62. だって、あなただもの
カインは再び、拳を高く振り上げた。
雨に濡れた腕から赤い雫が滴り、レミの頬へ落ちた。次に振り下ろされれば、もう耐えられないかもしれない。それでも、見上げる彼女の眼差しに怯えはなかった。
目の前にいるのは、自分を傷つけようとしている人だった。
そして、あの暗い研究所から連れ出し、初めて外の世界を見せてくれた人でもあった。
出会ったあの日、真紅の瞳を見た自分に、カインは「怖かったか」と尋ねた。レミは心から、怖くないと答えた。恐ろしい場所から助け出してくれた彼を、怖がる理由などなかったからだ。
その力が大切なものを守るために振るわれるなら、きっと誰かを救える。ライフェン博士とは違う、優しい人が使う力なのだから。
何も知らずに、そう信じていた。
船の上で交わした言葉が、雨音の向こうから蘇る。
――本当の姿を見ても、同じ事を言えるのか。
あの時の彼は、何を恐れていたのだろう。
力を振るう姿を見られることではなかったのかもしれない。守りたい相手まで傷つけ、止めようとしても自分では止められなくなる。その果てに、差し伸べてくれた手も、そばにいてくれた人も、すべて失ってしまうことを恐れていたのか。
怖くないと言った自分の言葉を、彼はどんな思いで聞いていたのだろう。
「……今なら……分かるよ……」
息をするだけで身体が痛んだ。濡れた服は重く、腕を持ち上げようとしても、思うように動かない。それでもレミは身を起こし、振り上げられた拳へ両手を伸ばした。
触れた瞬間、カインの腕が強張った。
血に濡れた拳を、小さな掌で包む。握り締められた指は硬く、そこにどれほどの力が込められているのか、触れただけで分かった。
けれど、振り下ろされなかった。
レミはその手を離さず、少しずつ自分の方へ引き寄せた。抵抗するように腕が震え、真紅の瞳が彼女を捉える。
怒っているようにも、何かを訴えているようにも見えた。
「……ずっと、怖かったんだね……」
雨が二人の間を流れ、拳にこびりついた血を薄めていく。赤い雫は指先を伝い、泥へ落ちて消えた。
手についた血が流れても、傷つけた事実まで消えるわけではない。彼が背負ってきた痛みも、これから目を覚ました時に知る苦しみも、この雨だけでは洗い流せないのだろう。
それでも、この手が誰かを助けてきたことまで、消えてしまうわけではなかった。
暗い部屋で差し伸べられた手も、知らない街で自分を導いてくれた手も、今、触れているこの手だった。
レミは膝を寄せ、カインの身体へ腕を回した。
大きな身体は、雨の中でひどく冷えていた。いつも自分を支えてくれた肩へ頬を寄せると、張り詰めた筋肉が僅かに動く。
「大丈夫……ここにいるよ。あなたの側にいる……」
カインの腕が、行き場を失ったように止まった。
「……あなたはもう、独りじゃない……」
何度も拒まれたのだろう。
あの瞳を見られるたび、近づいてきた人が怯え、離れていったのかもしれない。だからこそ、傷つける前に遠ざけようとして、不器用な言葉で自分の心まで隠してきた。
そのすべてを知ることはできなくても、寂しさには覚えがあった。
誰にも触れられず、誰にも声が届かない場所で、自分だけが世界から切り離されているような心細さを、レミは知っていた。
カインもまた、あの大きな家で仲間に囲まれながら、誰にも見せられない場所へ独りで戻っていたのだとしたら。
せめて今は、そこに置き去りにしたくなかった。
「……変わらないよ……」
耳元へ囁き、少しだけ身体を離した。
顔を見て伝えたかった。
雨に濡れた彼の頬へ手を添え、レミは冷え切った唇に微笑みを浮かべた。
「……怖くないよ。……だって、あなただもの……」
真紅の双眸が、大きく見開かれた。
出会った時と同じ言葉だった。
けれど今は、助けてくれた優しい姿だけを見て言っているのではない。傷つけられ、血に濡れた拳を見つめた、そのうえで伝えたかった。
