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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第五章 真紅の深淵
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60. カインの過去―絶望

 たった一言だった。



 信じていた世界を壊すには、それだけで十分だった。


 おねえちゃんの顔を見つめたまま立ち尽くすカインへ、兵士たちが近づいた。腕を取られ、背へ捻られる。痛いと声を上げるより先に、手首へ冷たい鉄が嵌められた。


「……やだ……」


 引かれるまま足が動いた。何が起きたのか分からず、振り返る。


 誰も追ってこなかった。


 いつもなら、怖がる自分の手を握ってくれる人がいた。泣けばそばへ来て、どうしたのと尋ねてくれた。その人たちが今は、こちらを見ないように顔を背けている。


「おねえちゃん……」


 呼んでも、返事はなかった。


「歩け」


 兵士に促され、足がもつれた。転びかけたところを腕で引き上げられ、肩へ痛みが走る。


「痛い……やめて……」


 その声にも、大丈夫とは言ってもらえなかった。



 礼拝堂を横切る途中、ひとすじの光が目に入った。


 神の石像だった。


 ステンドグラスから落ちる光を浴び、いつもと同じ場所に立っている。皆で指を組み、目を閉じていた場所。今朝も、すぐそばにおねえちゃんがいることを確かめながら、祈ったばかりだった。


 シスターは言っていた。


 神様の光は、いつも皆を照らしているのだと。


(……光は……?)


 カインは顔を上げた。


(俺のことも……助けてくれるんじゃないの……?)


