89. いつか、あの丘で
ヒュルルル、と何かが空を駆け上がる音がした。
一拍遅れて重い音が轟き、レミが肩を跳ねさせる。
「な、何!? 爆発……!?」
聞き覚えのある音に、カインは立ち上がった。隣街の方を見ると、木々の向こうが眩く光り、ゆっくり暗さを取り戻していく。
「もしかして……。レミ、いいものが見られるかもしれないぞ」
「いいもの?」
「こっち。行こうぜ!」
差し出した手を、彼女が取った。
宿の裏手にある小さな丘へ向かいながら、カインは歩調を緩めた。嬉しくてつい急ぎかけたが、今日は休ませていた相手だ。振り返ると、レミも何かを期待するように空を見上げている。
間に合ってくれと願いながら丘を上りきると、再び光が夜を昇った。
大輪の花が、木々の上に開く。
「やっぱり、打ち上げ花火か。ここからでも見えるんだな!」
振り返ったレミは、声もなく空を見つめていた。
瞳に映る光が色を変え、遅れて届いた音に身体が小さく揺れる。それでも、今度は怖がって身を縮めなかった。
「……さっきの花火が、こんなに大きくなったみたい」
「仕組みは似たようなもんだよ。あっちは空まで飛ばして、開かせてんだ」
「すごい……」
その声が聞けただけで、連れてきてよかったと思った。
花火を見に来たはずなのに、気づけば横顔ばかり見ている。夜空に光が広がるたび、レミの頬まで照らされるのが嬉しくて、しばらく手を繋いだままだったことにも気づかなかった。
ふと掌へ意識が戻り、カインは指を緩めた。
「あ……悪い」
もう引いて歩く必要はない。自分だけが名残惜しくしていても仕方ないと、手を離す。
ところが、離れた指先へ、小さな手が触れた。
レミが、おずおずと握り直してきた。
驚いて顔を向けると、彼女もこちらを見上げていた。目が合った途端、その頬に赤みが差す。
どういうつもりなのか、考えかけた。けれど、掌に重なる手が嬉しくて、すぐには何も言えなかった。
握り返すと、レミが俯く。
「ご、ごめんなさい……!」
逃げかけた指を、咄嗟に追いかけた。
「何で謝るんだよ」
そんなふうに引っ込められるくらいなら、最初から離すのではなかった。
カインは彼女の様子を確かめながら、腕を肩へ回した。ゆっくり引き寄せると、細い身体が傍へ寄り、胸元に指が添えられる。
「カ、カイン……?」
「何度も言わせんなよ。嫌じゃねぇって。……むしろ、嬉しいし」
「う、うん……。うん!!」
言ってから、こちらまで顔が熱くなった。
空へ目を戻したが、肩越しの温もりが気になって仕方ない。レミが離れようとしないことを確かめるたび、抱く腕へ余計な力を込めないよう、自分へ言い聞かせた。
共に座るように促して肩を抱く手が一瞬緩んでも、離れようとしない事が嬉しかった。
「ありがとう、カイン。私……今日のこと、一生忘れないよ」
「……ああ」
レミが袖で目元を拭い、そっと頭を預けてきた。
その重みに胸が詰まった。
このまま傍にいてくれればいい。何も言えず、そんな願いばかりが浮かんだ。腕の中で彼女が空を見上げる間、カインもその頬へ触れそうな距離で、次々に咲く光を眺めていた。
やがて最後の大きな花が開き、夜空は静けさを取り戻した。
闇へ溶けていく煙を見送るうち、胸の奥で、古い声が蘇った。
「……そういえばさ」
呼びかけると、レミが顔を上げた。
「こういう丘で花火を見てたら、思い出した。昔、両親がよく話してくれたことがあって」
「カインのお父様とお母様が?」
「ああ。俺、リドゥ国の出身なんだ。夏と冬に大きな祭りがあって、一週間も騒ぎが続くんだぜ」
露店が並び、通りをパレードが進む。あちこちから音楽が聞こえ、人混みの中では、父の手を離さないよう夢中だった。
「開幕の日に、盛大な花火が上がるんだ。今日の比じゃねぇぞ! お前、見たら腰抜かすかもな」
「そんなに……?」
「ああ。で、終わると父さんが決まって言うんだよ。『あの花火がなかったら、お前は生まれてなかったんだぞ』って」
「花火と、どんな関係があるの?」
素直な問いに、カインは口元を緩めた。
「『シエーサの丘』って、滅多に人が来ないのに、綺麗に花火が見える場所があるらしくてさ。そこで二人が出会って、結婚したんだって」
「わぁ、素敵だね! カインも、そこで花火を見たの?」
「いや。俺はいつも人混みの中で、父さんに肩車してもらってた」
「どうして? 大切な場所なのに……」
子どもの自分も、同じことを尋ねた。
何度ねだっても、父は場所を教えてくれなかった。大きくなって、自分の力で見つけたら行けばいい。そう言って笑うばかりだった。
