63. おかえりなさい
俺はお前が思うほど、大層な人間なんかじゃない。
研究所の密室から連れ出したことは、お前にとっては人生を揺るがす大事件だったのだろう。
だからお前はいつだって、俺のすること成すことすべてに無邪気に感動していた。もしかしたら俺のことを、正義のヒーローか何かと勘違いしていたのかもしれない。
でも、違うんだ。
俺はお前を救うことで。
暗闇で独り震えていたお前を救い出すことで、証明したかっただけなんだ。
一人泣いていた幼い俺は、もうどこにもいないのだと。
***
雨粒が肌を打つ感触も、全身を苛んでいた激痛も、遠ざかっていく。
レミは、カインを抱きしめる手に、最後の力を込めようとした。
伝えたい言葉は、まだ胸の中にあった。けれど、指はもう動かなかった。
視界が滲んで意識が闇へ沈み、身体が地面へ倒れかかった、その瞬間だった。
震える腕が、彼女を受け止めた。
カインの腕だった。
真紅の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
濡れた髪から雨を滴らせながら、カインは腕の中の少女を見つめていた。
「レ……ミ……?」
その声には、先ほどまでの狂気がなかった。
自分の腕の中にいる彼女を、ようやく認識した者の、怯えた声だった。
フェイが息を呑む。
「俺は……何を……?」
泥の中に蹲っていたリシェイが、弾かれたように顔を上げた。
「カイン……カインだよね!?」
瞳はまだ赤い。それでも、そこに浮かんでいるのは、彼女たちが知るカインの戸惑いだった。
「戻ったのか……?」
フェイの声が、雨音の向こうから聞こえる。
カインは答えられなかった。
腕の中のレミが、あまりにも軽い。
あまりにも冷たい。
自分がこの手で傷つけた身体を、今さら抱きしめている。その事実が、遅れて胸の奥へ突き刺さってきた。
その時だった。
「この化け物!!」
出て行け。
近寄るな。
化け物め。
浴びせられる罵声に、カインの身体が強張る。
カインの動きが止まった隙を見逃さず、村人が物陰から石を投げつけてくる。
近寄るな、出て行け化け物、と口々に吐き捨てられる罵詈雑言。もうカインにとっては見慣れた光景だった。
――昔、孤児院で追いつめられたあの時と、何も変わっていない。
怯え、排除しようとする人々に取り囲まれる絶望。
けれど、あの時とは違う。
今の自分の腕の中には、逃げずに残ってくれた温もりがある。自分を恐ろしいものとして見ながらも、それでも手を離さなかった少女がいる。
「や、めろ……! レミがっ……いる……!!」
カインは、思うように動かない身体でレミを庇った。
石がカインのこめかみを掠め、血が流れる。
さらに飛んできた一つが、レミの腕に当たった。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「テメェらぁぁぁぁッッ!!」
カインは真紅の瞳で村人たちを烈火のごとく睨みつけた。その圧倒的な殺気に恐れをなし、村人たちは悲鳴を上げて後ずさる。
カインは気を失った彼女を横抱きに抱え直すと、よろめきながら立ち上がり、すぐ脇にあった浅い崖に向かって躊躇なく飛び降りた。
「カイン、レミ!」
フェイが崖縁へ駆け寄るが、浅いと言えども常人が無事に下りられる高さではなかった。二人の姿も宵の中で、もう見えない。
拳を握り締め、フェイは闇の中へ消えていく二人を見つめるしかなかった。
***
斜面を滑り、張り出した木々で勢いを殺しながら、カインは崖下へ降り立った。
「はあっ、はあっ……」
雨音だけが、暗闇の中で激しく響いている。
頭の中で叫び続けていた声は、いつの間にか消えていた。けれど、身体はまだあの衝動を覚えている。
心臓は激しく脈打ち、呼吸は乱れ、思考だけが取り残されたように白くなっていた。
右肩に激痛が走ると腕の力が緩み、抱えていた身体が滑り落ちかけた。
「……う……っ……」
カインは慌てて抱き留め、泥の中へ膝をついた。
「レミ!」
僅かに開いた青い瞳は、焦点を結んでいなかった。
泥に汚れた肌には打撲の痕が浮かび、胸元からは赤い血が滲み続けている。
自分の剣でつけた傷だった。
覚えている。
彼女を殴り飛ばした。
容赦なく蹴りつけた。
そして、守ると誓った彼女を、この手で斬った。
記憶が、逃げ場のない現実となって押し寄せてくる。
「うっ……あああああッ……!」
喉の奥から、声にならない叫びが漏れた。
涙が溢れ、カインは泥の中へ蹲る。
また、同じことをした。
守りたかった人を、自分の弱さで傷つけた。
あれほど恐れていた自分自身に、結局は飲み込まれてしまった。
「……カ……イン……?」
か細い声が、雨音の中から届くとカインは弾かれたように顔を上げた。
レミは動かない身体で、ゆっくりとこちらを見ている。その瞳に浮かぶ光は弱く、今にも消えてしまいそうだった。
「俺は……お前に……っ!」
