86. 赤眼の通り魔
「……くっだらねぇ……貧弱な雑魚どもが……」
陽の沈みかけた街の路地裏で、大の男が三人、血反吐を吐いて転がっていた。
ゴミの散乱する暗がりに立ち、その姿を見下ろす少年の瞳は、禍々しい真紅に染まっている。血に濡れた拳を下ろしても、その目には躊躇も後悔もなかった。
十六歳の頃のカインだった。
「戦利品は貰っていくぜ」
倒れた男の懐から財布を抜き、札だけを取ると、空になった革財布を放り捨てた。だが、踵を返した瞬間、背筋に何かが触れたような感覚が走り、カインは鋭く振り返った。
路地の先に、一人の男が立っていた。
「貴様が『赤眼の通り魔』か。……間違いはなさそうだな」
見上げるほどの長身に、若い顔には不釣り合いな白髪。右目は傷痕とともに閉ざされていたが、残る水色の瞳が、静かにこちらを捉えていた。
「誰だ、お前」
「人に名を尋ねるなら、まず己から名乗れ」
「ふざけんな。俺に何の用だ!?」
男は動じなかった。足元の三人にも、拳にこびりついた血にも目を向けたはずなのに、顔色一つ変えない。
――こいつ、見えてねぇのか。
今から自分も同じように地面へ転がされるとは、思ってもいないらしい。その落ち着き払った態度が、カインの苛立ちを煽った。
「……カイン」
「そうか。……俺の名は、ゼロだ」
「ゼロぉ……? はっ! 変な名前だな! ゼロだか何だか知らねぇが、テメェもここで這いつくばってろ!」
言い終えるより早く地を蹴り、一歩で距離を詰めた。踏み込む勢いをそのまま右拳へ乗せて放つ。大人の男を何人も沈めてきた、自信のある一撃だった。
乾いた音が、路地に響いた。
確かに当たった。それなのに、相手は倒れなかった。
拳の先にあったのは、ゼロの左掌だった。男は片足を僅かに後ろへ引いただけで、カインの打撃を受け止めていた。
「ば……馬鹿な……!?」
反射的に腕を引いたが、拳を包んだ指はびくともしなかった。もう一度強く引くと、今度は骨まで締めつけられるような痛みが走る。
自分より大きな相手など、これまでも倒してきた。だが、こんなふうに止められたことは一度もなかった。
「『馬鹿な』? 倒れんことがそれほど予想外か、小僧」
掴まれた腕が、不意に引かれた。踏ん張ろうとした足が前へ流れ、空いた左手を上げるより先に、膝が腹へ突き刺さる。
「がっ……!」
息が丸ごと押し出され、拳の拘束が解けても、すぐには動けなかった。腹を抱えてよろめきながら数歩下がったが、息を吸おうとするたびに、みぞおちの奥が引き攣れる。
「渾身の一撃を放った直後には、必ず大きな隙が生まれる。……お前は防御という概念すら知らんのか?」
ゼロは追わず、左手へ目を落とした。掌には痺れが残り、指を開くとかすかに震えている。まともに受け続けてよい威力ではなかった。
防御を覚える必要すらなかったのだろう。この力と速さで先に殴れば、大抵の相手はそれで終わる。技術の未熟さを補って余りある身体能力が、この少年をここまで勝たせてきたのだ。
「ちくしょ……ッ! 何なんだよ、お前は!」
カインは息を詰まらせながらも顔を上げ、真紅の瞳でゼロを睨んだ。
「この街で被害を受けた者が多いらしくな。依頼を受け、お前を制圧しに来た」
「ふん……結局どいつもこいつも、群れてコソコソ頼み込んで、いい気になりやがって! 一人じゃ何もできねぇ雑魚ばかりだろ!」
腹の痛みを押し切って再び地面を蹴り、真っ直ぐに突っ込んでくる。ゼロはその踏み込みを見て半身になった。正面からの打撃を外し、側面を取るつもりだった。
だが、その直前、カインの姿が急に低くなった。
倒れ込むほど深く膝を折り、突進の勢いを残したまま身体を捻る。軸足が地面を擦り、その反動で振り抜かれた蹴りが、ゼロの膝裏へ迫った。
あの速度から、そこまで身体を折り返すか。
ゼロが足を跳ね上げると、靴底のすぐ下をカインの踵が薙いでいった。蹴りは空を切ったが、カインは止まらず、振り抜いた脚を引き戻しながら、低い姿勢のまま次の踏み込みへ移ろうとする。
その時には、ゼロが動いていた。
着地と同時に斜め前へ踏み込み、少年の肩口を抜ける。カインが顔を向けた時には、長身の影はすでに視界の端から消えかけていた。
――後ろ。
振り返ろうとした首筋へ、裏拳が叩き込まれた。
視界が白く弾け、足元の感覚が失われた。それでもカインは、落ちかけた膝を無理やり支え、地面を踏みつけた。背後を捉えるために身体を捻り、視界が戻るのも待たず、引かれかけたゼロの腕へ肘を打ち込む。
「くっ……!」
硬い衝撃が右腕を走り、ゼロは腕を引いて間合いを切った。打たれた箇所が熱を持ち、指先まで鈍く痺れている。
まだ身体も出来上がっていない少年だった。首筋への一撃も、意識を断つには十分なはずだった。それを受けてなお踏み止まり、反撃まで返してくるとは。
カインは足を開き、どうにか立っていた。
肩は大きく上下し、拳を握り直そうとしても、指が一度では締まらない。それでも赤い瞳だけは、ゼロの動きを追い続けている。
まだ来るつもりか。
ゼロは腰の刀へ手を伸ばしかけた。
素手で抑え込もうとすれば、こちらも無傷では済まない。次に踏み込んできた時には、別の手段で止める必要がある。
だが、その直前、カインの身体が傾いた。
踏み出そうとした足に力が入らず、片膝が地面を打つ。支えようとした手も間に合わないまま、少年はうつ伏せに倒れ込んだ。
今度は、動かなかった。
ゼロはしばらく、その姿を見下ろしていた。意識を失い、ようやく力の抜けた身体は、先ほどまでの打撃が信じられないほど、年相応に細かった。
「……気力だけで立っていたか。末恐ろしいガキだな……」
刀へ伸ばしかけた手を下ろし、気を失ったカインを肩に担ぎ上げると、ゼロは静かに路地裏をあとにした。




