9. ルディナスの決断
約一時間後、魔導車はリアンシティへ入った。
時刻は午前五時半。まだ薄暗い通りには、開店準備に追われる人影がちらほら見える。
後部座席のレミは、窓の外に釘付けになっていた。日中になれば、ここがもっと大勢の人で埋め尽くされると聞かされ、青い瞳をさらに大きく見開く。
マーケットを抜け、木々に囲まれた敷地へ入ると、メルは車を静かに停めた。
カインが後部座席のドアを開け、手を差し出す。
「着いたぜ。ここがデュロアル。俺たちの本部兼、家だ」
「家……?」
「向かいが職場で、こっちが住居棟。独り身とか、訳ありの連中が一緒に暮らしてる。俺もここに住んでるんだ」
レミは差し出された手を借りて車を降り、大きな建物を見上げた。
窓辺では素朴なカーテンが揺れ、門を彩るツタの葉が朝露に濡れている。威圧的な研究塔とは違う。そこには、誰かが暮らしている温かな気配があった。
「遠慮すんな。ほら、入るぞ」
カインが木製の扉を開ける。
レミはその上着の裾をそっと掴み、背中に隠れるようについていった。
廊下を進んだところで、カインが足を止める。
「ここが中央リビングだ。ソファーで休んでろ。俺は先にルディナスさんへ報告してくる」
「……え?」
カインの手が離れかけた瞬間、レミの顔から血の気が引いた。
「待って……どこか行くの?」
「すぐそこだって。長旅で疲れただろ? ここで少し休んで――」
「置いていかないで。私、大丈夫だから……!」
見知らぬ土地。見知らぬ館。
その中で、カインの姿まで見えなくなることが、何より怖かった。
「……分かったよ」
カインは困ったように頭を掻き、レミを見下ろした。
「一緒に来い。置いてったりしねぇから」
「……うん」
レミの肩から、ようやく力が抜ける。
その様子を見ていたメルが、車のキーを指先で回しながら歩み寄ってきた。
「では、私はウィリスさんにご挨拶してきますね。昨夜からずっと、ご心配をおかけしていますから」
「ああ、頼む。それと、俺の伝声水晶も新調してくれって泣きついといてくれ。……あの僻地で連絡がつかなかったのは、もう懲り懲りだ」
「了解です。では、お二人ともまた後で」
メルが軽快な足音を響かせて廊下の角を曲がる。
カインとレミも、その後を追うように歩き出した。
すると、向かいの角から慌ただしい足音が聞こえてくる。
「カインだーっ! 帰ってきたー! おっかえりなさーい!」
赤茶色のショートヘアを揺らし、小柄な少女が駆けてきた。
カインは慣れた手つきで、少女の額に手のひらを当てる。
「ぐえっ! もう、カインってば相変わらず手荒いんだから!」
「よう、リシェイ。朝から元気だな。少しは背、伸びたか?」
「伸びたもん! 二ミリ伸びたもん! 人をチビ扱いしないでよ!」
頬を膨らませて抗議するリシェイだったが、ふとカインの背後に目を留めた。
「あれ? その子、誰? ……えっ、すっごく綺麗!」
人見知りとは無縁のリシェイが、目を輝かせてレミへ近づいていく。
「ねえねえ、名前は? どこから来たの?」
「あ、あの……わ、私は……」
勢いに押され、レミが一歩下がる。
カインはリシェイの頭を軽く小突いた。
「おい。いきなり距離を詰め寄るな。怖がってんだろ」
「いたっ! もう……あ!」
リシェイは何かを思いついたように、ぱっと顔を輝かせた。
「もしかして、カインの彼女!? 朝から二人で帰ってくるなんて、怪しいと思ったんだよね!」
「んなわけあるか! 仕事だっつーの!」
「カノジョ……?」と、レミが首を傾げる。
カインは深々と溜息をつき、レミの肩を軽く叩いた。
「こいつはリシェイ。うるせぇけど、害はねぇから安心しろ」
「ちょっと、それ紹介としてどうなの!?」
リシェイはぷくっと頬を膨らませたあと、すぐにレミへ向き直った。
「アタシはリシェイ! 気軽に呼んでね!」
差し出された小さな手を、レミはおずおずと握り返す。太陽のようなリシェイの笑顔が眩しかった。
「初めまして……レミです」
「うん、よろしくね、レミ! ……あれ? 手、すっごく冷たい!」
リシェイは握った手を両手で包み込んだ。
「ちゃんとあったかくしなきゃダメだよ?」
「……ありがとう」
その無邪気な温かさに触れ、レミのこわばっていた表情がわずかにほどける。
そこへ、メルが小走りで戻ってきた。
「お二人とも、まだ廊下にいらしたんですか? 早く報告へ行かないと、ルディナスさんに叱られますよ」
「ああ、そうだった。行くぞ、レミ」
「うん……。リシェイ、メル。また後で……」
レミが小さく手を振る。
カインはその手を引くようにして、屋敷の奥へ向かった。
たどり着いた重厚な木の扉の前で、カインが背筋を伸ばす。
「カイン=レッドバードです。戻りました」
「――入りなさい」
凛とした女性の声が返ってきた。
扉を開けると、整然と書類の並んだ執務室が広がっていた。
