61. 傷だらけのあなたへ
『名前だよ。俺はカイン。カイン=レッドバード。あんたは?』
冷たい檻へ突然現れた彼を、レミは差し込む光だと思っていた。
けれど、今なら分かる。彼は痛みのない明るい世界から、自分を迎えに来たのではなかった。同じように暗い場所を歩き、傷つきながら、それでも手を差し伸べてくれたのだ。
(光じゃなかった。あなたは暗い宵闇から、私を導いてくれた。穏やかで優しい『闇』があったことを……絶対に忘れない)
***
血と泥に濡れた手が、カインの足首を掴んだ。
「……行っては、駄目……お願い……私の言葉を、聞いて……!」
胸を斬られたレミが、身体を引きずってしがみついていた。
フェイの額を汗が伝った。急所を外れていても、傷は深い。出血は止まらず、動くたびに白い服の赤が広がっていく。今すぐ手当てをしなければ、その命まで失われる。
「レミ、もういい! 離れろ!!」
レミは首を振った。カインを見上げた瞳から、涙が落ちる。
これは、彼が望んだことではない。
誰より人の温もりを求めていた彼が、仲間も自分も滅ぼしたいはずがない。今もどこかで、こんなことはしたくないと叫んでいるのではないか。
「あなたは私を……あの苦しみから、救ってくれた……。私にも、少しでも……何か、できるかな……」
カインの顔が歪んだ。
空いていた足が持ち上がり、レミの頭を踏みつける。
顔が泥へ押しつけられ、息が潰れた。痛みで視界が暗く揺れても、指だけは足首を掴み続けていた。
研究所で何度も味わった痛みだ。今は耐えられる。この手を離せば、彼はまた誰かを傷つけ、もっと帰れない場所へ行ってしまう。
「諦めない……絶対に、離さない……!」
仲間も、カイン自身も、これ以上傷つけさせたくなかった。
足が退いた隙に顔を上げ、泥水を吐きながら言葉を繋ぐ。
「いつも、不思議だった……。時々、すごく寂しそうな顔を、するから……」
初めは、何でも持っている人に見えた。
自分も他人も守れる強さ。
誰かへ手を伸ばせる優しさ。
家族のような仲間と、帰る場所。
だが、傍にいるほど気づくことが増えた。その力に彼自身が苦しんでいることも、優しい言葉の奥に、深い諦めが隠れていることも。
「真紅の瞳を見せて……傷だらけになりながら、私を助けてくれた……」
カインは邪魔者を見る目で、彼女を睨み下ろしていた。
レミはその真紅を見返した。怯えているはずの彼を、見失いたくなかった。
「私の命で……あなたが満たされるなら、それでもいい。でも……本当に望んでいるのは、こんなことじゃないよね……?」
腕を掴まれ、身体が仰向けに転がされた。跨がったカインの影が、雨空を遮る。
「お願い……もう、自分を傷つけないで……!」
両手が首へかかった。
喉が塞がり、胸の傷が引き攣れる。空気を求めて唇を開いても、声は出なかった。彼の腕へ縋る指から、少しずつ力が抜けていく。
まだ、意識を手放せない。
せめて、彼の心を取り戻すまでは。
ふと、首を締める指が震えた。
僅かに力が緩み、レミは咳き込みながら息を吸った。真紅の瞳は変わらない。けれど、見下ろす顔が、耐えがたい苦痛に歪んでいた。
「……だ……めだ……やめ……ろ……っ! もう……!」
「カイン……そこに、いるの……!?」
彼はいる。
この手の向こうで、飲み込まれまいと抗っている。
「ち……がう……っ! 消えろ……!」
再び力がこもった。レミは顔を歪めながらも、彼の手の震えを感じていた。
「すべて……喰らい尽くして……お前も、殺してやる……っ!」
歯を食いしばった口元が、泣き出しそうに崩れる。
「……ひ……一人に……また……独りぼっちに、なる……!!」
レミの目が、大きく開かれた。
「やめろ、カイン!!」
フェイの叫びが響いた。
「旅に出る時、何て言った!? ルディナスさんに反抗してでも、レミを守りたかったんじゃないのかよ、この馬鹿野郎!!」
