83. 籠の中の小鳥
旧街道を歩き続け、ようやく辿り着いた村には、のどかな田園風景が広がっていた。
道端で子どもたちが追いかけ合い、畑から戻った大人が声をかける。エリザ村で見たものが頭に残っていたせいか、そんな光景に、フェイは思った以上にほっとした。
宿を取って荷物を下ろすと、カインとリシェイは隣町へ買い出しに出かけた。歩けば二十分ほどの距離だが、今日は祭りで人が多いという。
人混みを避け、レミはフェイと留守番をすることになった。
三階の部屋には、畑を渡った風が入ってくる。
フェイは丸テーブルへ医学書を広げたが、窓際の寝台に座るレミが気になり、何度も同じ行を読み直していた。
少し前までは、女将に聞いた祭りの話をしていた。今は会話も途切れ、レミは実り始めた稲穂と、その向こうに見える街並みを眺めている。
外で子どもの笑い声が上がると、銀色の頭が僅かに動いた。
「……お祭り、賑やかそうだね」
「この時期は、近くの村からも人が集まるんだってサ」
「そっか……」
レミは頷き、それきり黙った。
どんな店があるのか、何をする祭りなのか。普段なら続きそうな問いが、今日は出てこない。
「なんだか、押さえつけるみたいでごめんネ」
「えっ?」
振り向いた顔に、慌てて笑みが浮かんだ。その作り方を見て、フェイは余計なことを言ったと思った。
「外に出たいかもしれないケドさ。怪我が治ったばかりだし、少し前まで危ない状態だったから……」
「うん。分かってるよ。フェイも、お出かけできなくなっちゃって、ごめんなさい」
「オレは構わないヨ。本も読めるし、のんびりするのも嫌いじゃないから」
軽く肩をすくめる。だが、レミは本を見てから、もう一度フェイへ目を向けた。
「……ちゃんと、読めてる?」
「え?」
「さっきから、あまり頁が変わってない気がして。私のことが気になって、集中できないのかなって……」
フェイは口元を緩めた。
「難しいところで、引っかかってるだけだヨ」
「そうなの?」
嘘を疑うような目ではなかった。自分を気遣ってくれているだけだった。それなのに、いつもの調子で返した言葉が、喉の奥に残った。
彼女は時々、何気ない一言で、こちらの隠したいところへ触れてくる。からかいも駆け引きもなく、見えたものをそのまま受け止めてしまうから、軽口では逃げ切れない。
そういうところに惹かれる気持ちは、フェイにもあった。
けれど今、望むのは、その目に余計な心配を映させないことだった。自分を気遣うより先に、彼女自身のために笑っていてほしかった。
「……ちょっと考え事もしてた。レミちゃんのせいじゃないヨ」
今度は、それだけ答えた。
***
買い出しに出る直前、カインはフェイとリシェイを廊下へ呼び出した。
扉が閉まると、その顔からいつもの強気な色が消えた。
ゼロから聞いた話だという。
力の限界を制御する機能に異常があり、レミは治癒の際、生命力まで消費しているかもしれない。これまで治癒の後に眠り込んだ時も、単に疲れていただけではない可能性がある。
話を聞くうち、フェイの胸は冷えていった。
自分たちも、あの光に何度も救われた。傷が塞がるたびに安堵し、彼女が眠れば、疲れたのだろうと休ませた。
目を覚ませば笑っていた。その結果ばかりを見て、身体の内側で何が起きているのか、疑わなかった。
『……ホント、オレって何やってんだろうね』
絞り出した声は、思ったより低かった。
異常な回復力を目の前にしながら、自分には扱えない領域だと、どこかで線を引いていなかったか。
過酷な旅では、たちまち傷を塞ぐ力が頼もしかった。彼女が嬉しそうに手を差し伸べるから、こちらも安心して受け取った。
助かると思った。
だから、止めなかった。
『アタシ、何にも考えてなかった……』
リシェイが涙を零した。普段なら何か言って宥めるところだったが、今は慰めの言葉も浮かばなかった。
『誰を責めたって仕方ねぇよ。今からでも、できることをしよう』
カインは閉ざされた扉へ目を向けた。
術を控えさせれば、少なくとも消耗は減らせる。ただし、それだけで安全だとは言い切れない。ゼロにも治療法は分からず、リミッターの異常そのものも、まだ推測だった。
『俺一人じゃ、目が届かない時もある。二人とも、頼む。あいつが無理しねぇように、協力してくれ』