「母さんとの、二人きりの思い出を大事にしたかったんだろうな」
当時は意地悪だと思ったものだが、今は少し分かる気がした。
リアンシティの光の花畑も、誰かにとっては何でもない場所なのだろう。それでも自分には、レミへ手を差し伸べた日のことが、景色ごと残っている。
「どんなところなんだろう……」
レミも星の戻った空を見上げた。
その横顔を見た時、言葉が自然と出た。
「行くか? 一緒に」
「え……?」
「夏でも冬でもいい。いつか、その丘を見つけてさ。二人で花火を見よう」
腕の中で、彼女の身体が僅かに強張った。
言ってから、早まったかと思った。聖地へ向かうと決めている彼女へ、また返しにくいことを言ったのかもしれない。
けれど、レミは顔を上げた。
「行きたい!」
はっきりした声だった。
カインが目を見開くと、彼女自身も驚いたように唇を押さえる。
「そ、そうじゃなくて……私、救済の聖地に……」
言い直そうとする顔を見つめ、胸の奥が熱くなった。
行き先を変えてくれたわけではない。何かが解決したわけでもない。それでも、諦めるより先に、行きたいと言ってくれた。
この夜の先にも、楽しみにできるものがある。そのことを、彼女も感じてくれたのなら。
「……行こうな。一緒に」
今はそれだけ伝えた。
肩から腕をほどいて向き直ると、レミは目元を濡らしながら、小さく笑う。
その青い瞳を見て、カインは買い出しの品を思い出した。
「そうだ。お前に渡すものがあったんだ」
「私に?」
「手ぇ出しな」
ポケットから小箱を取り出し、その掌へ中身を乗せる。
「わぁ……綺麗……!」
細い革紐を二重に巻いたブレスレットだった。小さな石の中で、深い青と淡い水色が溶け合っている。
店先で目にした時、まず彼女の瞳を思い出した。似合うだろうかと手に取った後は、もう、置いていく気になれなかった。
「やるよ。昼間、街で見かけて買ったんだ」
「でも、そんなの悪いよ……!」
「いいんだって。リシェイにも小物買ってやったし。プレゼントは、素直に受け取っとけ」
少し照れくさくなり、言い添える。
「そんな高いもんでもねぇから」
レミは掌の品を見つめた。断る言葉を探しているのかと身構えたが、やがて両手で大切そうに包み、顔を上げた。
「……ありがとう、カイン。ずっと大切にするね!」
その笑顔で、ようやく肩の力が抜けた。
「そうしてもらえると、買ってきた甲斐があるよ」
レミは早速、左手首へ巻こうとした。留め具に手間取る様子を見て、カインも手を貸す。
細い手首へ指を添えた時、かつて拘束具に繋がれていた姿が浮かんだ。しかし今は自分の差し出したものを、彼女が喜んで身につけようとしている。
留め終えて手を離すと、レミは腕を少し掲げ、石を覗き込んだ。
「不思議。二つの色が重なって見えるね」
「ウィリスの生まれ故郷の大陸以外じゃ、あんまり見かけないんだってさ」
「そうなんだ……」
指先で石へ触れ、光の当たり方を変えている。その仕草があまりに嬉しそうで、店主から聞いた言い伝えまで、つい話しかけた。
「身につけてると、いいことがあるらしいぞ。……何だったかは忘れちまったけど」
「えっ、忘れちゃったの?」
「ああ、綺麗さっぱり。悪い意味じゃねぇから、いいだろ」
レミが小さく笑った。
本当は、忘れてなどいない。だが、その願いまで知られるのは、まだ気恥ずかしかった。綺麗だと喜んでくれた今は、それで十分だった。
「本当にありがとう。……私、カインから貰ってばかりだね」
手首を撫でていた指が止まり、彼女は少し肩を落とした。
「いつも助けてもらって、こんな素敵なものまで。私も、何かお返しできたらいいのに」
「そんなことねぇよ」
カインは首を振った。
「お前は、俺が人生で一番欲しかったものをくれたんだから」
レミが、不思議そうにこちらを見る。
何を返せば釣り合うのかなど、自分の方が知りたかった。
恐れていた力を知っても、彼女は離れなかった。誰にも触れさせたくなかったところへ手を伸ばし、一人にしないと伝えてくれた。その温もりを思い出すたび、自分も誰かを信じていいのだと思えた。
今夜、行きたいと言ってくれた声が、まだ耳に残っている。
その未来に自分もいていいのだと、少しだけ信じたくなった。
レミの左手で、青い石が静かに光っていた。
貰ってばかりなのは、自分の方だ。
この胸を満たすものにどう応えればいいのか、カインには、まだ言葉が見つからなかった。
ブレスレットを撫でるレミの笑顔を見ていると、カインは思わず手を伸ばしていた。
頬へ触れた指に柔らかな温もりが伝わり、青い瞳がこちらを向いた。




