65. 話したい、俺の全部を
カインは炎の揺らぎを見つめながら、火を絶やさないよう薪をくべ続けていた。
洞窟の外では、まだ雨が降っている。
焚き火が爆ぜるたび、眠るレミへ目を向け、胸元の僅かな上下を確かめた。
目を離している間に、その動きが止まってしまうのではないか。そんな不安が、どうしても消えなかった。
「……カ……イン……?」
雨音に混じった声に、弾かれるように振り向いた。澄んだ青い瞳が、今度はしっかりとこちらを見ている。
カインはすぐさまレミの元へ駆け寄った。
「レミ! 目、覚めたのか!? 身体は動くか!?」
「うん……大丈夫だよ……」
レミが地面に手をつき、身体を起こしたその瞬間――被さっていたジャケットがハラリと滑り落ちた。
目の前に飛び込んできたとんでもない光景に、カインの目が見開かれる。
「ちょっ……待て! 服!!」
「……服?」
自分の姿へ目を落としたレミが息を呑んだ。手当てのため上半身の衣服を脱がされていたことに気づき、真っ赤になってかけられていた上着を引き上げる。
「キャッ! あ、あの……!」
「それ、俺の上着! そのまま着ててくれ!」
「借りても、いいの?」
「当たり前だ。そっちのシャツは俺にくれ。あっち向いてるから!」
慌てて背を向け、後ろ手にシャツを受け取った。目を逸らしても、見えてしまった姿まで頭から追い出せるわけではない。こんな時に何を意識しているのだと、自分へ腹を立てながら着替えた。
「もう大丈夫だよ?」
振り返ると、レミはぶかぶかのジャケットへ袖を通し、前をきっちり閉じていた。
「ごめん! 誓って、いやらしい目で見ようとか、そういう気はなかったから!!」
「分かってるよ。カインになら、見られても気にしないから大丈夫だよ!」
「あ……ああ……そうか……?」
安心させようとしてくれたのだろう。
けれど、その言葉は思わぬところへ突き刺さった。
(それって……俺を男として全く意識してないってことか……!?)
別の意味で大打撃だ。
ようやく目を覚ましてくれた相手に何を期待しているのかと呆れながらも、素直には喜べなかった。
隣へ座ったレミが冷えた手を火へかざすと、その近さだけで落ち着かなくなる。
だが、袖から覗く傷を見た瞬間、浮ついた気持ちは消えた。
「……傷、痛むよな」
「一番深かったところは、もう塞がったよ」
「……ごめん。痛かったろ。怖かったよな……」
膝の上で手を握った。
この拳が彼女を傷つけた。雨の中で伸ばされた小さな手を、振り払おうとした感覚まで残っている。
「ライフェンをあれだけ軽蔑しておきながら、俺がお前に同じようなことをするなんて……」
いつかこうなるのではないかと、恐れていた。そのくせ、彼女のそばから離れることもできなかった。
髪へそっと指が触れ、カインは顔を上げた。
「カインは、博士とは違うよ。私は自分であなたのところへ行ったの。伝えたいことがあったから……あの時言ったこと、全部、本当だよ」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、その優しさへ縋りたくなった。けれど、大丈夫という言葉に甘え、彼女が許してくれたからと、自分まで済んだことにしてしまうのが怖かった。
カインはしばらく黙ってから、口を開いた。
「……レミ。話したいんだ、俺のこと」
「うん」
「今まで、ちゃんと話さなかったことがある。長くなるかもしれねぇけど……聞いてくれるか?」
頷いてもらえても、すぐには声が出なかった。
過去を知れば仕方がなかったと、今日のことまで受け入れてほしいわけではない。ただ、これ以上、陰へ隠れたくなかった。
自分が何を恐れ、何から逃げてきたのかを、この人には伝えたかった。
深く息を吸い、幼い日のことから語り始めた。
実の父親に増水した川へ捨てられたこと。
何度も息ができなくなりながら、それでも生き延びたこと。
拾われた孤児院では、ようやく家族ができたと思った。食事が出て、眠る場所があり、朝になれば誰かの声が聞こえる。それだけで、もう独りにはならなくて済むと信じた。
けれど、あの瞳を見られた後は違った。
孤児院を出てからはどこに行っても、排除される存在となった。
独りになってからは、眠る場所を探すだけで日が暮れることもあった。雨を避けられる軒下を追い払われれば、別の場所を探し、見つからなければ濡れたまま身体を丸めた。
空腹で眠れず、食べ物を探してゴミを漁った。
人の足音がすれば、殴られる前に逃げた。
「冬が、一番嫌だった。……寒いと、眠くなるだろ」
