66. 君と生きる未来
気づけば、洞窟の外を叩いていた雨音が止んでいた。
「雨、上がったみたい」
入り口へ歩み寄ったレミが空を見上げる。黒雲の切れ間から満月が覗き、濡れた木々を淡く照らしていた。あと二時間もすれば夜が明けるだろう。
置き去りにしてきたフェイとリシェイが気掛かりだった。フェイがついているのだから大丈夫だと信じたかったが、あの雨の中、どこで夜を過ごしているのだろうと思うと、胸が重くなる。
「カインも、少し休んで?」
振り返ったレミに声をかけられ、カインは顔を上げた。
「私はもう動けるから。心配しないで、仮眠だけでも取って」
「俺は大丈夫だ」
「でも、ずっと起きていたでしょう? ね?」
顔を覗き込まれ、言い返せなくなった。
真紅の瞳を暴走させた身体は、とうに限界だった。力が抜けた途端、腕も脚もひどく重くなり、焚き火の前へ座っているだけで眠りに引かれそうになる。
朝になれば、また歩かなければならない。無理を通して彼女に支えられることになっては、本末転倒だった。
「……じゃあ、一時間くらいしたら起こしてくれ」
「そんなに急がなくても……」
「少し横になるだけだよ」
カインは岩の床へ身体を伸ばした。枕にするものもなく、腕を頭の下へ差し入れようとすると、レミがそばへ座る気配がした。
「よかったら、私の膝、使う?」
「は!?」
跳ね起きると、彼女は膝を揃えてこちらを見ていた。
「そこ、硬いでしょう。少しは楽になると思うの」
「いや……でも、お前、怪我してんだろ」
「膝は平気だよ。ほら、どうぞ」
ためらいもなく膝を叩かれ、カインは返事に詰まった。
彼女にとっては、ただ休みやすいようにという気遣いなのだろう。それは分かる。分かるが、こちらまで何でもない顔をするのは、無理があった。
「……重かったら、言えよ」
ゆっくりと頭を預ける。
布越しの柔らかな感触と温もりに、全身が強張った。見上げればレミの顔があり、いつもより近いところで青い瞳が優しく細められる。
「痛くない?」
「……ああ」
それだけ答えるのが精一杯だった。
心臓がうるさい。
眠るどころか、目が冴えてしまいそうだ。
けれど、そっと髪を撫でる指に触れられると、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜けていった。
さっきまで、すべてを失ったと思っていた。
自分の醜い部分を知られ、今度こそ彼女にも拒まれるのだと覚悟していた。
それなのに、レミはそばにいてくれる。こうして触れ、休んでいいと言ってくれる。
嬉しくて、息が苦しかった。
(……ああ。もう、駄目だ)
助けたいだけではなかった。過去の自分と似ているから、放っておけなかっただけでもない。
レミが笑えば嬉しい。
悲しめば、その理由を何とかして取り除きたくなる。
ほかの誰かに向けるのとは違う気持ちで、自分を見てほしいとさえ願っている。
この手を離したくない。
目を覚ました時、明日も、その次の日も、彼女がそばにいてくれたらと思う。
傷つくのが怖くて、そんな望みは認めないようにしてきた。大切な仲間なのだと、それ以上を考えるたび自分へ言い聞かせていた。
けれど今、この温もりを知ってしまったら、もう誤魔化せなかった。
自分はレミが好きなのだ。
守れる場所へ送り届ければ、それで満足できるはずがない。自分も彼女と一緒に生きたいのだと、ようやく認めた。
「……なあ、レミ」
「なぁに?」
「俺に、もっとしてやれることはないか?」
「どうして?」
不思議そうに尋ねられ、カインは少し目を逸らした。
「何でもいいんだ。欲しいものとか、してほしいこととか……俺にできることなら」
何か返したかった。彼女にも同じくらい嬉しいと思ってほしかったし、その理由に、自分がなれたならと思った。
「もう、充分すぎるくらい助けてもらったよ」
「それでも」
「……でも、何かって言うなら……」
レミが言葉を探す。
