87. ここにいてもいいのか
「うっ……」
頭がずきずきと痛んだ。だが、背中を受け止めるものは柔らかく、冷たい地面ではなかった。
戸惑いながら目を開けると、艶やかな黒髪の女がこちらを覗き込んでいた。
「目が覚めたかしら?」
知らない顔に、知らない部屋。
反射的に身を起こしかけ、首筋を貫いた痛みに呻いた。
「本当にせっかちな子ね。ゼロの報告どおりだわ」
女の背後には、自分を打ち負かした白髪の男が立っていた。その隣には薄墨色の髪の青年と、薄茶色の髪をした小柄な少年がいる。
囲まれていると気づき、カインの視界が赤く染まった。
「誰だ、お前! ここはどこだ! 何のつもりだ!?」
殺気を向けた途端、頬をつねられた。
「……っ!?」
何をされたか分からず、その手を振り払う。
「おちょくってんのか、クソ女!」
「名前を尋ねるなら、もう少し言い方があるでしょう。年上の相手に、随分な口の利き方ね」
「うるせぇ!」
「あなたの名前は、ボウヤ?」
「誰がボウヤだ! カイン=レッドバードだ!」
「カインね。私はルディナス。ルディナス=シェザ=マーシェットよ」
怒鳴られても、女は怯まなかった。丸腰のまま、手の届くところに座っている。その落ち着きが、かえってカインを苛立たせた。
「ここはデュロアル。私たちの職場で、家でもある場所よ。あなたはゼロに敗れて、ここで手当てを受けたの」
「い……一度にベラベラ喋るな!」
小柄な少年が鼻で笑った。
「なんだお前。自分で聞いといて何言ってんだヨ。馬鹿なんじゃないの? 猪突猛進バ・カ」
頭へ血が上り、殴りかかろうとした。だが、腰を浮かせる前にゼロの掌が頭を押さえた。
「放せ!」
踏ん張っても、びくともしない。
その向こうでは、薄墨色の髪の青年が少年をたしなめていた。
「フェイ。初対面の方を煽るのは感心しませんよ」
「はいはーい」
「返事だけで済ませないように」
まるで緊張感のないやり取りに、カインは歯を食いしばった。自分一人が必死で、それを見透かされているようだった。
ルディナスが小さく息をつく。
「最近、この辺りで人を襲っていたそうね。街から捕縛の依頼が来たの。ゼロは、その仕事を果たしたというわけ」
頭を押さえる手が離れた。
カインは睨み上げたが、すぐには動かなかった。荒い息を整えながら、聞かされた話を頭の中で繋ぎ合わせる。
「……デュロアルって、何なんだ」
「専門家の派遣組織よ。それぞれの知識や技術を活かして依頼を請け負い、報酬を得ているの」
「俺を消せって仕事か」
「捕まえてほしいという依頼よ。殺せとは言われていないわ」
カインには、どちらでも同じだった。
国へ渡されれば監獄行きだ。これまでにしたことを考えれば、その先も知れている。ならば、長く待たされるより早い方がよかった。
「……さっさと殺せよ」
ルディナスの表情が変わった。
「殺すつもりなら、手当てはしないでしょう」
「じゃあ、何だよ」
「ここで働いてみない? あなたを、ファイターとして迎えたいの」
カインは眉をひそめた。
「ゼロから、荒削りだけれど素質があると聞いたわ。警備隊には、こちらで更生させるという条件で引き取らせてもらったの」
働けば使い道があり、断れば牢へ戻される。そういうことなのだろう。
何処へ連れていかれても、誰かの都合で扱われる。その繰り返しを思うと、怒る気力まで薄れていった。
「もういい。死んで、誰にも迷惑かけないようにする。俺は、そっちを選ぶ」
言い終えるや、ゼロに胸倉を掴まれた。
上体を引き起こされ、首筋の痛みに顔が歪む。
「お前は一度、俺に敗れた。気絶している間に殺すこともできた」
「だったら、殺せって言ってんだろ!」
「俺に命令するな」
低い声に、カインは息を詰めた。
「今のお前の命は、勝者である俺が預かっている。勝手に捨てることは許さん」
無茶苦茶な理屈だった。だが、力で奪われ、従わされてきた自分には、跳ね返す言葉が見つからなかった。
殺せたはずなのに、この男は生かした。
その勝者が何を命じるのか、カインは苦々しく睨みながら待った。
「……生きろ」
思いもよらない言葉だった。
「俺はお前に、生きろと命じる。死を選ぶのは、それからでも遅くない」
「……生きて、何になるんだよ」
声が掠れた。
