80. 止まっていた時間
五分だけ離れていてくれと言われ、レミは木陰に座っていた。
後から来た白髪隻眼の男は、傍らに立って遠くを見ている。カインやウィリスよりも背が高く、よく話すデュロアルの仲間たちとは雰囲気が違った。
「えっと、あの……」
レミは緊張しながら、その顔を見上げる。
「カインから、ゼロさんのお話は少し聞いてます。皆の武術のお師匠様みたいな人だ、って……」
「……基礎を教えた程度だ。師というほどではない」
「でも、カインがそう言っていたから、きっと皆さんも尊敬しているんだと思います。デュロアルではお会いできなかったので、今回会えて嬉しいです」
ゼロは微笑むレミを見やり、僅かに目を伏せた。
「お前の……最も古い記憶は、いつからだ?」
胸がずきりと痛んだ。
思い出せるのは、研究所で繰り返された苦痛ばかりだ。それがいつ始まったのかは分からない。
「よくは覚えてません……。八歳くらいの時に、自分のおおよその年齢を初めて知ったことが、一番はっきりした記憶かなって……」
博士の言葉で年齢を知り、そこから数え始めた。日々に変化が生まれたのは、ヴァートが現れた十六歳の頃だった。それまでは、昨日と今日の違いさえ分からないような毎日だった。
「……メノウ」
零れた名に、レミは顔を上げた。
「メノウ=ミヅキを知っているか?」
「い、いえ。知りません」
「……そうか」
覚えている限り、その名を持つ人に会ったことはない。
「いらんことを聞いた」
ゼロは視線を逸らした。だが、レミにも気になることがあった。
「あの……メノウさんは知りませんけど、ゼロさんのお顔は、どこかで見たことがあるような気がするんです」
眉を寄せられ、慌てて頭を下げる。
「すみません。変なことを言って……」
「謝る必要はない。だが、俺はお前と会った覚えなどない。今日が初対面だ」
「そうですよね……」
研究所で面識があったのは、ヴァートとライフェン博士くらいだった。知っているはずがないと思い直し、レミは湖の方へ目を向けた。
「カインと出会ってから、私は本当に楽しいです。でも、皆を巻き込んでしまったことは、申し訳なくて……」
「気に病むな。お前を連れ出したのはカインだ。一人を選ぼうとしたお前についてきたのも、奴ら自身の意思だ」
レミは目を丸くした。
「遠慮や謙遜も、過ぎれば相手を疲れさせる。好意を受け取ることまで、罪にする必要はない」
嬉しいと思うより先に、申し訳なさを覚えていた。けれど、それでは差し出してくれた相手を困らせることもあるのかもしれない。
考えたことのない角度からの指摘に、レミは小さく頷いた。
「ゼロさんは、やっぱり皆のお師匠様なんですね」
「何故だ」
「お話ししていて、そう思いました。ありがとうございます」
ゼロは返事をせず、僅かに視線を逸らした。
「二人で何話してるんだい?」
そこへ、フェイがレミを呼びに来た。
「もう通信を切るからサ。挨拶だけでもしたいかと思って」
「うん」
差し出された手を借りて立ち上がり、レミはカインたちのもとへ戻った。
ゼロはその背を見送り、静かに息をついた。
***
「それじゃあ、皆、元気でね。早く旅を終わらせて、いつも通りの生活に戻れるように、私も頑張るから」
カインから伝声水晶を受け取り、レミが告げた。
その気遣いに、カインの胸が痛んだ。何か答えようとしたところへ、メルの声が飛び込んでくる。
『レミさん! 最後に、一つだけ質問してもいいですか?』
「うん。なぁに?」
『カインさんを、どう思っていらっしゃいますか!』
カインは伝声水晶へ伸ばしかけた手を止めた。
「……おい」
「好きだよ?」
レミは不思議そうに答えた。
即答されたことは嬉しい。だが、どういう意味かなど、聞き返すまでもなかった。
『では、男性としてはいかがでしょう!』
「男の人……?」
「最後の一つは終わっただろ」
『今のは補足です!』
フェイが横で笑いを噛み殺している。
レミは真剣に考え込んだ末、顔を上げた。
「……カインは、男の人だよ?」
『そこは存じています!』
「何を確認し合ってんだ、お前ら」
突っ込まずにいられなかった。だがメルは、少しも怯まず続けた。
『そうではなくて、一人の人を特別に好きになることを、考えたことはありませんか?』
「特別に……」
『皆が大切でも、その中の一人に、もっと傍にいてほしいと思うことだってあるでしょう?』
レミの視線が、隣のカインへ向いた。
思わず背筋が伸びた。だが、彼女は何か言う前に、また伝声水晶を見下ろしてしまう。
「……皆にも、傍にいてほしいよ」
