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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第五章 真紅の深淵
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64. 刃


冷たい豪雨の中、カインはレミを抱えて街道を走っていた。


 腕の中の顔は青白く、唇もほとんど色を失っている。揺らさないよう支えているつもりでも、一歩踏み込むたび、その身体が僅かに震えた。


「レミ! 聞こえてるか!?」


 瞼が動いた。それだけで、縋りつくように次の言葉が出る。


「もう少しだ。すぐ、雨の当たらない所へ連れてくから……!」


 治癒を使う本人が、このままでは死んでしまう。


 撃たれた右肩へ、抱えた身体の重さが容赦なくかかった。暴走の反動で膝は軋み、腕の感覚も薄れ始めている。それでも抱き直すことさえ怖かった。力を緩めた一瞬に、彼女まで失いそうだった。


 服越しに、温かなものが腕へ滲む。

 自分が斬った傷から、まだ血が流れていた。


「……死なせて、たまるかよ……!」


 岩壁沿いに走り続け、ようやく、木材で入口を補強された洞窟を見つけた。


 旧街道に残る、旅人のための避難所だった。独りで流れていた頃、同じような場所で夜を明かしたことがある。奥に積まれた薪が見えたが、今はそれより先に、レミをそっと横たえた。


「着いたぞ! レミ、分かるか!?」


 頬へ張りついた髪を払い、顔を覗き込む。


「治癒の力……使えそうか!?」


 薄く開いた青い瞳が、彼を見た。かすかな頷きに、カインは何度も頷き返す。


「そうか。よし……頼む。今は、自分を治してくれ」


 濡れたジャケットとシャツを脱ぎ、彼女の襟元へ手をかけた。血を吸った服は傷へ張りつき、僅かに動かしただけで、細い息が漏れる。


「……ごめん。服、裂くぞ」


 肌を傷つけないよう指を差し入れ、泥と血に汚れた服を裂いた。下着も慎重に裂いて胸元を開けると、その傷の深さに、手が止まった。


 白い肌を横切る斬り傷。その周りにも、肩にも腕にも、殴り、蹴りつけた痕が浮かんでいた。


 彼女はその間も、自分の名前を呼んでいた。


 やめてくれと、聞いてくれと。殺されるかもしれないのに、逃げずに手を伸ばしていた。


「……っ……」


 喉の奥へ込み上げたものを、必死に飲み込む。

 今、目を逸らしてどうする。自分が何をしたのか、見ていられないなどと言っている場合ではなかった。


 レミが腕を動かそうとしたが、手は胸まで上がらず、途中で力なく落ちかける。

 カインは慌てて支えた。


「ここだ。俺が持ってるから……力だけ、使ってくれ」


 震える掌を傷へ導くと、淡い光が灯った。

 自分には、それを支えることしかできない。


 人を叩き伏せる力はある。骨も、石も、壊せる。なのに、今、この細い身体から流れ出る血を止める力さえ持っていなかった。


 レミは苦しそうに息を繋ぎながら、自分で自分の傷を塞いでいる。

 その光景に耐えかね、カインは俯いた。包んだ指先が冷たくなるたび、顔を上げ、呼吸を確かめる。


「……頼むから。持ち直してくれ……」


 彼女が聞いているかも分からないまま、同じ願いを繰り返した。



 ***



 残されていた薪へ火を起こし、濡れた服を広げてから、カインは再びレミの手を支えていた。


 光が薄れ、やがて消える。


「レミ!?」


 瞼が閉じた。


 カインは顔を寄せ、息を詰めた。口元から漏れる微かな呼吸を感じても、すぐには動けなかった。次の一息、その次を待ち、ようやく胸の傷へ目を落とす。

 深く開いていた傷口は、塞がっていた。


「……よかった……」


 力が抜け、肩が落ちた。


 まだ手は冷たい。

 それでも、息をしている。自分が斬った彼女が、今も生きている。

 そのことだけで、膝をついたまま動けなくなった。


 しばらくして右肩の痛みに気づき、リストテープを解いた。傷へ巻き、端を歯で咥えて左手で引く。痛みに呻いても、レミの方へ目をやらずにはいられない。


 眠りを妨げていないか。苦しそうにはしていないか。


 応急処置を終えると、乾かしたジャケットを彼女へ被せ、シャツを畳んで頭の下へ差し入れた。泥で汚れた髪を払い、頬に残る水滴を拭う。


 何かをしていなければ、また、あの刃を思い出した。


 胸から散った血。背中から倒れた身体。自分へ向けられていた瞳が閉じる瞬間。


「……ごめんな……」


 謝っても、眠る顔は変わらない。

 その静けさが怖くなり、カインはまた顔を近づけた。呼吸がある。それを確かめて、ようやく少し離れる。

