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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第五章 真紅の深淵
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66. 君と生きる未来


気づけば、洞窟の外を叩いていた雨音が止んでいた。



「雨、上がったみたい」



 入り口へ歩み寄ったレミが空を見上げる。黒雲の切れ間から満月が覗き、濡れた木々を淡く照らしていた。あと二時間もすれば夜が明けるだろう。


 置き去りにしてきたフェイとリシェイが気掛かりだった。フェイがついているのだから大丈夫だと信じたかったが、あの雨の中、どこで夜を過ごしているのだろうと思うと、胸が重くなる。


「カインも、少し休んで?」


 振り返ったレミに声をかけられ、カインは顔を上げた。


「私はもう動けるから。心配しないで、仮眠だけでも取って」

「俺は大丈夫だ」

「でも、ずっと起きていたでしょう? ね?」


 顔を覗き込まれ、言い返せなくなった。


 真紅の瞳を暴走させた身体は、とうに限界だった。力が抜けた途端、腕も脚もひどく重くなり、焚き火の前へ座っているだけで眠りに引かれそうになる。


 朝になれば、また歩かなければならない。無理を通して彼女に支えられることになっては、本末転倒だった。


「……じゃあ、一時間くらいしたら起こしてくれ」

「そんなに急がなくても……」

「少し横になるだけだよ」


 カインは岩の床へ身体を伸ばした。枕にするものもなく、腕を頭の下へ差し入れようとすると、レミがそばへ座る気配がした。


「よかったら、私の膝、使う?」

「は!?」


 跳ね起きると、彼女は膝を揃えてこちらを見ていた。


「そこ、硬いでしょう。少しは楽になると思うの」

「いや……でも、お前、怪我してんだろ」

「膝は平気だよ。ほら、どうぞ」


 ためらいもなく膝を叩かれ、カインは返事に詰まった。


 彼女にとっては、ただ休みやすいようにという気遣いなのだろう。それは分かる。分かるが、こちらまで何でもない顔をするのは、無理があった。


「……重かったら、言えよ」


 ゆっくりと頭を預ける。


 布越しの柔らかな感触と温もりに、全身が強張った。見上げればレミの顔があり、いつもより近いところで青い瞳が優しく細められる。


「痛くない?」

「……ああ」


 それだけ答えるのが精一杯だった。


 心臓がうるさい。

 眠るどころか、目が冴えてしまいそうだ。

 けれど、そっと髪を撫でる指に触れられると、張り詰めていた身体から少しずつ力が抜けていった。


 さっきまで、すべてを失ったと思っていた。


 自分の醜い部分を知られ、今度こそ彼女にも拒まれるのだと覚悟していた。

 それなのに、レミはそばにいてくれる。こうして触れ、休んでいいと言ってくれる。


 嬉しくて、息が苦しかった。



(……ああ。もう、駄目だ)



