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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第五章 真紅の深淵
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61. 傷だらけのあなたへ


『名前だよ。俺はカイン。カイン=レッドバード。あんたは?』



 冷たい檻へ突然現れた彼を、レミは差し込む光だと思っていた。



 けれど、今なら分かる。彼は痛みのない明るい世界から、自分を迎えに来たのではなかった。同じように暗い場所を歩き、傷つきながら、それでも手を差し伸べてくれたのだ。


(光じゃなかった。あなたは暗い宵闇から、私を導いてくれた。穏やかで優しい『闇』があったことを……絶対に忘れない)



***



 血と泥に濡れた手が、カインの足首を掴んだ。


「……行っては、駄目……お願い……私の言葉を、聞いて……!」



 胸を斬られたレミが、身体を引きずってしがみついていた。


 フェイの額を汗が伝った。急所を外れていても、傷は深い。出血は止まらず、動くたびに白い服の赤が広がっていく。今すぐ手当てをしなければ、その命まで失われる。


「レミ、もういい! 離れろ!!」


 レミは首を振った。カインを見上げた瞳から、涙が落ちる。


 これは、彼が望んだことではない。


 誰より人の温もりを求めていた彼が、仲間も自分も滅ぼしたいはずがない。今もどこかで、こんなことはしたくないと叫んでいるのではないか。


「あなたは私を……あの苦しみから、救ってくれた……。私にも、少しでも……何か、できるかな……」


 カインの顔が歪んだ。

 空いていた足が持ち上がり、レミの頭を踏みつける。


 顔が泥へ押しつけられ、息が潰れた。痛みで視界が暗く揺れても、指だけは足首を掴み続けていた。

 研究所で何度も味わった痛みだ。今は耐えられる。この手を離せば、彼はまた誰かを傷つけ、もっと帰れない場所へ行ってしまう。


「諦めない……絶対に、離さない……!」


 仲間も、カイン自身も、これ以上傷つけさせたくなかった。


 足が退いた隙に顔を上げ、泥水を吐きながら言葉を繋ぐ。


「いつも、不思議だった……。時々、すごく寂しそうな顔を、するから……」



 初めは、何でも持っている人に見えた。


 自分も他人も守れる強さ。

 誰かへ手を伸ばせる優しさ。

 家族のような仲間と、帰る場所。


 だが、傍にいるほど気づくことが増えた。その力に彼自身が苦しんでいることも、優しい言葉の奥に、深い諦めが隠れていることも。


「真紅の瞳を見せて……傷だらけになりながら、私を助けてくれた……」


 カインは邪魔者を見る目で、彼女を睨み下ろしていた。


 レミはその真紅を見返した。怯えているはずの彼を、見失いたくなかった。


「私の命で……あなたが満たされるなら、それでもいい。でも……本当に望んでいるのは、こんなことじゃないよね……?」


 腕を掴まれ、身体が仰向けに転がされた。跨がったカインの影が、雨空を遮る。


「お願い……もう、自分を傷つけないで……!」


 両手が首へかかった。


 喉が塞がり、胸の傷が引き攣れる。空気を求めて唇を開いても、声は出なかった。彼の腕へ縋る指から、少しずつ力が抜けていく。


 まだ、意識を手放せない。

 せめて、彼の心を取り戻すまでは。



 ふと、首を締める指が震えた。


 僅かに力が緩み、レミは咳き込みながら息を吸った。真紅の瞳は変わらない。けれど、見下ろす顔が、耐えがたい苦痛に歪んでいた。


「……だ……めだ……やめ……ろ……っ! もう……!」

「カイン……そこに、いるの……!?」


 彼はいる。


 この手の向こうで、飲み込まれまいと抗っている。


「ち……がう……っ! 消えろ……!」


 再び力がこもった。レミは顔を歪めながらも、彼の手の震えを感じていた。


「すべて……喰らい尽くして……お前も、殺してやる……っ!」


 歯を食いしばった口元が、泣き出しそうに崩れる。



「……ひ……一人に……また……独りぼっちに、なる……!!」



 レミの目が、大きく開かれた。



「やめろ、カイン!!」


