90. 口づけ
「大切にするね……」
「ああ。でも、使わずに仕舞い込んだりすんなよ」
「そんなことしないよ。ずっとつけていたいもの」
嬉しそうな声を聞いていると、頬へ添えた手を離し難くなった。贈り物を喜んでもらえたことより、その顔を自分へ向けてくれることが嬉しかった。
「レミ」
名を呼んで身を屈めると、彼女の目が大きくなる。
逃げる気配はなかった。だが、近づいた距離に戸惑っているのは分かり、カインはそこで止まった。
「……嫌か?」
小さく首が横へ振られた。離そうとした指へレミの手が重なり、もう片方の手が胸元の服を掴む。
「嫌じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「カインが近いと、どうしていいか分からなくなるの」
カインは僅かに笑みを緩めた。
「別に、何もしなくていいよ」
頬を支える手へ力を込めず、もう少しだけ顔を寄せる。レミはこちらを見つめたまま顎を上げ、触れる直前に、ぎゅっと目を閉じた。
唇が重なった。
かすかな震えと、柔らかな温もりが伝わる。ほんの短い触れ合いに留めて顔を離すと、レミは驚いたように目を開いた。
声もなくこちらを見る顔が愛おしくて、カインは頬を親指で撫でた。
「……びっくりしたか?」
「うん……」
正直な返事に、胸が少し痛んだ。
「悪い。いきなりだったな」
「でも……離れないで」
手を下ろしかけたところで、服を掴む指に力がこもった。
レミが俯き、胸元へ額を寄せる。カインはその背へ腕を回し、落ち着けるようにゆっくり抱き寄せた。
「離れねぇよ。ここにいる」
言うと、彼女の肩から僅かに力が抜けた。
その反応だけで、胸が満たされていく。今まで誰かに触れた時とは、まるで違っていた。もっと近づきたいのに、彼女が安心して身を預けてくれるこの時間も、少しも急ぎたくなかった。
「……謝らなくて、いいの」
胸元から、小さな声がした。
「嫌じゃなかったから」
「そうか」
安堵が声に混じった。
「なら、よかった」
銀髪を撫でていると、レミが少しだけ顔を上げた。目が合った途端に俯きかけたので、カインは覗き込むように首を傾けた。
「今度は、どうした?」
「……顔、見られるのが恥ずかしくて」
「さっきまで、普通に見てたろ」
「さっきとは、違うんだもの……」
むくれたような返事が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
「そりゃ、悪かった」
「……笑わないで」
「悪い。でも、その顔、もうちょっと見ていたい」
レミが困ったように見上げた。その頬がさらに赤くなるのを見ていると、今度は自分の胸まで熱くなった。
こんなにも、触れていたいと思う。
カインは頬へ手を添え直し、今度は先に尋ねた。
「……もう一度、いいか?」
レミの指が胸元で動いた。
迷うように視線が揺れ、それから小さく頷く。
その手がカインの肩へ移り、再び目が閉じられた。
迎えてくれる姿に、抑えようのない嬉しさが込み上げた。
二度目は、先ほどより長く唇を重ねた。
背中を支える腕へ少し力を込めると、レミの身体が近づいた。緊張にこわばっていた肩も、やがてゆっくり緩んでいく。
その変化を確かめながら、カインは静かに温もりを受け止めた。触れることには慣れているはずなのに、今は、彼女の小さな反応の一つひとつが胸へ響いた。
小さく息を吸う気配に、ゆっくり唇を離す。
レミはすぐに顔を伏せ、胸元へ潜るように身を寄せた。
「……苦しくなかったか?」
「ううん」
「ならいい。顔、隠さなくてもいいだろ」
「今は、無理……」
耳まで赤かった。
カインは無理に離そうとはせず、背を撫でた。しばらく待つと、レミの方からおずおずと顔を上げる。
「……私、なんだか、おかしいの」
「どんなふうに?」
「カインの顔を見ると落ち着かないのに、見えないと、また見たくなって……」
カインの手が止まった。
もう少し近くにいたいということだろうか。自分を、ほかの仲間とは違う目で見始めてくれたのだろうか。
そう期待した途端、余裕のあったはずの胸が強く脈打った。
「……じゃあ、見てろよ」
頬へかかった髪を払い、声を和らげる。
「俺も、お前の顔を見ていたいから」
レミは瞬き、それから照れたように微笑んだ。