 助けたいだけではなかった。過去の自分と似ているから、放っておけなかっただけでもない。


 レミが笑えば嬉しい。

 悲しめば、その理由を何とかして取り除きたくなる。

 ほかの誰かに向けるのとは違う気持ちで、自分を見てほしいとさえ願っている。



 この手を離したくない。

 目を覚ました時、明日も、その次の日も、彼女がそばにいてくれたらと思う。


 傷つくのが怖くて、そんな望みは認めないようにしてきた。大切な仲間なのだと、それ以上を考えるたび自分へ言い聞かせていた。


 けれど今、この温もりを知ってしまったら、もう誤魔化せなかった。



 自分はレミが好きなのだ。



 守れる場所へ送り届ければ、それで満足できるはずがない。自分も彼女と一緒に生きたいのだと、ようやく認めた。


「……なあ、レミ」

「なぁに?」

「俺に、もっとしてやれることはないか?」

「どうして?」


 不思議そうに尋ねられ、カインは少し目を逸らした。


「何でもいいんだ。欲しいものとか、してほしいこととか……俺にできることなら」


 何か返したかった。彼女にも同じくらい嬉しいと思ってほしかったし、その理由に、自分がなれたならと思った。


「もう、充分すぎるくらい助けてもらったよ」

「それでも」

「……でも、何かって言うなら……」


 レミが言葉を探す。


 カインは顔を戻した。遠慮ばかりの彼女が望んでくれるのなら、どれほど難しいことでも応えてやりたかった。


 だが、こちらを見下ろす瞳が、ふっと寂しそうに揺れた。



「お別れしても……時々でいいから、私のこと、思い出してくれたら嬉しいな」



 髪を撫でる手は、まだ温かかった。

 その温もりに包まれたまま、胸の奥だけが冷たくなった。


「……何だよ、それ」


 ――思い出す。


 彼女に触れられなくなってから、今夜のことを。名前を呼んでも返事がない場所で、この声を。何年も、何十年も、会えないまま思い出して生きろというのか。


「忘れるわけないだろ!」


 カインは身体を起こし、レミの両肩を掴んだ。


「時々なんて……そんなふうに言うなよ!」

「……カイン?」


 驚いた顔を見て、ようやく手に込めた力を緩める。レミは怒らず、むしろ安心したように微笑んだ。


「……ありがとう」


 礼を言われ、言葉が途切れた。

 彼女は、本当に別れるつもりなのだ。


 救済の聖地へ送り届ける。それが、この旅の目的だった。初めから知っていたはずの結末が、ようやく自分自身の痛みになって迫ってくる。


 彼女が助かるなら、それでいいと思っていた。寂しくても、無事に送り届けられたことを喜べるのだと、どこかで考えていた。


 何も分かっていなかった。


 今、彼女が隣にいるだけで、こんなにも嬉しい。その声も、手も、微笑みも、もう二度と届かなくなるなど耐えられなかった。



 行かないでくれと言いたかった。



 けれど、彼女は自分から離れたいのではない。

 追われる恐怖や苦痛から逃れるために、ほかに道がないと思って、あの場所を目指している。


 その不安を何一つ消せないまま、そばにいてくれと縋るだけでは、彼女へ新しい重荷を背負わせることになる。

 カインは肩から手を下ろし、膝の上で握り締めた。


 安らげる場所へ連れていくという約束は守る。

 だが、彼女を一人にすることだけが、その答えであってほしくなかった。レミが皆の中で笑い、明日を楽しみにして眠れる道を探したかった。


 その未来に、自分もいたい。


 彼女の幸せを願う気持ちと、自分が離れたくないという願いは、もう切り分けられなかった。


「……俺、決めたから」

「何を……?」

「今は、まだ言えない。でも、いつかちゃんと言う」


 レミの瞳を見つめ、息を整える。


「その時、お前にも……そうしたいって思ってもらえるように、頑張るから」


 彼女はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく頷いた。


「分かった。教えてくれるの、待ってるね」


 その「待ってる」に、胸がまた苦しくなるほど温かくなった。


「……ああ。できれば、いい返事が欲しいけどな」

「返事?」


 首を傾げられ、カインは照れを逃がすように顔を背けた。


「今は聞くなよ。まだ、何にもできてねぇんだから」


 レミが小さく笑い、膝へ手を置いた。もう一度どうぞと言うような仕草に、カインは少しためらってから頭を預けた。


 同じ温もりなのに、先ほどよりずっと愛おしく、失うのが怖かった。


「明日、フェイとリシェイに合流しようね」


 静かな声に、胸が強張る。


「……戻って、いいのかよ。あんなことしたんだぞ」

「二人に会って、話そう。きっと、カインの話を聞いてくれるよ」

「顔、見たら……逃げ出したくなるかもしれねぇ」

「その時は、私も一緒にいるから」



 カインは目を閉じた。


 彼女を支えたいと言いながら、今は自分ばかりが支えられている。それが情けなくもあり、どうしようもなく嬉しくもあった。


「……頼む」

「うん」


 髪を撫でる手が、またゆっくりと動き始めた。


 洞窟の外では、葉に残った雨粒が滴り落ちていた。焚き火が小さく爆ぜるたび、瞼の向こうで明かりが揺れる。


 朝になれば、向き合わなければならないものがいくつもある。彼女と別れずに済む道も、まだ何一つ見つけていない。



 それでも今夜、自分の望みだけは分かった。


 レミのそばにいたい。


 その願いを初めて否定せずに抱き締めながら、カインは彼女の手に身を委ね、短い眠りへ沈んでいった。



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