カインが乱暴に手を離し、フェイを振り返る。
レミはむせ返り、泥に頬をつけたまま必死に呼吸を繋いだ。その耳へ、フェイの震える声が届く。
「お前は……オレのことは知ってるくせに、自分のことなんて何一つ話さないで……!」
紫の瞳から、悔し涙が溢れていた。
フェイが時折、仕事を抜けて街を空ける理由。それが遊びだけではないことを、カインに知られたことがあった。
冷やかされると思った。何を言われてもいいように、返す言葉まで用意していた。
だが、彼は「何のことだ」と知らぬふりをして、誰にも話さなかった。その後も、何も変わらず隣で笑ってくれた。
――信じられる相手なのだと思った。
自分もまた、何かあれば力になれるはずだと、そう思っていた。
「何で、何も言わないんだよ……! ここまで一人で抱え込んで、こんなの見せられて……どうしろっていうんだ!」
早く知っていれば、違う手立てがあったかもしれない。止められなくても、せめて一緒に悩むことくらいできたはずだった。
今は、親友からレミを救うために、その親友へ銃を向けている。
「何なんだよ……オレが馬鹿みたいじゃないか! お前にとって、デュロアルの皆は何だったんだよ!!」
友人だと思っていたのは、自分だけだったのか。
カインは答えなかった。血に濡れた手が泥を掴み、レミの傍らから動こうとしない。
フェイは唇を噛み、銃を握り直した。
ウィリスほどの腕があれば、殺さずに止められたかもしれない。だが、自分にはできなかった。手足を狙って外せばレミへ当たる。次に首へ手をかけられた時、彼女が生き延びられる保証もない。
確実に止めるためには、急所を撃つしかなかった。
「やめ……て……フェイ……」
雨音に消えそうな声へ、視線を向ける。
レミの身体には痣が浮かび、胸からは血が流れ続けていた。見ているだけで、医師として駆け寄りたくなる。その彼女へ近づくために、友人を撃たなければならない。
「仕方ないんだ……! これが、コイツのためなんだよ!」
レミを殺した後で、カインが正気に戻ったら。
守りたいと願った彼女を、自分の手で殺したと知ったら。その時こそ、心まで壊れてしまう。
いずれ誰かに討たれるくらいなら、自分が止める。そう言い聞かせなければ、狙いを定めていられなかった。
レミは首を横に振った。
カインの叫びも、フェイの涙も、届いていた。互いを想う心が確かにあるのに、その果てにどちらかが死ななければならないなど、どうしても受け入れられなかった。
「駄目……そんなの、違うよ……」
痛む胸を庇い、声を絞る。
「カインは……カインだよ。こんなに苦しい彼が、いたから……痛みを知っているから……いつもの彼は、あんなに優しいんだと、思う……」
フェイの口元が歪んだ。
レミはカインを見上げた。彼は人を信じたくて、何度も傷ついてきたのだろう。知られたら失うと思うから、大切な相手にほど、言えなくなるのだろう。
その怖さを、レミも知っていた。
「何でも打ち明けるのも……信頼だと思う。でも……そう思えない人も、いるんだよ……」
喉が痛み、言葉が途切れた。浅く息を吸い直し、それでも続きを手放さなかった。
「大切だからこそ、臆病になって……嫌われたくなくて……一番言いたい言葉が、消えてしまう……」
仲間をどうでもいいと思っていたのではない。
失いたくなかったのだ。
レミは震える手を伸ばした。
押し返されるかもしれない。それでも、自分を見失いそうな彼へ、ここにいると伝えたかった。
冷たい部屋で、誰かの声を待っていた夜を思い出す。
呼んでも来ないと分かってしまえば、名前を口にすることさえ怖くなった。期待しなければ、願わなければ、傷つかずに済むと思おうとした。
けれど本当は、誰かにそばへ来てほしかった。
「ひとりぼっちは……怖いよ……」
カインの真紅の双眸が、大きく見開かれた。
夕方か夜に続き更新します