その笑顔を見ていると、もう隠しておけない気がした。今すぐ同じ想いを返してほしいのではない。ただ、自分が何を思って触れたのかは、知っていてほしかった。
「レミ、俺は――」
「おーい! ここで遊んでたのはアンタらかい!?」
二人は弾かれたように振り返った。
丘の下、宿の裏口に亭主が立っている。花火の片付けを途中で放り出していたことを思い出し、レミは慌てて身体を離した。
「そ、そうです! すみません、すぐ片付けます!」
「なら、いいんだよ! 夜は冷えるから、長居しないようにね!」
「はい!」
亭主が戻ると、カインは天を仰いだ。
自分たちが悪い。
それでも、よりによって今でなくてもいいだろう。
「カイン、行こう?」
「……もう少しくらい、いいだろ。そんな事より俺は」
「ダメだよ。お店の人が困っちゃう」
「ちゃんと片付けるって。後で――」
「カイン」
真っ直ぐに見られ、出かかっていた言葉を呑み込んだ。最早話をする雰囲気でもなくなってしまった。
「……分かったよ。さっさと済ませるぞ」
「うん!」
先へ歩き出したレミが、数歩で振り返った。戻ってきて手を取り、恥ずかしそうに見上げる。
「……もうちょっとだけ、近くにいたいの。ダメかな?」
カインは彼女を見つめ、それから細い指を包んだ。
「ダメなわけねぇだろ。ほら、おいで」
手を引くと、レミは嬉しそうに隣へ並んだ。
胸の内を言葉にするには、もう少し時間が要るのかもしれない。それでも彼女は、自分から手を取ってくれた。今は、そのことを大切にしたかった。
「今日は、本当にありがとう。私、一生忘れないよ」
「俺も。……約束も増えたしな」
「うん。また一緒に花火を見ようね」
「ああ。今度は、呼び戻されねぇようにしてからな」
レミが声を立てて笑った。
聖地へ向かう現実が消えたわけではない。それでも今夜は、いつか二人で過ごす時間の続きを思い描いていたかった。
空き地へ戻り、燃え殻を水の入ったバケツへ沈めていく。片付けるために手を離すと、レミが少し名残惜しそうな顔をした。
「終わったら、また繋げばいいだろ」
声を掛けると、ぱっと笑顔が戻る。
たったそれだけのことで、カインまで嬉しくなった。
***
「おかえり~! 遅かったじゃん、二人とも!」
部屋へ戻るなり、リシェイの声が飛んできた。
レミは着替えを抱えて脱衣所へ駆け込み、戻ると、誰とも目を合わせないまま二段ベッドへ上っていく。
「レミ、どしたの?」
「あ、あの! お風呂は明日の朝に入るね。今日はもう寝るから……おやすみなさい!」
布団へ潜る音がして、フェイとリシェイが顔を見合わせた。
フェイがカインの隣へ寄り、声を落とす。
「……告白した?」
「してねぇよ」
「じゃあ、あの反応は何?」
「知らねぇ」
「その顔で言われても、説得力ないんだけどネェ」
カインは口元を引き締めた。どうやら、緩んでいたらしい。
これ以上話せば、告白より先に何をしたのかまで探られる。今はまだ、二人だけのものにしておきたかった。
「ねぇ、何があったの? 教えてよ~!」
リシェイにも覗き込まれ、カインは二段ベッドを見上げた。
誰かと唇を重ねたことは、これまでにもある。放浪の日々には、心を交わさないまま過ぎていく触れ合いもあった。
けれど、今夜のことは、思い返すだけで胸が騒いだ。
愛おしくて触れ、その相手が離れないでと言ってくれた。次に顔を合わせた時、どんな顔をするのか。それを思うだけで、もう会いたくなっている。
カインはとうとう、笑みを隠すのをやめた。
「もったいなくて言えるか、バーカ」
「あー! 絶対なんかあった!」
追及する声を背に、脱衣所へ逃げ込んだ。
***
上の寝台では、レミがシーツを目深に被っていた。
左手首のブレスレットを撫でていると、花火も、約束した丘も、すぐ近くにあった緑の瞳も、次々に浮かんでくる。
唇へ指先を当てると、また顔が熱くなった。
嫌ではなかった。
嬉しかった。
けれど、その一言だけでは収まらないものが、まだ胸の中で騒いでいる。
見ていればいいと言ってくれた。それなのに、明日また目が合ったら、ちゃんと顔を上げられるだろうか。
レミはシーツを引き上げ、その下で小さく笑った。
まだ名前の分からないこの温もりを、今は誰にも見られず、大切に抱えていたかった。




