67. 親友のもとへ
同刻、エリザ村。
フェイは崖の縁に立ち、暗闇へ降り注ぐ雨を見つめていた。水の流れる音ばかりが大きく、眼下へ呼びかけても、返事は届かなかった。
「……言えないこと、か」
レミの言葉が、耳から離れなかった。
大切だからこそ、臆病になる。一番言いたい言葉が、消えてしまう。
医療を学び始めた頃、師も似たことを教えてくれた。患者は、必要なことを全て話してくれるとは限らない。恥じていることも、身内に知られたくないこともあり、問い詰めれば、かえって口を閉ざす場合もある。
そのつもりで、何人もの話を聞いてきたはずだった。
なのにカインへは、なぜ話してくれなかったのかと、ただ怒った。信じていたのは自分だけだったのかと、あの場で答えを求めてしまった。
どうして言えなかったのかを考える前に、自分が拒まれた痛みばかりを訴えたのだ。
フェイは雨に濡れた掌を見下ろした。
引き金を引いた指が、まだ強張っている。
あの時、ほかに何ができたのかと問われても、今すぐ答えは出せない。レミは殺されかけ、自分にはカインを押さえ込む力もなかった。
それでも彼女は、傷つけられながら、彼が内側で苦しんでいることを見失わなかった。
その声が、ようやくカインへ届いた。
「……敵わないなぁ、ほんと」
吐き出した息が震えた。
銃口を向けた自分の前で、彼女はどれほど怖かっただろう。カインを信じることに加えて、仲間が仲間を殺すことまで止めなければならなかったのだ。
その役目を、血を流す彼女へ背負わせてしまった。
熱いものが目から溢れ、雨へ混じった。フェイは袖で乱暴に拭い、もう一度だけ崖下を見つめた。
レミの傷は深かった。カインも、無傷ではない。
早く、追わなければならなかった。
「……さあ、あんたらも消えてくれ!」
背後から飛んだ声に、フェイは振り返った。
家の陰へ隠れていた村人たちが、こちらを窺っている。
「もう化け物はいなくなったんだ。これ以上、村の調和を乱さないでくれ!」
「……調和、ネェ」
頬へ流れる雨を拭い、フェイは倒れた山賊のもとへ向かった。
しゃがんで呼吸と反応を確かめる。身体へ触れると、男が低く呻いた。骨折も疑われる。雨の中へ放置してよい状態ではなかった。
カインは、この男たちを容赦なく叩き伏せた。
同じ手でレミを傷つけたことが頭をよぎり、胸が詰まる。それでも、今ここで診ている相手から手を離す理由にはならなかった。
「そこの二人。この男を、軒下へ運んで」
「なぜ、わしらが――」
「雨に打たせたままにするなと言ってるんだよ。聞こえなかった?」
顔を上げると、村人たちは口を閉じた。
ほかの負傷者も確かめ、必要な処置を済ませてから、フェイは立ち上がった。
子どもたちを残したまま、この村を去るわけにはいかない。
「暴れて問題を起こして、後始末はオレたちか。……なぁ、リシェイ」
地面へ座り込んでいた彼女が顔を上げた。
目元は赤く、服も泥に濡れている。フェイはその前へ屈み、顔色を確かめた。
「動ける? 無理なら言って。腹、まだ痛む?」
「大丈夫。レミが治してくれたから。……何をするの?」
フェイが山賊たちへ視線を向けると、彼女もそちらを見た。唇を結び、頷いて立ち上がる。フェイは鋼線を取り出した。
負傷箇所を避けて山賊たちを拘束し、武器を遠ざける。続いて村長の家へ向かうと、背後で慌てた声が重なった。
「そこへ入るな!」
「おや。見られちゃ困るものでも?」
返事を待たず、扉を開けた。
玄関は外観と変わらず、寂れていた。剥がれた壁紙と埃の溜まった隅を見ながら、フェイは奥へ進む。閉ざされた扉の向こうに、これまで聞いた話の答えがある気がした。
制止する村長を押し退け、その扉を開けた途端、背後のリシェイが声を上げた。
「……何これ。詐欺じゃん!」
窓のない大広間には、豪華なシャンデリアが吊られていた。
壁の油彩画も、革張りのソファも、この村の外側で目にしたものとは釣り合わない。傷んだ家具一つ買い替える余裕もないような顔をして、奥にはこれだけの品を揃えていたのだ。
「やっぱり、持ってるじゃないか」
フェイは室内へ目を走らせた。
孤児を売り、山賊たちと取引を続けてきた。その金がどこへ流れたのかは、この部屋を見れば察しがついた。
「旅人を賄う余裕もない、だったっけ?」
「お前ら……!」
駆け込んできた村長が、台の上の彫像を掴んだ。
「ここで死ねぇッ!」
