6. 研究所からの脱出
一方、リーン大陸 ライフェン研究所。
手足の激しい痺れがようやく引き始めた頃には、すでに一時間近くが過ぎていた。
「ハァ……ハァ……っ。クソ、ようやく治まりやがったか……」
カインはふらつく足で立ち上がった。時間はとっくに限界だ。港からの便に間に合わせるなら、一刻の猶予もない。
バルコニーへ出ようと窓へ手をかけた、その時だった。
ガチャリ、とドアが開く。
気配で分かった。彼女だ。
だが、部屋へ踏み込んできたレミの体は、次の瞬間、糸の切れた人形のように石床へ倒れ込んだ。
「レミ……っ!?」
咄嗟に駆け寄り、その華奢な体を抱き起こす。
――あまりの惨状に、息が止まった。
裂けた白衣の隙間から覗く白い肌には、赤黒い無数の打撲痕と、肉を焼き付けられたような痛々しい火傷が広がっていた。
震える肩を抱え、カインは怒気混じりに声を絞り出す。
「おい……なんなんだよ、その怪我は! まさか、俺を匿ったのがバレたのか!?」
「ちが……気にしないで……」
荒い息の下、レミは自嘲するように目を伏せた。
「いつもの……ことだから」
「いつものこと!?」
「傷をつけて……どれくらいで治るか調べるのが、私の役目だから……」
感情の抜け落ちたその声に、カインの頭に血が逆流した。
「傷をつけて調べる、だぁ!? 医者がこんな傷つけるわけねぇだろ! なんでそんな酷いことされて逃げねぇんだよ! こんな所にいたら殺されるぞ!!」
「逃げられるわけ、ないよ……!!」
レミが叫んだ。
初めて見る、剥き出しの絶望だった。
彼女は震える手で袖を乱暴に捲り上げ、華奢な左手首に食い込む黒い金属の腕輪を晒した。
「ここから出ようとすれば、これが頭を引き裂くの! 死んで楽になろうとした……! 首を絞めても、息を止めても……死ぬことすら許されないの……!!」
大粒の涙が、少女の頬を伝って床へ落ちる。
なぜこんなことをされるのかも分からず、逃げることもできず、死んで楽になることすら拒絶され、ただ壊されては治すだけの無限の地獄。
カインの胸の奥で、理屈を超えた激情が爆発した。
何が役目だ。
理由も分からず閉じ込められ、傷つけられるために生かされているなど、あってたまるか。
レミは取り乱した自分に気づき、怯えたように慌てて涙を拭った。そして、痛々しく震える手をカインへとおずおずと差し出す。
「ごめんなさい……早く逃げて。……元気でね、カイン」
別れの握手を交わそうと差し出された、白く冷え切った小さな手。
カインはその手を、力任せに鷲掴みにした。
「っ……!?」
「誰が一人で逃げるか!」
引き寄せたレミの細い身体を、有無を言わさず片腕で抱え上げる。
「な、何するの……!? 降ろして、私には無理だって――!」
「うるせぇ、黙ってしがみついてろ! 俺がここから出してやる!!」
「え……?」
レミは息を呑み、大きく見開かれた青い瞳を震わせた。
これまで向けられてきた冷徹な観察の視線とも、怯えや憐れみともまるで違う、剥き出しの怒りと熱量。
理解の追いつかない混乱の中で、少女の白く強張った顔に、信じられないものを見るような驚愕と、すがるような微かな光が一瞬にして交錯する。
だが、それを確かめる間もなく、カインは問答無用で手すりを蹴った。
夜の虚空へと身を躍らせた二人の身体が、吹き荒れる風の中を一気に落下していく――。カインはレミを胸に抱え込み、膝を深く沈めて着地の衝撃を逃がした。
地上へ着地した、まさにその瞬間だった。
脱出を感知したレミの腕輪が、禍々しいエーテルの閃光を放ち狂い咲いた。
「あ……あああぁぁぁっ!!」
「チッ、これかよ……!」
少女の骨を軋ませ、脳を灼く激痛の呪縛。
カインは瞬時にその黒い金属輪を右の素手で力任せに鷲掴みにした。バチィッ!! と凄まじい衝撃が走り、カインの掌の肉が焼け焦げ、鮮血が噴き出す。
だが、手を離さない。ここで離せば、レミは地獄の苦しみを味わう事になる。
「くっ……そおおおおおっ!!」
歯が折れるほど噛み締め、全身の筋力を右手に叩き込む。
レミは見逃さなかった。
激痛に歪むカインの緑の瞳が――燃え盛るような『真紅』へと跳ね上がったのを。
――メキィッ!!
甲高い破壊音と共に、絶対に破れないはずの呪縛の金属輪が、カインの怪力によって一気にへし折られ、爆散した。黒い破片が夜の砂地に飛び散る。
「ハァ……ハァ……ッ!」
カインはその場に膝をついた。右手は黒く爛れ、血がボタボタと滴り落ちている。
腕輪の消えた左手首を呆然と見つめていたレミが、悲鳴のような声を上げた。
「カインっ……! 手が……私のせいで……!」
「……ハッ、ざまぁみろ」
激痛で肩を揺らしながらも、カインは強がるように口元を吊り上げ、怪我のない左手でレミの銀髪をくしゃりと乱暴に撫で上げた。
「俺がここから出してやるって、言ったろ。……これで、もうあんな部屋に戻る必要もねぇし、死のうとしなくていい」
「……っ、……あ……」
レミの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
ずっと一人で抱え込んできた冷たい絶望が、乱暴に髪を撫でてくれる手のひらの体温に触れて、音を立てて崩れ去っていく。
「ほら、泣いてる暇はねぇぞ。……逃げるのは、これからだ」
夜の砂漠を背に、青年は不敵に笑ってみせた。