 何度、同じことを繰り返したか分からなかった。



 外では雨が降り続けていた。



 炎を見つめているうち、独りで夜を過ごしていた頃の寒さが蘇る。父親に川へ投げ落とされ、教会からも逃げ出し、手枷をつけたまま泣いていた夜。


 声を上げれば、誰かに見つかる。それでも、呼びたい名前を喉の奥へ押し込めるのは、たまらなく苦しかった。


 もう、誰も来ない。


 そう分かってからは、泣くことさえ無駄だと思うようになった。


 なのに、レミは来た。


 皆が逃げる中、自分へ近づき、傷つけられても手を離さなかった。怖いと分かっているはずなのに、その奥にいる自分を探し続けてくれた。


 カインは火から目を逸らし、彼女の傍へ座り直した。

 乾き始めた銀髪へ、小さな泥の塊が残っている。指で払いながら、初めて会った日のことを思った。



 あの部屋から出してやりたいと思った。

 自分より弱く、何も知らない少女を守るのは、当然だと思っていた。


 その彼女に、自分は何度救われただろう。


 世界のどこにも出せなかった言葉を、彼女の前では口にした。誰にも見せたくない姿まで見られて、それでも、そばにいてくれた。



 今さら、彼女のいなかった頃へ戻れるはずがなかった。



 ふいに視界が揺れ、カインは頭を振る。身体が限界を訴えていたが、薪を足し、炎が落ち着くまで見届けると、またその手を取った。


 目覚めた時、独りだと思わせたくなかった。

 呼ばれたら、すぐに答えたかった。


 掌には擦り傷が幾つもあった。自分へ縋るために泥を掻き、最後まで足首を掴んでいた手だった。


「……俺なんか、放っときゃよかったのに」


 呟いた途端、胸が痛んだ。


 本当は、放っておいてほしくなかった。

 怖がらないでほしかった。逃げないで、名前を呼んで、まだ自分がここにいるのだと、信じていてほしかった。

 彼女がしてくれたことの全てを、ずっと欲しがっていた。


「……ごめん。嘘だ」


 声が震えた。


「来てくれて……嬉しかった……」


 握った指が滲んで見えた。

 傷つけた相手に、何を言っているのだろう。そばにいたいなど、口にしてよいはずがない。


 それでも、離れることを思うだけで、息ができなくなった。



「俺は……お前と一緒にいたいんだ。ずっと……ずっと一緒に……!」



 初めて声になった願いは、堰を切ったように溢れた。


「笑ってんの、もっと見てたい。何でもない話して、飯食って……明日も、お前に名前、呼んでほしいんだよ……」


 眠る彼女は答えない。それでも、一度口にした想いを、もうなかったことにはできなかった。


 彼女のために離れる。

 それが正しいのかもしれないと、頭のどこかが囁く。


 だが、足首を掴んだ手を覚えている。独りぼっちは怖いと、自分を呼び戻した声を覚えている。

 その手を振りほどいて去ることを、守ることだとは思えなかった。



 胸元の銀のクロスが、炎を映した。

 あの日、彼女を安心させたくて、契約と呼んだ約束。


 今は、その言葉だけでは足りなかった。


 レミが大切だった。

 誰にも代えられない。

 この手を失いたくない。


 彼女と生きていけるのなら、そうしたいと、初めて自分のために願っていた。



「……俺が、お前を護るから」



 口にして、強く歯を食いしばった。

 守ると誓った手で斬った。その事実を忘れて、同じ言葉へ縋ることだけはできなかった。


 この身体に何があるのか。何が自分を呑み込み、彼女へ刃を向けさせたのか。

 怖いからと、もう目を逸らしてはいられない。


「……お前に、こんな思いさせるために出逢ったんじゃねぇだろ……」


 自分が苦しむ時だけ、救ってもらうのは嫌だった。

 彼女が怯えるものへ、自分が立ちはだかりたい。自分の中にある脅威からさえ、彼女を守れるようになりたかった。


 癒す力はない。

 忌み嫌ってきた破壊の力しか、この身にはない。


 それでも、その力で彼女へ降りかかる恐怖を砕けるなら。彼女が安心して眠り、目覚めれば笑っていられる場所を守れるなら。


 ただ呪うだけでは、終わらせたくなかった。



「俺が……お前を護るから。……本当の意味で……」



 カインは小さな手を包み直した。強く握りたいのを堪え、傷口へ触れないよう、指の置き方を変える。



 離したくない。


 その願いを、もう契約の陰へ隠さなかった。



 眠る彼女を見つめ、自分の生涯を懸けて、静かに誓った。



 ――俺が、お前を護り抜く『刃』になる



 

夕方ごろ続きを更新します。

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