デスクの奥に座っているのは、艶やかな漆黒の長髪を流した知的な美女――デュロアルの総責任者、ルディナス=シェザ=マーシェットだった。
ルディナスはペンを置き、穏やかに微笑む。
「無事で何より。依頼主から文句が入ったけれど……現場で勝手に逃げ出したのは、向こうなのでしょう?」
「ええ。あんな身勝手な奴の護衛なんざ、二度とゴメンです」
「そう。いい勉強になったわね」
「ああいう神経を使う仕事こそ、ゼロに回してやりゃいいんだ。……って、あいつまた雲隠れか? もう良い加減にしろよ……」
「いつものことよ」
ルディナスはさらりと答え、それからカインの背後へ視線を移した。
「さて……その子がレミね」
茶色の瞳を向けられ、レミの肩がびくりと跳ねる。
カインは、研究所でレミを見つけた経緯、手首に嵌められていた拘束具、そしてライフェン博士の異常な行いを、手短に、しかし正確に報告した。
ルディナスは口を挟まず、最後まで聞き届ける。
報告が終わると、彼女はゆっくり息を吐いた。
「……そう。あの人に……」
一瞬だけ、その横顔に苦い影が差す。
カインはそれを見逃さなかった。
だが、ルディナスはすぐに立ち上がり、レミの目線に合わせて腰を落とした。
「恐ろしい目に遭ったわね。もう大丈夫よ」
柔らかな声に、レミがわずかに顔を上げる。不安に揺れるレミにルディナスは優しい笑みを浮かべて頭を下げる。
「それから、カインを助けてくれてありがとう。組織の長として、そして彼の家族として、お礼を言わせてちょうだい」
「あ……い、いえ。私、何も……」
レミが慌てて首を振る。
その隣で、カインが一歩前へ出た。
「ルディナスさん。俺の怪我を治してくれたのも、脱出できたのも、レミのおかげです」
カインは真っ直ぐに頭を下げた。
「このまま街へ放り出しても、レミは生きていけません。俺が責任を持ちます。だから……ここに置いてやってもらえませんか」
ルディナスは目を丸くした。
やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「断ったら、あなたが承知しないでしょうね」
「……お願いします」
「それに、部下の命を救った恩人を放り出すなんて、私のプライドが許さないわ」
ルディナスはレミへ向き直った。
「レミ。住居棟の掃除や買い出し、食事の支度をお願いできるかしら。もちろん、相応のお給料も支払うわ」
「でも、家事だけでいいんですか? レミの治癒の力なら、医務の仕事だって――」
「カイン」
静かな声が、彼の言葉を遮った。ルディナスの真剣な目がカインを捉えた。
「その力を仕事にするかどうかは、落ち着いてから本人が決めることよ。まずは普通の暮らしに慣れてもらいましょう」
有無を言わせぬ口調だった。それに至極尤もな話だ。思い付きで彼女の気持ちを置き去りにした発言をしてしまったことにカインは口を閉ざし、レミへ視線を戻す。
レミは胸元で両手を握りしめた。
「ありがとうございます……! 私、一生懸命がんばります!」
何度も頭を下げるレミに、ルディナスは満足そうに微笑んだ。
そして、卓上の伝声機を手に取る。
「リシェイ、聞こえる? レミの部屋を準備してちょうだい。二階の日当たりのいい部屋をね」
ほどなくして、扉がノックされた。
「おいで、レミ! 一緒にお部屋つくろー!」
リシェイが顔を覗かせ、レミの手を取る。
「わっ……う、うん!」
「可愛い感じがいいかな! まずは落ち着いて寝られるようにしよっか!」
手を引かれていくレミを、カインは黙って見送った。
扉がパタンと音を立てて閉まる。
「……さて、カイン」
背後からかけられた声は、先ほどまでの穏やかさとは一転していた。
低く、研ぎ澄まされている。
「ここにいる間は、命に代えてもあの子を守りなさい」
「言われなくても。俺が連れ出したんですから、あいつが笑えるようになるまで面倒を見ますよ」
「そう。ならいいわ」
ルディナスは窓の外へ視線を向けた。
朝の空が、青く澄み渡っている。
「決着を……つける時が近づいているのかもしれないわね」
振り返った顔には、いつもの艶やかな笑みが戻っていた。
それ以上踏み込めず、カインは小さなしこりを胸に、一礼して執務室を出た。
***
自室のベッドへ倒れ込むと、船旅の疲れが一気に押し寄せてきた。
清潔なシーツの匂いに包まれ、意識が急速に沈んでいく。
少女を一人、暗闇から引っ張り出した。
それだけで、胸の奥にあった冷たい空洞が、少しだけ満たされた気がした。
(これでいい……。俺は――)
『――そうやって、また自分を誤魔化すのか?』
不意に、暗闇の底から声が響いた。
冷徹で、耳障りなほど鮮明な否定。
――お前は、誰も救えてなどいない。
「……ちっ。また変な声かよ……」
時折頭に響くこの声は、生まれつきのものなのか。
それとも、この『瞳』の代償なのか。
カインは乱暴に頭を抱え、声をかき消すように、深い眠りへ落ちていった。