 石像には血が飛び散っていた。その足元へ落ちる光も、赤く濡れている。


 誰も答えない。


 祈ったのに。皆を連れていかないでほしかっただけなのに。


 見上げる石の顔が、今は自分を冷たく見下ろしているようだった。ここにいてはいけないと、皆と同じことを言っている気がした。



「う……あああああぁぁぁ!!」



 叫びが喉を突き破った。


 兵士の手が僅かに緩んだ瞬間、カインは身体を捻った。押さえる腕を振りほどき、開いた扉へ向かって走る。


「待て! 捕まえろ!」

「嫌だ! 来るな、来るなよぉぉ!」


 追う足音が怖かった。腕を掴まれ、もう二度と帰れない所へ連れていかれる気がした。



 悪い子は罰を受ける。悪い奴は殺される。



 男たちが倒れていた。シスターも動かなかった。自分を指さし、おねえちゃんは化け物だと言った。


 何が正しいのか分からない。ただ、捕まれば今度こそ殺されるのだと思った。


「助けて! 誰か、助けて!」


 道を行く人へ叫んだ。


「怖いよぉ……! お願い、助けてぇっ!」


 血まみれの子供を見て、人々が身を引く。伸ばした手を取ってくれる者はいなかった。


 カインは泣きながら走り続けた。



 ただ、守りたかっただけだった。

 皆を連れていく男たちを止めて、おねえちゃんに戻ってきてもらって、また一緒に暮らしたかった。


 そのために何をしたのか、自分でも覚えていない。

 なのに、もう、帰る場所がなかった。



 ***



 森の奥へ逃げ込んでからも、カインは何度も背後を振り返った。


 木々の間に人影が見える気がして、枝の鳴る音にも肩が跳ねた。息が苦しく、頭も痛い。足を止めると、そのまま倒れてしまいそうだった。


 手首の鉄が、歩くたびに重く鳴る。


「……取れてよ……」


 引っ張っても外れなかった。手を抜こうと捻ると、皮膚が擦れて痛みが走る。


「取れてよぉ……!」


 岩へ叩きつけた。

 硬い音が森へ響き、手首まで痺れた。それでも、もう一度振り下ろす。何度も、何度も。

 こんなものをつけていたら、すぐに見つかってしまう。捕まって、今度こそ殺される。


 死にたくなかった。


 あの男たちのために。自分を指さした人たちのために。どうして、自分が死ななければならないのだろう。

 泣き声が、歯を食いしばる息へ変わった。擦り切れた手から血が流れても、腕を止められなかった。


 やがて鉄が歪み、手枷の鎖が岩の上へ落ちた。

 カインはそれを見つめたまま、座り込んだ。


 取れた。

 これで逃げられる。


 けれど、どこへ行けばよいのだろう。


 戻る家も、待っている人もいなかった。呼びたい名前だけが胸に残り、それを口にすれば、最後に向けられた目まで思い出した。


 カインは傷ついた手を抱え、木の根元へ小さく身体を丸めた。



 ***



 それからは、スラムや裏通りを転々とした。


 真紅の瞳は、長い間元へ戻らなかった。水たまりを覗くたびに、その異様な色が自分を見返してくる。人の多い通りへ出れば目立ち、顔を上げれば追い払われた。


 金も、稼ぎ方も知らない。


 食べられそうなものを探し、捨てられた残飯を拾った。頭と手の傷はろくな手当てもできず、熱を持った。寒くてたまらないのに身体は火照り、動くことさえ苦しい日が続いた。



「……お腹、空いた……」


 店先で訴えると、主人は顔をしかめた。


「商売の邪魔だ。あっちへ行け」

「少しでいいから……」

「聞こえなかったのか!」


 怒鳴られるたび、身体が先に竦んだ。

 頭を下げても、泣いても、助けてもらえるとは限らない。そのことを、嫌というほど覚えていった。


 路地では、子供を面白半分に蹴る者もいた。初めは逃げ、腕で頭を庇っていたが、追い詰められて殴り返した時、大人の男が簡単に倒れた。



 自分は強いのだと、そこで知った。



 金も家もない。けれど、向かってくる相手を叩き伏せる力だけはあった。


 やめてと言っても止まらない手を、力なら止められた。奪われる前に殴り、囲まれる前に倒す。そうして生き延びるほど、周囲から人が消えていった。



「化け物め……」


 裏社会に身を置く者でさえ、同じ言葉を吐いた。

 弱ければ踏みにじられ、強ければ恐れられる。


 どこへ行けばよいのかは、相変わらず分からなかった。


 成長するにつれ、その強さや外見へ興味を示して近づく者もいた。甘い言葉をかけられ、今度こそはと心を許しかけたこともある。

 だが、欲しがられたのは、都合よく振るえる力や、表面に見えるものばかりだった。


 瞳が赤く染まり、制御しきれない力の片鱗が見えれば、相手の顔は変わる。知っているはずの自分が、突然、近づいてはいけないものになる。


 何度、同じ目を見ただろう。


 それでも、温かな場所を探すことだけはやめられなかった。

 声をかければ返事があり、戻れば誰かがいる。何かを与えなくても、役に立たなくても、そこにいていいと思える場所。

 そんな暮らしを、まだ欲しがっていた。


 デュロアルへ流れ着いてから、ようやく人として働き、暮らせるようになった。


 悪態を交わす仲間ができた。帰る家ができた。くだらないことで笑い、明日もまた同じように顔を合わせるのだと、少しずつ信じられるようになった。



 今度こそは。


 そう思っていたのに。



 ***



 カインは、再び剣を握り締めた。


 雨が刃を伝い、足元へ落ちていく。血は薄まっているはずなのに、視界から赤が消えなかった。


 確かなものなど、何もなかった。


 怯えて自分から離れたリシェイ。

 銃口を向け、引き金を引いたフェイ。

 また、同じだった。


 その思いに呑まれながら、心の奥のどこかでは知っていた。自分が蹴った。自分が殴った。自分が、あの顔をさせた。


 そして、レミを斬った。


 守ろうとしてきた手で。何度も彼女の前へ構えた、この剣で。


 もう、何も。


 信じたいと言う資格さえ、残っていなかった。


 フェイが何か叫んでいる。銃口がこちらへ向いている。避けなければ、倒さなければと、身体の奥で何かが急き立てた。


 カインは足を踏み出そうとした。




「……カイ……ン……」



 雨音の中へ、細い声が混じった。


 聞き間違いかと思った。こんな場所で、自分の名を呼ぶ声など、もう聞こえるはずがなかった。


 だが、もう一度進もうとしても、足が動かなかった。

 裾を引く重みがある。


 ゆっくり見下ろすと、白い手があった。



 血と泥に塗れ、震える指先が、カインの足首へしがみついていた。



続きはお昼ごろに更新予定です

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