76. 穏やかな寝顔の裏
「……なんっでここにいるんだい、怖い兄さん……」
ゼロを連れて戻った途端、フェイが目を丸くした。木陰を渡る風に白髪が揺れても、当人はいつもの仏頂面を崩さない。
一部始終を説明しても、フェイは腑に落ちない様子で腕を組んでいた。
「なーんか、納得いかないナァ」
「何がだよ。説明しただろ」
「怖い兄さんは都合よく辿り着いたね、ってコト」
軽い口調とは裏腹に、ゼロへ向ける目は冷ややかだった。思いがけないところを突けば、何か反応が見えるかもしれない。そんなフェイの探る視線にも、ゼロは表情一つ変えなかった。
「ま、害がないならいいけど。ごめんね、疑り深くってサ」
「気になどせん。慎重になることは悪くない」
あっさり返され、フェイは肩をすくめた。それ以上追及する代わりに、傍らの木陰へ顎を向ける。
「お姫さまはお休み中なんだけど、起こすかい?」
木の幹へ身を預け、レミが眠っていた。葉の間からこぼれる日差しが、頬や銀髪の上をゆっくりと動いている。
カインとリシェイは身を屈め、その顔を覗き込んだ。
「あはは、気持ちよさそう。天気いいもんね」
「平和そうな顔しやがって……」
口ではそう言いながら、カインも笑っていた。
あれほど怖い思いをさせてしまったのだ。今くらい、何も考えずに眠っていてほしかった。静かな寝息を聞いていると、こちらまで肩の力が抜けてくる。
もう少し寝かせてやろうと口を開きかけた、その横をゼロが通った。
彼が見ていたのは、地面へ投げ出されたレミの手だった。
明るい日差しに紛れながら、指先から微かな白い光がこぼれている。
眠っているのに、術式が働いている。
通常、力を具現化するには集中と意志が要る。無防備に眠ったまま、それも何かを治している様子もなく、光だけが漏れ続けているのは明らかにおかしかった。
ゼロは二人の間へ割り込むようにしゃがんだ。肩を押しのけられたリシェイが、むっと頬を膨らませる。
「ちょっと、何――」
言い終える前に、ゼロがレミの肩を横へ押した。
幹に支えられていた身体が傾き、そのまま草の上へ滑り落ちる。咄嗟に身を支えようとする動きさえなく、銀髪が地面へ広がった。
「何すんの!? 折角寝てるのに! 色々あったから、疲れて――」
「これでも平和か?」
低い声に、リシェイが言葉を止めた。
倒れたレミは、目を覚まさなかった。
顔をしかめることも、寝返りを打つこともなく、ただ先ほどと同じ穏やかな表情をしている。
カインは反射的に駆け寄った。
「レミ!?」
抱き起こした腕に、異様な冷たさが伝わり、息が詰まった。
風に当たって冷えたのではない。服越しでも分かるほど、身体そのものから温もりが失われていた。まるで、命の火だけを抜き取られたような冷たさだった。
「……おい、レミ。起きろ」
頬へ触れる。
――冷たい。
指先を首筋へ滑らせるが、震える自分の手では脈を捉えられない。
「レミ、聞こえるか!? おい!」
肩を揺するも返事はなく、もう一度、今度は強く揺さぶった。銀髪が腕の上で揺れるだけで、瞼は閉じたままだった。
「レミ!!」
昨夜、彼女が倒れた時は苦しそうに顔を歪めていた。痛みに耐えようとする声も、助けを求める指先もあった。だから、まだ生きていると分かった。
けれど今は違う。
穏やかな寝顔のまま、何も届かない場所へ沈んでいる。
ついさっきまで、自分は笑っていた。気持ちよさそうだ、もう少し寝かせてやろうと考えていた。
もしゼロが気づかなければ、このまま何も知らずに――。
「嫌だ……!」
喉から漏れた声に、自分で驚いた。
「起きろよ、レミ……頼むから……!」
腕の中の身体を抱き締める。冷たさが、服を通して胸へ染み込んでくる。心臓が凍りつきそうだった。
「貸せ」
襟元を掴まれ、カインは引き戻された。
「待て、ゼロ! 何をする気だ!?」
ゼロは答えず、レミを受け取った。片腕で上体を支え、もう一方の手を額へ当てる。
紫色の光が、掌の下で灯った。
「ゼロ、レミは……レミは大丈夫なのか!?」
「黙っていろ」
短い言葉が返る。
光がレミの額から身体へ流れ込み、淡く脈打ちながら消えていく。カインには、それが治療なのか、別の何かなのか判断できなかった。
「頼む……助けてくれ……!」
自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。ゼロか、神か、それとも腕の中の彼女自身か。
フェイがそばへ膝をつき、レミの呼吸と手首を確かめる。リシェイは青ざめた顔で、両手を胸の前に握り締めていた。
