85. フェイの夢とウィリスの掌
陽が沈み、空が濃紺に染まり始めた頃、寝台で衣擦れの音がした。
顔を上げると、レミが両腕を伸ばしていた。
昼間より表情がすっきりしているのを確かめ、フェイは本を閉じた。
「おはよ、レミちゃん。よく眠れた?」
「うん、すごく気持ちよかった。……でも、寝すぎちゃったかな?」
「いいの、いいの。カインたちも、まだ帰ってないしネ」
壁の時計は十七時半を指していた。
買い出しにしては長いが、祭りの人混みで手間取っているのかもしれない。
レミは窓へ顔を向けた。隣町には明かりが灯り始め、一つ増えるたびに、その目が追っていく。
やがて窓を閉め、寝台へ座り直したところで、フェイは声をかけた。
「退屈そうだネ」
「えっ……そ、そんなことないよ?」
否定しながら、膝の上の指がもぞもぞと動いた。
「よかったら、何か話そうか。オレと話すのは楽しいんだろ~?」
胸を張ってみせると、ようやくレミが笑った。少し迷ってから、隣をぽんと叩く。
フェイは目を細め、その場所へ腰を下ろした。
「何が聞きたい? 仕事の裏話? それとも、家の連中の恥ずかしい話?」
「デュロアルに入ったきっかけを、聞いてみたいな。……聞いてもいい?」
思いがけない問いに、フェイは一瞬だけ返事を遅らせた。
「リシェイとメルの話は?」
「二人から教えてもらったよ。リシェイはカインに助けてもらって、メルは、ご両親がルディナスさんとお知り合いだったって」
「そっか。じゃあ、オレねぇ……」
いつもの調子で笑い、膝へ肘を置く。
「貧乏だったから、かな」
「貧乏……?」
「八歳で両親を病気で亡くしてさ。それから、孤児院で育ったんだ」
レミの笑みが消えた。
開きかけた唇を閉じ、細い指を握り込んでいる。
「……ごめんなさい。悪いこと、聞いちゃった?」
「いいんだヨ。オレが話し始めたんだから」
そう答えてから、窓へ目を向けた。
昔のことだと笑えば、それ以上は聞かれずに済む。いつもなら、そうして別の話へ移っていた。
だが、レミは慰めを急がず、黙って待っていた。その沈黙に促されるように、フェイは続けた。
「両親のことを、悲しい話だけにはしたくなくてネ。楽しかったこともあるのに、亡くなった話ばかりになるのは、何だか嫌なんだ」
「……うん」
小さな頷きが返る。分かったふりで言葉を足されないことが、ありがたかった。
「ただ、病気は……金があれば、治療できたかもしれなかった」
治る見込みがないと言われたわけではなかった。必要な薬と治療に、手が届かなかったのだ。
横になる両親の傍で、何かできることを探した。呼吸が苦しそうになるたび街へ走ったが、治安の悪い地区へ往診に来てくれる医者は見つからなかった。
「八歳の子どもが、出世払いでお願いしますって言っても、信用ないだろ?」
冗談にしたつもりだったが、うまく笑えなかった。
レミは俯いたものの、謝らなかった。ただ、こちらへ身体を向け直した。その仕草を見て、フェイも息を継いだ。
「だから、自分が医者になろうと思ったんだ。金がなくても診てやれる奴が、一人くらいいたっていいじゃない」
両親には、もう間に合わなかった。
それでも、医者になりたい気持ちは残った。
同じように頼む相手を探して走る子どもを、次は自分が迎えられたらと思った。
「本、沢山読んだの?」
「読んだヨ。捨てられた医学書を拾って、分からない言葉は図書館で調べてさ。暗記だけは得意だったから、片っ端から頭に入れた」
「難しくなかった?」
「難しかった。だから、毎日通ったんだよネ」
本屋で立ち読みを続け、店主に追われたこともある。買うつもりがないと思われても仕方なかったが、ほかに読む方法がなかった。
「そうやって本にかじりついてたら、同じくらい本が好きな、あの人に会ったわけ」
「……ウィリスさん?」
「そのとーり」
名を口にすると、自然に笑みが戻った。
いつも見かける薄墨色の髪の青年に声をかけられた時は、店の者へ言いつけられるのかと警戒した。
だがウィリスは、読んでいた本を覗き、どこまで分かったのかと尋ねてきた。試されている気がして、覚えた内容をできるだけ並べたことまで、今も覚えている。
「知ったかぶりも、すぐ見抜かれたけどネ」
「怒られた?」
「いや。『それだけ覚えられるなら、意味が分かればもっと面白くなりますよ』って」
笑われなかった。
子どもの思いつきとして片付けられず、何を学びたくて、何が分からないのかを聞いてもらえた。