カインは顔を戻した。遠慮ばかりの彼女が望んでくれるのなら、どれほど難しいことでも応えてやりたかった。
だが、こちらを見下ろす瞳が、ふっと寂しそうに揺れた。
「お別れしても……時々でいいから、私のこと、思い出してくれたら嬉しいな」
髪を撫でる手は、まだ温かかった。
その温もりに包まれたまま、胸の奥だけが冷たくなった。
「……何だよ、それ」
――思い出す。
彼女に触れられなくなってから、今夜のことを。名前を呼んでも返事がない場所で、この声を。何年も、何十年も、会えないまま思い出して生きろというのか。
「忘れるわけないだろ!」
カインは身体を起こし、レミの両肩を掴んだ。
「時々なんて……そんなふうに言うなよ!」
「……カイン?」
驚いた顔を見て、ようやく手に込めた力を緩める。レミは怒らず、むしろ安心したように微笑んだ。
「……ありがとう」
礼を言われ、言葉が途切れた。
彼女は、本当に別れるつもりなのだ。
救済の聖地へ送り届ける。それが、この旅の目的だった。初めから知っていたはずの結末が、ようやく自分自身の痛みになって迫ってくる。
彼女が助かるなら、それでいいと思っていた。寂しくても、無事に送り届けられたことを喜べるのだと、どこかで考えていた。
何も分かっていなかった。
今、彼女が隣にいるだけで、こんなにも嬉しい。その声も、手も、微笑みも、もう二度と届かなくなるなど耐えられなかった。
行かないでくれと言いたかった。
けれど、彼女は自分から離れたいのではない。
追われる恐怖や苦痛から逃れるために、ほかに道がないと思って、あの場所を目指している。
その不安を何一つ消せないまま、そばにいてくれと縋るだけでは、彼女へ新しい重荷を背負わせることになる。
カインは肩から手を下ろし、膝の上で握り締めた。
安らげる場所へ連れていくという約束は守る。
だが、彼女を一人にすることだけが、その答えであってほしくなかった。レミが皆の中で笑い、明日を楽しみにして眠れる道を探したかった。
その未来に、自分もいたい。
彼女の幸せを願う気持ちと、自分が離れたくないという願いは、もう切り分けられなかった。
「……俺、決めたから」
「何を……?」
「今は、まだ言えない。でも、いつかちゃんと言う」
レミの瞳を見つめ、息を整える。
「その時、お前にも……そうしたいって思ってもらえるように、頑張るから」
彼女はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。教えてくれるの、待ってるね」
その「待ってる」に、胸がまた苦しくなるほど温かくなった。
「……ああ。できれば、いい返事が欲しいけどな」
「返事?」
首を傾げられ、カインは照れを逃がすように顔を背けた。
「今は聞くなよ。まだ、何にもできてねぇんだから」
レミが小さく笑い、膝へ手を置いた。もう一度どうぞと言うような仕草に、カインは少しためらってから頭を預けた。
同じ温もりなのに、先ほどよりずっと愛おしく、失うのが怖かった。
「明日、フェイとリシェイに合流しようね」
静かな声に、胸が強張る。
「……戻って、いいのかよ。あんなことしたんだぞ」
「二人に会って、話そう。きっと、カインの話を聞いてくれるよ」
「顔、見たら……逃げ出したくなるかもしれねぇ」
「その時は、私も一緒にいるから」
カインは目を閉じた。
彼女を支えたいと言いながら、今は自分ばかりが支えられている。それが情けなくもあり、どうしようもなく嬉しくもあった。
「……頼む」
「うん」
髪を撫でる手が、またゆっくりと動き始めた。
洞窟の外では、葉に残った雨粒が滴り落ちていた。焚き火が小さく爆ぜるたび、瞼の向こうで明かりが揺れる。
朝になれば、向き合わなければならないものがいくつもある。彼女と別れずに済む道も、まだ何一つ見つけていない。
それでも今夜、自分の望みだけは分かった。
レミのそばにいたい。
その願いを初めて否定せずに抱き締めながら、カインは彼女の手に身を委ね、短い眠りへ沈んでいった。