カインはただ、レミの瞼を見つめていた。
動け。
開け。
いつものように、俺を見てくれ。
頭の中で何度も叫ぶ。けれど、声にすれば本当に失ってしまいそうで、名前を呼ぶことさえ怖くなった。
時間の感覚が壊れていた。
数秒なのか、何分なのか分からない。紫の光が薄れるたび、胸の奥が締めつけられる。
そう感じた瞬間、レミの睫毛が震えた。
「……あれ……?」
かすかな声が落ちる。
カインの膝から力が抜けた。
レミはぼんやりとゼロを見上げ、それから驚いて身を起こした。
「あの……あなたは……?」
「レミ!」
声を張ると、彼女がこちらを振り向いた。
青い瞳が、ちゃんと自分を映している。
「みんな……どうしたの?」
ゼロへ小さく会釈をして腕から離れると、レミは眠たそうに目元を擦った。その自然な仕草が、かえってカインを混乱させた。
「どうしたじゃねぇよ。お前、今……」
肩へ触れると先ほどより温もりが戻っているのを感じ、ようやく詰めていた息が漏れた。だが、指先にはまだあの冷たさが残っている。
「倒れてたんじゃないのか?」
「え? 眠ってたんだよ。気持ちが良かったから、つい、うとうとしちゃって……」
レミは不思議そうに首を傾げた。
「大分、疲れも取れた気がする」
軽く背を伸ばす姿には、苦しみ抜いて目を覚ましたような気配はない。ぐっすり眠った後だと、本人は本当に思っているらしかった。
カインは返事ができなかった。
眠っていた?
あれが?
呼んでも、揺すっても、何の反応もなかった。身体は異常なほど冷え切っていた。それなのに、本人は何も覚えていない。
――もしゼロがいなければ。もし、あと少し遅れていたら。
考えた瞬間、胃の奥がひっくり返るような恐怖が込み上げた。カインはレミの肩を掴んだまま、手を離せなかった。
「あの、カイン……その方は……?」
レミの視線を追い、ゼロを振り返る。彼は無言で立ち上がり、こちらを見下ろしていた。
「……ゼロだ。デュロアルの仲間にいるって、話したことあったろ?」
「ゼロさん……? あっ」
レミはようやく思い出したように頷いた。
仕事で留守にしていることが多く、カインの剣の師でもある人物。リアンシティにいた間には会えず、話に聞いただけだった。
そのはずなのに、レミはもう一度、彼の顔を見た。
白い髪に、右目を閉ざす大きな傷。残された水色の瞳は鋭く、こんなにも特徴のある人を、一度会って忘れるとは思えない。
初めて見る顔なのに、知らない人だと言い切ろうとすると、どこか胸に引っかかった。
カインから話を聞いていたからだろうか?そう考えると少し落ち着き、レミは姿勢を正した。
「初めまして、ゼロさん。レミといいます」
微笑んで右手を差し出すが、ゼロはその手へ一瞥を落とした後、顔を背けた。
行き場をなくした指が、ゆっくりと引っ込む。レミの笑みが薄れたのを見て、カインは眉を寄せた。
「悪いな。こいつ、いつもこんなだから。お前を嫌ってるわけじゃねぇよ」
「えっ……あの、いいの」
「ゼロも、初対面からそういう態度とんなって。俺らなら分かるけど、知らない奴は傷つくだろ」
自分も、最初は何を考えているのか分からなかった。今では必要な時に必ず手を貸す男だと知っているが、レミにまでそれを察しろというのは無理がある。
ゼロは僅かに目を戻した。
「……性分だ。許せ」
短い言葉だったが、レミは顔を上げた。
話すのが得意ではない人なのかもしれない。自分も、笑顔を忘れていた頃は、周りにどう見えていたのか分からなかった。
「いえ……大丈夫です。よろしくお願いします」
今度は手を差し出さず、小さく頭を下げる。ゼロは黙ってそれを受けた。
フェイがレミへ水筒を渡し、リシェイも隣へ腰を下ろした。起きたばかりの彼女を二人が気遣う間、カインはゼロから目を離せなかった。
眠る彼女を見て、真っ先に異常へ気づいた。その身体へ光を送り、目を覚まさせた。自分たちが分からずにいる何かを、この男は知っている。
レミは今、何でもない顔で水を飲んでいた。いつもの声でリシェイに礼を言い、こちらを見つけると微笑む。
安心したかった。
その笑顔に頷き返し、もう大丈夫なのだと信じたかった。
けれど、彼女自身が何も知らないのなら、その「大丈夫」を頼りにはできない。
「ゼロ」
カインは立ち上がった。
「……少し、二人で話したい」
声を落としても、切迫したものまでは隠せなかった。
木々の間を暖かな風が抜ける。先ほどまでと何も変わらない、穏やかな昼下がりだった。
それでもカインは、草の上に倒れたまま動かなかった彼女の姿を、もう頭から追い払えずにいた。