「あなたは……優しくて、強くて……時々、ちょっとひねくれてて……言葉が悪くなっちゃう人……」
頬へ添えた手に、カインの視線が落ちた。
「仲間思いで……皆に心配をかけないようにって、いつも一人で痛みを抱え込んじゃう人……」
声が掠れ、レミは浅く息を継いだ。雨音に紛れてしまわないよう、もう一度近づくと、彼の胸から激しい鼓動が伝わってきた。
「寂しがりやで……時々、誰かにいてほしいって……そんな目をするの……」
その瞳に気づいたのは、いつからだっただろう。
研究所を出ても、知らない世界で自分の居場所が分からなくなることがあった。そんな時、カインはいつも少し離れた場所から見守り、こちらが顔を上げると、何でもないことのように声をかけてくれた。
自分が不安にならないように明るく振る舞い、まだ知らない楽しみを教えてくれた。
けれど、ふと笑みが消えた時、彼の目にも、自分と同じ孤独が覗くことがあった。
レミも、ずっと見ていたのだ。
「……気づいてたよ。だから私も……あなたの側に、いたかったの……」
カインの唇が僅かに開いた。何か言おうとしたのかもしれないが、聞こえたのは、喉に引っかかったような息だけだった。
レミは急かさず、その頬をそっと撫でた。
「苦しい気持ちも……誰にも見せたくなかったところも、あなたの中にあるんだね。でも……それだけで、あなたの全部がなくなったりしない……」
彼の目が、自分の頬を伝う血へ向いた。次いで、濡れた服と、身体を支える腕へ落ちる。
その視線が揺れたのを感じ、レミは離れかけた身体をもう一度抱きしめた。
「私を助けてくれたことも、一緒に笑ってくれたことも……ちゃんと、ここに残ってるよ……」
胸の奥に貰った温もりは、今も消えていなかった。目の前の姿がどれほど恐ろしくても、自分が出会ったカインは、この世界に一人しかいない。
「私……『カイン=レッドバード』という人が、大好きだから……」
背中へ回した腕に、残る力を込めた。
「どんな姿になったって……カインが大好きだよ……」
新しい生きる意味をくれた人だった。
もう一度明日を迎えたいと思わせてくれた人だった。
今度は自分が、その手を取りたかった。
誰かと繋がることを諦めないでほしい。怖くても、傷ついても、まだそばにいたいと願う者がいることを、どうか知ってほしかった。
「……だから……諦めないで……」
頭上で、カインの息が震えた。
振り上げられていた腕は、いつの間にか下りていた。握り締めた拳が緩み、開きかけた指が、レミの背へ触れる寸前で止まる。
触れてよいのか、分からないように。
レミは彼の胸へ頬を寄せたまま、静かに言った。
「……ここに、いるよ……」
雨は降り続いていた。
濡れた髪から肩へ、頬から胸元へと流れ落ち、二人の身体を容赦なく冷やしていく。それでも触れ合った場所には、互いの温もりが残っていた。
フェイは構えていた銃を、ゆっくりと下ろした。隣ではリシェイが溢れる涙を拭うこともできずに二人を見つめていた。
止めなければならない。
その一心で向き合っていた自分たちには、聞こえていなかったのかもしれない。
カインもまた、失うことを恐れていた。自分の手で壊してしまうものに怯えながら、誰にも触れられない場所で抗っていた。
レミは今、その彼へ呼びかけている。
ここにいる。
あなたを、独りにはしないと。
カインの開いた手が、ようやくレミの背へ触れた。雨音の中へ確かめるように指が沈み、そこに彼女がいることを知るように、濡れた服を弱く掴んだ。
レミは何も言わず、抱きしめる腕に力を込めた。
どうか雨が上がった後も、この温もりを覚えていてくれるように。
独りで立ち尽くす夜に、もう戻らなくてすむように。
冷たい雨の中で、レミはただ、その人を抱きしめていた。