振り下ろされる腕を避け、フェイは手首を取った。腹へ肘を入れると、男の手から彫像が落ちる。
同時に飛び出したリシェイが、続いて襲ってきた男を蹴り倒した。その勢いのまま村長の前へ回り、ダガーを突きつける。
「……まだ、やるかい?」
村長の膝が折れた。
フェイは奪った彫像を床へ置き、浅く息を吐いた。
「カインほど強くはないけど、これでも戦場救命もするから、基礎くらいは叩き込まれてるんだヨ。白髪頭の、こわーい兄さんにネ」
リシェイの口元が僅かに動いた。
いつものように笑える状況ではなかった。それでも、こちらを見た彼女へ頷き返し、フェイは残る者たちの拘束に取りかかった。
「何なんだ、お前たちは! よそ者のくせに……あんな化け物の仲間のくせに!」
その言葉に、手が止まった。
フェイは村長の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「あんたらにも……オレたちにも、あいつを化け物だと切り捨てる資格なんてない!」
村長が怯んだ。
だが、掴む手に力がこもったのは、その顔を怖がらせたかったからだけではなかった。
自分も、怖かったのだ。
見慣れた友人の顔が変わり、呼びかけが届かなくなった時、理解できないものとして遠ざけたくなった。レミを救うためだと言い聞かせながら、引き金へ指を掛けた。
あの子は、その向こうへ手を伸ばし続けたのに。
「……あいつがしたことを、なかったことにはしない。だが、あんたらが子どもを売っていたことも、別の話だ」
荒く息を吐き、胸ぐらを離した。
「風習だの調和だの、好きに呼べばいい。子どもの命で私腹を肥やすことが、許される理由にはならないからな」
言い終えると、フェイは机へ向かった。
これほどの品を集め、僻地で取引を続けるなら、外と連絡を取る手段も必要だったはずだ。
高価な通信伝声機を見つけると、起動の操作へ指を伸ばす。この種の機器には、近隣の国軍警備隊へ繋がる緊急回線が組み込まれていた。
村長が何かを叫んだが、聞く必要はなかった。
応答した相手へ、村の位置、人身売買の疑い、拘束した者の数を告げる。重傷者がいること、保護を要する子どもが複数いることも、続けて伝えた。
問い返された箇所へ答えながら、呼吸を整える。
何を感じていても、今、伝えるべきことは伝えなければならない。相手が動けるだけの情報を揃え、救護と保護の手配を確かめてから、フェイは通信を終えた。
「じきに、警備隊と査察が入るそうだ」
村長が顔を伏せた。
その向こう、入口の陰から覗く小さな顔があった。フェイは声を和らげ、近づいて膝をつく。
「……もう出てきていいヨ」
子どもたちは互いを見た後、おずおずと部屋へ入った。濡れた服の肩が震えている。
「寒かったな。リシェイ、乾いた布、取ってくれる?」
「うん」
差し出された布を、小さな背へ掛けてやる。
「警備隊の人たちが来る。ここで何があったか、話を聞いてくれるから」
「……言っても、いいの?」
その問いに、フェイは一瞬言葉を失った。
言えなかったことが、この子たちにもある。
話すだけで救われるとは限らないと、もう知ってしまっているのかもしれなかった。
「いいんだよ。怖かったことも、嫌だったことも伝えな。ただ、全部を一度に話そうとしなくていい。言えるところからでいいから、君たちの話をして」
子どもの顔がくしゃりと歪んだ。涙を拭い、小さく頷いてくれる。
フェイはその頭を撫でた。
すぐ幸せになれるとまでは、約束できなかった。だが、少なくとも、ここで売られるのを待つ暮らしからは離せる。そのための手は、今、打てたはずだった。
子どもたちを雨の入らない部屋へ移し、警備隊が来るまでのことを伝える。取引の記録も調べてもらえるよう、通信で見つけた場所を報告しておいた。
最後にもう一度、負傷者の様子を確かめる。
それからフェイは、リシェイへ顔を向けた。
「……行こう」
「うん」
外へ出ると、雨はまだ強かった。
カインと、もう一度話さなければならない。
何から聞けばいいのかも、どんな顔で会えばいいのかも、まだ分からなかった。
レミのように信じ切れなかったことを、謝れば済むとも思っていない。
それでも今度は、言葉が出るまで待ちたかった。話せない理由を、自分の痛みで塞がずに聞きたかった。
そして、その前に二人の傷を診なければならない。
フェイは荷物を抱え直し、リシェイと共に走り出した。
その声を聞くために、フェイは降りしきる雨の中へ足を進めた。