 フェイの叫びが響いた。


「旅に出る時、何て言った!? ルディナスさんに反抗してでも、レミを守りたかったんじゃないのかよ、この馬鹿野郎!!」


 カインが乱暴に手を離し、フェイを振り返る。


 レミはむせ返り、泥に頬をつけたまま必死に呼吸を繋いだ。その耳へ、フェイの震える声が届く。


「お前は……オレのことは知ってるくせに、自分のことなんて何一つ話さないで……!」



 紫の瞳から、悔し涙が溢れていた。



 フェイが時折、仕事を抜けて街を空ける理由。それが遊びだけではないことを、カインに知られたことがあった。


 冷やかされると思った。何を言われてもいいように、返す言葉まで用意していた。

 だが、彼は「何のことだ」と知らぬふりをして、誰にも話さなかった。その後も、何も変わらず隣で笑ってくれた。


 ――信じられる相手なのだと思った。


 自分もまた、何かあれば力になれるはずだと、そう思っていた。


「何で、何も言わないんだよ……! ここまで一人で抱え込んで、こんなの見せられて……どうしろっていうんだ!」


 早く知っていれば、違う手立てがあったかもしれない。止められなくても、せめて一緒に悩むことくらいできたはずだった。

 今は、親友からレミを救うために、その親友へ銃を向けている。


「何なんだよ……オレが馬鹿みたいじゃないか! お前にとって、デュロアルの皆は何だったんだよ!!」


 友人だと思っていたのは、自分だけだったのか。



 カインは答えなかった。血に濡れた手が泥を掴み、レミの傍らから動こうとしない。


 フェイは唇を噛み、銃を握り直した。


 ウィリスほどの腕があれば、殺さずに止められたかもしれない。だが、自分にはできなかった。手足を狙って外せばレミへ当たる。次に首へ手をかけられた時、彼女が生き延びられる保証もない。


 確実に止めるためには、急所を撃つしかなかった。



「やめ……て……フェイ……」



 雨音に消えそうな声へ、視線を向ける。


 レミの身体には痣が浮かび、胸からは血が流れ続けていた。見ているだけで、医師として駆け寄りたくなる。その彼女へ近づくために、友人を撃たなければならない。


「仕方ないんだ……! これが、コイツのためなんだよ!」


 レミを殺した後で、カインが正気に戻ったら。

 守りたいと願った彼女を、自分の手で殺したと知ったら。その時こそ、心まで壊れてしまう。

 いずれ誰かに討たれるくらいなら、自分が止める。そう言い聞かせなければ、狙いを定めていられなかった。



 レミは首を横に振った。


 カインの叫びも、フェイの涙も、届いていた。互いを想う心が確かにあるのに、その果てにどちらかが死ななければならないなど、どうしても受け入れられなかった。


「駄目……そんなの、違うよ……」


 痛む胸を庇い、声を絞る。


「カインは……カインだよ。こんなに苦しい彼が、いたから……痛みを知っているから……いつもの彼は、あんなに優しいんだと、思う……」


 フェイの口元が歪んだ。


 レミはカインを見上げた。彼は人を信じたくて、何度も傷ついてきたのだろう。知られたら失うと思うから、大切な相手にほど、言えなくなるのだろう。


 その怖さを、レミも知っていた。


「何でも打ち明けるのも……信頼だと思う。でも……そう思えない人も、いるんだよ……」


 喉が痛み、言葉が途切れた。浅く息を吸い直し、それでも続きを手放さなかった。


「大切だからこそ、臆病になって……嫌われたくなくて……一番言いたい言葉が、消えてしまう……」


 仲間をどうでもいいと思っていたのではない。

 失いたくなかったのだ。



 レミは震える手を伸ばした。

 押し返されるかもしれない。それでも、自分を見失いそうな彼へ、ここにいると伝えたかった。



 冷たい部屋で、誰かの声を待っていた夜を思い出す。


 呼んでも来ないと分かってしまえば、名前を口にすることさえ怖くなった。期待しなければ、願わなければ、傷つかずに済むと思おうとした。


 けれど本当は、誰かにそばへ来てほしかった。



「ひとりぼっちは……怖いよ……」



 カインの真紅の双眸が、大きく見開かれた。



夕方か夜に続き更新します

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