その声が僅かに震えた。
カインがレミをどう想っているのか、フェイはもう知っている。彼女の方も、分からないと言いながら、何かあるたびにカインを目で追っていた。
二人とも、もう少し自分の顔を鏡で見ればいい。
そうからかってやれる日を、フェイも楽しみにしていた。その先が失われることなど、考えたくなかった。
『……ただ、レミには、力を使えば静かに死ねるなんて言わないでくれ』
『どうして?』
リシェイが顔を上げた。フェイも、本人に知らせるべきではないかと思った。
自分の身体に何が起きているのか。それを知ることは、これからを選ぶためにも必要なはずだった。
カインは唇を噛んだ。
『今のあいつなら、悲しむって言えば考え直すかもしれない。でも……また、何もかも嫌になったら?』
扉へ向けた視線が戻らない。
『苦しまないで済む方法だって、思われたら……』
フェイは口を閉じた。
何もかも諦めたような顔を、覚えている。自分の居場所などないと、静かに告げた声も。
誰かを救いながら、自分は消えられる。もし、そう受け取ってしまったら。
『……あいつ、誰かの命を救えるなら、自分のことなんか後回しにするだろ』
カインがこちらを見た。
『死なせたくないんだ。絶対に』
その願いは、フェイも同じだった。
だからこそ、すぐに正しさを言い返せなかった。
ただ、いつまでも黙っていてよいとも思えない。分かっていることと推測を分け、危険を伝えながら、彼女を追い詰めない説明を考えなければならなかった。
『まずは、治癒を控えて休んでもらおう。詳しい話は、どう伝えるか、もう少し考えさせて』
そう提案すると、二人は頷いた。
結論を先延ばしにしただけかもしれない。それでも、あの場でフェイが出せた答えは、それしかなかった。
***
「……フェイ?」
呼ばれて、開いた本から顔を上げると、レミがこちらを見ていた。澄んだ青い瞳が、真っ直ぐにこちらを捉えている。
「私、ちゃんと休むから。そんなに心配しないで」
「……そんな顔してた?」
「うん。少し」
困ったように笑われ、フェイも口元だけを上げた。
「参ったネ。医者が先に不安そうにしてちゃ、格好つかないな」
「でも、私のことを考えてくれているんでしょう?」
責める響きはなかった。それどころか、彼女は少し嬉しそうだった。
「ありがとう。フェイがいてくれるから、私も安心できるよ」
胸の奥が痛んだ。
こちらは、何を伝えるべきかさえ決められずにいる。その気持ちごと、彼女は善意として受け取ってくれる。
嬉しいと思う。
だからこそ、その信頼に甘えたくはなかった。
「……じゃあ、その分、ちゃんと役に立たなきゃね」
軽く返し、机の上の水差しへ手を伸ばした。差し出したカップをレミが両手で受け取り、少しずつ飲む。
怪我はまだ残っている。旅の疲れも抜けてはいない。休んでほしいのは本当だった。
けれど、窓へ向く眼差しまで、見ないふりはできなかった。
研究所と同じではない。そう思いたいのは、こちらの都合なのだろう。外へ出たい時に出られず、理由も十分に知らされない。その窮屈さを、守るためだからと受け入れさせている。
「眠くなったら、横になっていいヨ」
言うと、レミはカップを置いた。
「……うん。そうするね」
毛布を引き寄せ、素直に寝台へ横たわる。その動きを見て、フェイは自分の言葉を思い返した。
今すぐ眠れとは言っていない。
けれど彼女には、そう聞こえたのかもしれなかった。
レミは何も文句を言わず、目を閉じた。窓から入った風が銀髪を揺らし、外では子どもたちが笑っている。
その素直さに安心しかけた自分が、フェイは嫌になった。
守りたい。無事に休んでほしい。
その願いと、彼女がどう過ごしたいかを尋ねることは、本来、両立できるはずだった。
――祭りへ、行ってみたかった?
口にしかけて、止まった。行きたいと答えられた時、自分はどうするつもりなのか。何も叶えてやれないまま、また我慢だけを頼むことになるのではないか。
外から、祭りへ急ぐらしい人々の声が聞こえた。レミの瞼が僅かに動いたが、そのまま開くことはなかった。
風に押され、医学書の頁がめくれた。
フェイはそれを押さえた。
今の彼女に何をしてやれるのか、答えはまだ、そのどこにも見つからなかった。