「俺に、何の価値があるっていうんだ!?」
胸倉を掴む手を振り払い、寝台へ落ちるように座った。シーツを握り締めても、湧き上がったものは収まらなかった。
生きろなどと、簡単に言う。
生きてきた先がこれなのに。何をしても恐れられ、疎まれ、逃げるしかなかったのに。
ゼロはしばらく黙っていた。
「……俺には、お前の価値を決めることなどできん」
慰められると思っていたわけではない。それでも、その答えに、カインは僅かに顔を上げた。
「価値は、己自身で創り出すものだ。まだ年若いお前が、無価値と決めつけるには早すぎる」
すぐに納得できる言葉ではなかった。
だが、何も知らないくせに価値があると言われるより、耳に残った。ないとも言われなかった。そのことが、握ったシーツを見つめる間も、妙に引っかかっていた。
視界から、少しずつ赤が引いていく。
ルディナスが息を呑んだ気配がした。緑へ戻った目を見られ、カインは顔を背ける。
「……真紅の瞳っていうんだ。感情が昂ると、ああなる。力が、暴走する」
吐き出した後で、身体が強張った。
この目を見た者は恐れた。遠ざけ、あるいは利用しようとした。だから先に牙を剥いた。傷つけられる前に、近づいてくるものを追い払うしかなかった。
今も、何を言われるか待っていた。
けれど、頭へ触れた手は、ゼロのように押さえつけるものではなかった。
「話してくれてありがとう」
乱れた焦茶色の髪を撫でる指に、思わず肩が跳ねた。
ルディナスはその反応を見て、ゆっくり手を止めた。引っ込めてしまうのではなく、こちらが落ち着くのを待つように。
「今日、ここから始めてみない?」
「……何を」
「ここでの暮らしを。住んでいる人間は、皆、家族同然なの。あなたにも、その一員になってほしい」
「……家族……?」
声にすると、ひどく遠い言葉に聞こえた。
自分には、もう与えられないものだと思っていた。力のことを話したばかりだ。暴れ、怒鳴り、醜いところまで見せた。それなのに、この女は傍を離れず、ここへ住めと言う。
信じられるはずがなかった。
信じた後でまた捨てられたら、今度こそ耐えられない。そう思うのに、頭に残る手の温もりを振り払えなかった。
食事の匂いがして、誰かが自分を呼ぶ。眠る場所があり、目を覚ましても追い出されない。そんな暮らしを、まだ欲しがっている自分がいた。
シーツを握る指が震えた。
何か言おうとしても喉が詰まり、俯いた顔を上げられない。視界が滲むと、フェイが何か言いかけ、隣の青年に止められた気配がした。
誰も、返事を急かさなかった。
その静けさの中で、カインは初めて、ここにいられるのかもしれないと思った。
***
「ゼロさんは、カインの恩人なのね」
「ま、そうなるかな。オレの場合は、ウィリス兄さんだけどサ」
話し終えたフェイが肩をすくめると、レミは膝の上で手を重ねた。
「私も、ゼロさんに感謝しなきゃ。カインを助けてくれたから……今、こうして皆といられるんだもの」
フェイはその横顔を見つめた。
自分へ向けられた手が、別の誰かを救う手になる。かつてのカインを思えば、こうして彼を慕う少女が傍にいることは、随分と嬉しい変化だった。
「本人に言ったら、変な顔しそうだねぇ」
「そうかな?」
「多分ネ」
笑い合ったところで扉が開き、賑やかな声が飛び込んできた。
「レミ、フェイ! ただいまー! 遅くなってごめんね!」
リシェイが紙袋を幾つも床へ下ろした。続いて入ったカインも荷物を置き、凝った首を回す。
顔を上げると、寝台に座るレミと目が合った。
「おかえりなさい」
顔色は昼間よりよく、微笑みも柔らかかった。
そのことに安堵してから、向けられた言葉が胸へ沁みてきた。
デュロアルへ来てから、何度も聞いた言葉だった。仕事を終え、扉を開ければ誰かがいる。そんな暮らしにも慣れたはずなのに、今、レミから迎えられると、帰ってきたのだと改めて感じた。
つい先ほどまで、元気にしているだろうかと気にしていた相手が、ここで自分を待っていた。
その嬉しさを知られるのは少し照れくさくて、カインは彼女の傍へ歩きながら、口元だけを緩めた。
「……ただいま、レミ」
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