大事にしなよ」
言い終えて、少し照れくさくなった。
自分が誰かへ恋愛の助言をする日が来るとは思わなかった。しかも相手は、よりによってカインだ。
レミは黙って考えていたが、やがて急に頬を両手で包んだ。
何を考えたのか。
聞くべきではない。今度こそ聞いたら戻れなくなる。
「……少し、考えてみる」
「うん。それでいいと思う」
「ありがとう、リシェイ。聞いてくれて」
「……どういたしまして……」
大きく息を吐いたところで、小屋の扉が開いた。
「ただいま。水、汲んできたぞ」
「食べられそうなのも見つかったヨ。……何、二人で内緒話?」
カインの顔を見た途端、リシェイの頭に「もう一度」が蘇った。
見慣れた兄貴分だった。袖をまくり、重い水の容器を抱え、いつも通りに部屋を見回している。
人の知らないところで、そんなことをしていたのかと思うと、気まずい。
「……お、おかえりなさい」
レミが真っ赤になって俯いた。
あまりにも分かりやすい。
カインも何か察したのか、容器を持ったまま目を細めた。
「何だよ。二人して」
「別に!」
「何も聞いてねぇだろ、まだ」
「女の子同士の話だから! 水、そっち!」
指差すと、カインは不審そうに眉を寄せた。
「何で俺、怒られてんだ……?」
フェイがこちらを見た。
次にレミを見て、最後にカインへ目を向ける。その口元が、ゆっくり上がった。
何か分かった顔だった。
助けろ、と目で訴えたが、フェイは肩を震わせ、採ってきた野草へ顔を伏せた。
こっちにも専門家がいた。役に立たない方の。
「レミ。疲れたか?」
カインが声をかけると、彼女は首を振った。今度は俯かず、恥ずかしそうに彼の顔を見上げる。
「ううん。大丈夫」
その返事に、カインの眉間が緩んだ。
二人の間に流れた柔らかな空気を見て、リシェイも少し笑った。幸せになってくれたらいい。その気持ちは、今も変わらない。
ただ、もう少し段階を踏んで聞きたかった。
「……何だよ、リシェイ。言いたいことあるなら言え」
「ない! 今は、何も言わないで」
これ以上、兄貴分の知らない一面を追加されては堪らなかった。
リシェイは水の容器へ向かい、心の中で、遠くリアンシティにいる友人へ呼びかけた。
メル。
次の相談は、絶対そっちが聞いて。




