7. 初めての外の世界
カインはレミの手を引き、研究所裏の岩陰へ滑り込んだ。
追手の気配を探りながら、低木の間を抜ける。
平坦な廊下しか知らないレミは、岩の露出する道に何度も躓いた。治りきらない傷が痛むのか、握った手に力がこもる。
それでも、今は止まれなかった。
立ち塞がる魔物を蹴り倒し、暗い林を進む。
「もう少しだ! 踏ん張れよ!」
「はあっ……う、うん……!」
腕輪のエーテルに焼かれた右手は、まだ自由が利かない。剣に頼れなくとも、足と体さばきで道を切り開いた。
どうにか追手に見つからず、出航直前の最終便へ駆け込む。
乗客の少ない小さな船だった。大部屋に簡素な寝床が並び、カプセルベッドもいくつか備わっている。
片隅へ落ち着くと、レミがカインの右手を取った。
淡い白光が爛れた掌を包み、剥けた皮膚が塞がっていく。
「……サンキュ」
レミは黙って首を横に振った。
目立つ銀髪を隠すために渡した毛布を被り、カプセルベッドへ入る。カーテンの向こうで、今度は自分の傷を治し始めた。
リアンシティの港へ着くのは早朝だ。
カインは一人、甲板へ出た。
冷たい潮風が頬を撫でる。
月も星もほとんど見えず、離れていく大陸の灯りも、すでに闇に沈んでいた。
***
「どこに……あっ」
数分後、レミが船室から顔を出した。
カインを見つけて近づき、ほかに人がいないことを確かめて毛布を頭から下ろす。
手すりの前で、彼女は息を呑んだ。
「海を見るのは初めてか?」
「うん……これが、海……? 本で見たけど、本当に一面が水なんだね」
黒い水面を見つめ、手すりを握る。
「こんな大きな鉄の塊が沈まないのも、不思議……。風が気持ちいいね」
閉ざされた部屋にはなかった潮の香りと波音に、強張っていた身体が少しずつ緩んでいく。まともに落ち着いて風を受けたのは初めてだったのだろう。
「昼間はもっと綺麗だぞ。一面、真っ青でさ。大きな街に行けば、飛行艇なんかにも乗れる」
「飛行……?」
「この船みたいなのが、こう……空を飛ぶんだ」
カインが夜空を指さすと、レミは目を丸くした。
「と、飛ぶの!?」
「ああ。いつか一緒に乗ろうぜ」
「船が……。ねえ、この船、見てきてもいい?」
「いいけど、こいつが飛ぶんじゃねぇぞ? 大きさの例えだからな」
「うん!」
甲板を見回しながら歩き始める姿に、カインはふっと笑った。
(……小動物みてぇだな)
家にいる年下の連中を見守るのと、少し似ていた。何もかもが彼女にとっては興味の対象だ。しかし興味を持つ事は自らの張り合いを増す事。良い傾向だろう。
一通り歩いたレミが戻り、隣へ並ぶ。
「本当に、分からないことばかりなんだね……」
やがて、横からじっと見つめられていることに気づいた。
「そんなに俺の顔見ても、いいことねぇぞ」
「ごめんなさい……」
何を気にしているのかは、分かっていた。
腕輪を壊した時、彼女は確かに見ていたのだ。
「さっきの、見たろ。あれが俺の特殊な力だ」
「赤い……瞳?」
「そう。真紅の瞳の力」
今は深い緑に戻った目を、レミが見上げる。
「感情が極端に高ぶると、ああなる。普段じゃ出せない力が使えるんだ。好きな時に出せるわけじゃねぇし、制御が利かないこともあるけどな」
「だから、腕輪も壊せたんだね。何をしても傷ひとつつかなかったのに……」
「ああ。……驚いただろ。怖かったか?」
レミは、間髪入れずに首を横に振った。
「少し驚いたけど……怖くはない。だって、あなただもの」
カインは息を呑んだ。
デュロアルでは、この体質も受け入れられている。
それでも、力の危険さをすべて明かしているわけではなかった。まして、出逢ったばかりの彼女が、これほど迷いなく答えるとは思わなかった。
青い瞳には、恐れも疑いも見えない。
「その言葉、俺の『本当の姿』を見ても言ってくれたら……」
「えっ?」
潮風に紛れた呟きを、レミが聞き返す。
「……なんでもねぇよ」
言うべきではなかった。
カインは笑って誤魔化し、大きく背伸びをした。
「あー、疲れた。そろそろ寝ようぜ。着いたら俺たちの家へ来ればいい。これからのことは、そこで考えよう」
「でも……何もお礼ができないもの」
「じゃあ、ウチで働けばいいさ。その力なら、俺よりよっぽど役に立つだろ」
「私の力が……?」
「人を癒やせて、誰かのために使おうと思える奴なんて、滅多にいねぇよ」
それでも、レミは俯いた。
「これ以上、迷惑はかけられない。船に乗せてもらっただけで十分だから……降りたらどこかへ行くよ」
「助けといて途中で放り出すと思うか? そもそも降りてから、どこへ行くんだよ」
「どこでもいいの。あの研究所じゃなければ……」
「そんな適当じゃ、あっという間にのたれ死ぬぞ」
笑い飛ばしかけたカインは、彼女の真剣な顔に口をつぐんだ。
「そっか……それもいいかもしれない。私が死ねば、誰にも迷惑がかからないし……腕輪もない今なら、きっと……」
「おいコラ! 冗談だぞ! 本気で考えるな!」
今にも暗い海へ消えてしまいそうな危うさに、カインは焦った。
軽口を叩いたことを後悔する。
「とにかく、迷惑なんて言わせねぇからな。ウチは仲間が増えるのは歓迎してる。いいな? 返事! 大きな声で『はい』!」
「は、はいっ……!」
「よし」
腕を組んで頷くカインを、レミは呆気にとられて見つめていた。
怒ったかと思えば笑い、困ったかと思えば強引に話を決める。
その忙しない男を見上げる瞳に、戸惑いとは違う、小さな温もりが宿り始めていた。
まだ笑顔にはならない。
それでも、固かった表情がわずかに和らいだ気がして、カインは少し安堵した。
月のない海を、船は進んでいく。
明朝の到着に備え、二人は甲板を後にした。