そのことが嬉しくて、気づけば医者になりたい理由まで話していた。
「それで、デュロアルへ連れていってくれたんだ。十二歳の時だったかな」
「そんなに小さい頃から……」
「当時は、組織もようやく黒字になった頃でさ。ゼロには言われたヨ。働けもしない、金のかかるガキを置いてどうするんだって」
「……ゼロさんらしいね」
「だろ〜?」
フェイは苦笑した。
正しい指摘だったから、余計に腹が立った。役に立てると言い返したくても、何ができるのかと聞かれれば答えられない。
その時、ウィリスが笑った。
『この子ほど、デュロアルの未来に相応しい人はいませんよ』
レミに伝えると、彼女は驚いた顔でこちらを見た。
「そんなふうに……」
「よく言うよね。医学書を覚えてただけの子どもにサ」
軽く返したが、あの言葉は一度も忘れていなかった。
まだ何もできない自分に、できるようになる先を見てくれた。その期待を、口先だけのものにはしたくなかった。
「教わるの、頑張ったんだね」
「そりゃあネ。あれだけ言ってもらって、やっぱり駄目でした、じゃ格好つかないでしょ」
基礎を教える時間は、ウィリスが忙しい仕事の合間に作ってくれた。隣には未処理の書類が積まれ、目元に疲れが見える夜もあった。
それでも質問すれば手を止め、フェイが理解するまで付き合ってくれた。課題を終えると「よく頑張ったね」と目を細め、頭へ手を置く。
「毎回、子ども扱いすんなって文句言ってた」
「……嬉しくなかったの?」
「そこ、聞く?」
レミが不思議そうに瞬いたので、フェイは降参して肩をすくめた。
「嬉しかったヨ。……本人には、あんまり言いたくないけど」
「きっと、知ってると思う」
「まあ、あの人だしネェ」
何もかも見透かしているようで、面白くない。それでも、帰った時に声を聞けば安心する相手だった。
「文句を言っても、全然やめてくれなくてさ。『可愛い教え子の成長が嬉しいだけなので、大目に見てください』って」
「ウィリスさん、嬉しかったんだね」
「……そうなら、いいけど」
そう答えると、レミは柔らかく笑った。
「今のフェイを見たら、嬉しいと思うよ。ちゃんと、誰かを助ける人になってるもの」
フェイは返事に詰まった。
まだ足りないことばかりだった。今日だって、目の前の彼女へ何を伝えるべきか決められずにいる。
それでも、その言葉をすぐに軽口へ変える気にはなれなかった。
「……ありがと」
小さく返すと、レミはただ頷いた。
こんなふうに受け取ってもらえるから、普段なら話さないところまで口にしてしまうのだろう。
フェイは一度喉を鳴らし、話を先へ戻した。
「専門の勉強へ進めるようになってからは、ルディナスさんが、リアンシティの医者を紹介してくれた。孤児院の健診も、無償で引き受けるような人でネ」
「フェイが、なりたいお医者さんだ」
「そう。今も、全然敵わない師匠だヨ」
そのもとで医学を学びながら、デュロアルの仕事も覚えていった。生活の面倒を見てもらうだけだった場所が、少しずつ、自分も支えたい場所へ変わっていった。
リシェイにとってカインが兄なら、自分にはウィリスがいる。
面と向かってそんなことを言えば、きっと嬉しそうに笑われる。それが照れくさくて、まだ一度も言えていなかった。
「それじゃあ、フェイは『家』で四番目に入ったの?」
「そうそう。歳は下でも、デュロアルじゃカインより先輩なんだヨ」
「知らなかった……!」
「あいつ、先輩を敬う気が全然ないからねぇ」
わざと嘆くと、レミが声を立てて笑った。
「でも、創設のきっかけは、詳しく知らないんだ。ゼロは謎だらけだし、ウィリスも、ルディナスさんに誘われたとしか話さないし」
「そうなんだね」
「ま、いつか聞けたら聞くサ。オレにとっては、あそこへ連れてきてもらえたことが、一番大事だから」
口にしてから、今日は随分素直だと自分で可笑しくなった。
レミは茶化さずに頷き、それから少し身を乗り出した。
「カインが来た時も、フェイはいたんだよね?」
「いたヨ。……ああ、あの頃か」
初めて会った日の、刺々しい眼差しが浮かぶ。
仲間にすら噛みつきそうだった青年が、今では、目の前の少女のことで頭を抱えている。本人に言えば怒るだろうが、その変化を傍で見られたことも、フェイには嬉しかった。
口元に、いつもの笑みが戻る。
「あいつの荒み具合は……本当に凄かったなぁ~」