『ええ、それも素敵です。でも、誰か一人をもっと好きになったからといって、ほかの人を大切にしていないことにはならないんですよ』
「……そうなの?」
意外そうな声に、メルの口調が少し和らいだ。
『はい。だから、そういう気持ちがあったら、遠慮せずに大切にしてくださいね』
「遠慮……」
『例えば、カインさんにだけお願いしたいこととか!』
「結局そこへ戻すな!」
フェイがとうとう吹き出した。
「メルちゃん、もうちょっと隠してあげてヨ」
『何をですか? 私は一般的なお話を――』
「どこがだ!」
カインが声を上げると、レミがこちらを見た。今の状態で何を言っても暖簾に腕押しだ。これ以上の押し問答に意味はないだろう。
カインはため息を吐いた。
「はい、終わり! 次の村まで遠いんだ。これ以上いたら野宿になるぞ!」
強引に区切ると、メルの不満そうな声に重なり、ルディナスが通信を代わった。
『長く引き止めてごめんなさいね。何かあったら、こちらからも連絡するわ』
「いや。皆の声が聞けてよかったよ」
『こちらもよ。伝声水晶の管理はウィリスに任せるわ』
「こっちは……」
「はいはい、オレね」
フェイが手を上げた。
カインやリシェイより、扱いも保管も安心して任せられる。ゼロも、自分は本部へ戻れるから構わないと答えた。
魔水晶を渡そうとした時、ルディナスがもう一度呼んだ。
『カイン』
「ん?」
『辛い時ほど、自分を見失わないで。誰かを大切に思う気持ちを、自分やほかの誰かを傷つける理由にはしないでほしいの』
穏やかだった声が、僅かに低くなる。
『……たとえ、大切な人を失ったとしても』
「縁起でもないこと言わないでくれよ」
レミの体調異変は伝えていない。それでも、その言葉は今の胸へ深く刺さった。
少し離れていたゼロが、目を伏せた。
「散々歪んでたんだ。これ以上、歪みようなんてねぇさ」
『なら、ちゃんと戻ってきて、その顔を見せてちょうだい』
「……ああ」
からかい半分の返事にはできなかった。
互いの無事を確かめ合い、通信を終える。
光の消えた伝声水晶をフェイがしまう傍らで、レミはまだ、何かを考えるように指先を重ねていた。
***
リアンシティの本部では、皆がそれぞれの仕事へ戻っていった。
メルは整備棟へ、ウィリスはカインから頼まれた調査へ。ルディナスも執務室へ戻り、机に置かれていた報告へ目を通した。
ゼロが合流した。それは心強い。
だが、ライフェン側から本部への新たな接触はない。レミを求めて一度は人を寄越した相手が、その後、何もせず待っているとは思えなかった。
直接の交渉を諦めたのか。既に居場所を絞り、こちらへ働きかける必要がなくなったのか。それとも、デュロアルがどこまで関わるつもりなのか、探っているのか。
沈黙だけでは、どれとも決められない。
ただ、レミが脱走したことで、研究所の内側にあったものが外へ出た。彼女自身が覚えている以上のことを、ライフェンは恐れている可能性もある。
取り戻したいのか、他者へ渡したくないのか。その目的さえ見誤れば、護衛の備えも変わってしまう。
ルディナスは報告を伏せた。
カインたちが目の前の追っ手を警戒する間、本部では、金や物資、人の動きも追わなければならない。襲撃がないことを、安全の証拠にはできなかった。
机上の紙へ調べ直すべき項目を書き添えてから、窓辺へ歩み寄る。
「……動き始めたのね」
誰に告げるでもなく呟いた。
レミを連れ出したことで、カインは変わった。かつては自分の内側へ閉じ込めていたものを、少しずつ誰かへ預けられるようになっている。
その傍に、ゼロがいる。
彼が何を思って少女を見つめたのか、通信越しの声だけでは分からなかった。だが、あの男にとって、今回の合流が仲間を助けるためだけのものではないことを、ルディナスは知っている。
「彼も、変われるのかしら……」
助けるために伸ばす手を、まだ持っている。その手で何を選ぶのか。誰にも渡そうとしなかったものを、いつか手放せるのか。
答えのない問いの先に、懐かしい顔が浮かんだ。
「あなたは、そんなことを望む人じゃなかった。……ねぇ、そうでしょう?」
返事はない。
窓の外では雲が流れ、街の人々がそれぞれの帰り道を歩いていた。あの日からも、世界は止まらずに続いている。
レミの脱走によって、長く膠着していた状況は変わった。隠されていたものが動けば、こちらにも手を伸ばせる場所が生まれるかもしれない。
同時に、二度と取り戻せないものが増えるかもしれなかった。
ルディナスは窓から離れ、机へ戻った。
今度は、何も知らずに待っているつもりはなかった。
夕方か夜に続き更新します。