一度口を閉じ、火へ目を向けた。
「でも、寝たら死ぬかもしれないって思うと、目ぇ閉じられなくてさ。早く朝になれって、そればっか考えてた」
助けを求めたこともあった。
けれど、汚れた子供へ足を止める者は少なく、何度も追い払われるうち、声をかけること自体が怖くなった。差し出された手にさえ、何を要求されるのかと身構えた。
やがて、頼むより奪う方が早いと覚えた。
「殴って取れば、その日は食えた。……嫌な話だろ」
笑おうとしても、うまくいかなかった。
力を振るえば人は道を空け、自分を追い払っていた大人も近寄らなくなった。ようやく踏みつけられずに済むと思ったのに、その力を見られれば、スラムでさえ化け物と呼ばれ、追い出された。
「……誰もいらないって、思おうとしてた。期待しなきゃ、独りになったって平気だろって」
けれど、明かりの灯る窓から笑い声が聞こえると、足を止めてしまった。
自分のいない場所では、誰かが温かいものを食べ、名前を呼び合っている。その当たり前の暮らしが、どうしても手に入らなかった。
「本当は……どこでもいいから、いていいって言われたかった」
口にした途端、喉が詰まった。
レミは急かさなかった。話が止まっても待っていてくれた。その沈黙が拒絶ではないと分かるたび、また言葉を続けることができた。
デュロアルの仲間たちにさえ、話したことはなかった。子供一人で生きるのは大変だったと笑えば、それ以上詳しく語らずに済んだ。
「あの『家』に馴染めた時、昔のことは絶対に言わないって決めた。……もう追い出されたくなかったから」
食事の時間になれば呼ばれ、仕事から帰れば迎えられる。寝床を追われる心配もなく、朝まで眠ってよかった。
おかえりと言って、誰かが迎えてくれる。
昔、窓の外から眺めていた暮らしの中に、自分がいる。
だからこそ、失うのが怖かった。
皆が見捨てる人間ではないと、頭では分かっていた。それでも、かつて家族だと信じた人々も、初めは優しかったのだ。
「本当の俺を知っても、同じように笑ってくれるかなんて……確かめられなかった」
膝の上へ目を落とし、ようやく告げた。
「……嫌われたくなかったんだ。お前にも」
守ると大きなことを言いながら、結局は見捨てないでほしいと願っている。それが情けなくて、顔を上げられなかった。
「カイン。話してくれて、ありがとう」
静かな声に目を向けると、レミはまだ、同じ場所に座っていた。
「私を助けてくれた時も……誰かに助けてほしかった時のこと、思い出した?」
カインは息を呑んだ。
「……同情だったって、分かってたのか」
彼女を連れ出した時、過去の自分を重ねていた。助けを求めても届かなかった自分の声を、彼女の中に聞いていたのだ。
「……嫌な思い、させただろ」
「どうして?」
「自分と似てるから放っておけなかったなんて……俺の都合だろ」
レミは少し考え、首を横に振った。
「でも、私の苦しさを分かろうとしてくれたんでしょう?」
責める響きのない問いに、答えられなかった。
「『ここから出してやる』って言ってくれた人、他にはいなかったの。私のために怒ってくれる人がいることも、知らなかった」
青い瞳が、柔らかく細められた。
「初めは同情だったとしても、私、嬉しいよ。カインが手を伸ばしてくれたから、今、ここにいるんだもの。あなたが教えてくれたの。ただいまって言える幸せを」
ずっと、自分の身勝手さだと思っていた。彼女を通して、救えなかった昔の自分を救おうとしたのだと。
その手を取った側から、感謝されるなど考えていなかった。
「……ありがとう、カイン」
視界が滲み、慌てて俯いた。何か返そうとしても、息ばかりが喉につかえた。
「ちがう……礼を言うのは、俺だろ……」
話したら終わると思っていた。綺麗ではなかった過去を知れば、あの瞳にも恐れや嫌悪が浮かぶのだと。
けれど、レミは隣にいた。
声も、距離も、変わらなかった。
「……初めてだ。こんな話、したの」
それだけ告げると、カインは抱えた膝へ顔を埋めた。もう笑ってごまかすことはできなかった。
髪へ再び手が触れた。何も言わず撫でてくれる指先に、張り詰めていた肩から力が抜けていく。
外では、まだ雨が降っていた。
昔は、雨の夜が嫌いだった。冷えた身体を寄せる相手も、朝までいてよい場所もなく、独りで耐えるしかなかったからだ。
今は、そばに人がいる。
自分の話を最後まで聞き、その後も離れずにいてくれる人が。
カインは顔を伏せたまま、震える息を吐いた。
その手の温もりが、どうしようもなく愛おしかった。
出来たらもう1話、夜更新します