言葉が続かない。
謝っても、許しを乞うても、彼女の傷は消えない。
いっそ殺してほしいと思った。こんな手で生き続けるくらいなら、彼女に裁かれた方がましだった。
けれど、レミの口からこぼれたのは、カインが予想もしなかった言葉だった。
「……大丈……夫? ……良かった……」
カインは、意味を理解できずに目を見開いた。
「何言ってるんだよ! なんで、あんな無茶したんだ!」
逃げればよかった。
悲鳴を上げて、恐怖して、見放してくれればよかった。そうすれば、こんな傷を負わずに済んだのに。
自分のような化け物を、命を懸けて止めようとする必要などなかった。
「あれが……あなたの恐れていた……『正体』なのね」
レミの声は弱々しかった。それでも、その言葉には恐れよりも、確かめようとする静かな強さがあった。
「……そうだ」
カインは俯いた。
「……もう、嫌なんだよ……!」
自分が怖い。
いつかまた、誰かを傷つける。
大切に思うほど、失うことが怖くなる。
怖くなるほど、自分の中の何かに呑まれていく。
そんな自分を、もう誰にも見られたくなかった。
レミは、僅かに首を横へ振った。
「でも、あなたは……ちゃんと戻ってきてくれた」
彼女が、震える手を差し出す。
カインは、その手を見つめた。
触れたい。
けれど、触れてはいけない。
自分の手は、彼女を傷つけた。血に濡れ、罪にまみれている。そんな手で、彼女の温もりを求める資格などない。
カインが動けずにいると、レミは静かに言葉を続けた。
「ずっと怖かったんでしょう……? でも、大丈夫。みんな、あなたが大切だから……きっと分かってくれる……」
レミは、かつて自分が閉じ込められていた冷たい部屋を思い出していた。誰にも助けを求められず、誰にも触れられず、ただ孤独に耐えていた日々。だからこそ、カインの沈黙の奥にある恐怖が分かった。
「軽蔑なんてしないよ……」
その言葉に、カインの呼吸が止まる。
「孤独の怖さも……心の痛みも知っているあなたは……優しい人だと思うから……」
――優しい。
その言葉は、今の自分にはあまりにも遠かった。
自分は彼女を傷つけた。
守るどころか、殺しかけた。
それでもレミは、そんな自分の中に、まだ『カイン』を見ている。
カインの涙が、堰を切ったように溢れた。
これまで胸の奥へ押し込めてきた恐怖も、怒りも、悔しさも、孤独も、すべてが崩れていく。誰にも見せまいとして固めていた心が、彼女の声に触れた瞬間、初めて力を抜いた。
震える手を、恐る恐る伸ばす。
触れてもいいのか。
また傷つけてしまわないか。
迷いながら、それでもカインはレミの手を握った。
小さな手の温もりが、指先から伝わってくる。
真紅の瞳から、熱がゆっくりと失われていく。
一滴の涙が、雨と共にレミの頬へ落ちた。
ゆっくりと閉じた真紅の双眸は、次にその瞼が開かれた時、いつもの澄んだ緑色へと戻っていた。
「おかえりなさい……」
ただ静かに、優しく告げられたレミの一言に、胸が締め付けられた。
カインの胸の中で、これまで生きてきて一度も感じたことのない温かな感情が揺らめいていた。
こんな風に子供のように泣くなんて情けないと思う。けれど止めることなど出来なかった。
ずっと望み続けていたものが、今、目の前にある。
カインが泣きながら微笑むと、レミも力なく微笑み返した。
手を握ったまま、華奢な身体を胸へ引き寄せる。
壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。
――降りしきる雨が、彼女を打たないように。
自分はどれだけ濡れてもいい。
どれほど激しい傷を負ってもいい。
けれど彼女だけは、もう小さな雨粒ひとつ分すら傷つけたくない。
――この腕の中にいる存在こそが、自分にとって世界で一番大切な人だから。
その想いを自覚した瞬間、胸の奥が熱くなった。
仲間や友人に向けるものとは違う。
守りたいだけではない。
失いたくない。
そばにいてほしい。
自分の弱さも、醜さも、すべて知ったうえで、それでも手を離さないでほしい。
もっと深く、かけがえのない想い――
レミが、握られていた手を静かに握り返した。その確かな感触に、カインは瞼を開く。
自分を映す青い瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。晴れ渡る空のように澄んだ、息を呑むほど美しい青。
その瞳を見つめながら、カインは初めて思った。
この先も、彼女の隣にいたい。
彼女が自分を必要としてくれる限り、自分もまた、彼女の手を求めていたい。
レミが、静かに口を開く。
「忘れないでね……」
それは、二人で交わした小さな約束だった。
「……あなたの側に……いる。……カインが私の手を必要としてくれるなら……」
カインは、握った手にそっと力を返した。
――私はいつだって、あなたの側にいるよ――




