60. カインの過去―絶望
たった一言だった。
信じていた世界を壊すには、それだけで十分だった。
おねえちゃんの顔を見つめたまま立ち尽くすカインへ、兵士たちが近づいた。腕を取られ、背へ捻られる。痛いと声を上げるより先に、手首へ冷たい鉄が嵌められた。
「……やだ……」
引かれるまま足が動いた。何が起きたのか分からず、振り返る。
誰も追ってこなかった。
いつもなら、怖がる自分の手を握ってくれる人がいた。泣けばそばへ来て、どうしたのと尋ねてくれた。その人たちが今は、こちらを見ないように顔を背けている。
「おねえちゃん……」
呼んでも、返事はなかった。
「歩け」
兵士に促され、足がもつれた。転びかけたところを腕で引き上げられ、肩へ痛みが走る。
「痛い……やめて……」
その声にも、大丈夫とは言ってもらえなかった。
礼拝堂を横切る途中、ひとすじの光が目に入った。
神の石像だった。
ステンドグラスから落ちる光を浴び、いつもと同じ場所に立っている。皆で指を組み、目を閉じていた場所。今朝も、すぐそばにおねえちゃんがいることを確かめながら、祈ったばかりだった。
シスターは言っていた。
神様の光は、いつも皆を照らしているのだと。
(……光は……?)
カインは顔を上げた。
(俺のことも……助けてくれるんじゃないの……?)
石像には血が飛び散っていた。その足元へ落ちる光も、赤く濡れている。
誰も答えない。
祈ったのに。皆を連れていかないでほしかっただけなのに。
見上げる石の顔が、今は自分を冷たく見下ろしているようだった。ここにいてはいけないと、皆と同じことを言っている気がした。
「う……あああああぁぁぁ!!」
叫びが喉を突き破った。
兵士の手が僅かに緩んだ瞬間、カインは身体を捻った。押さえる腕を振りほどき、開いた扉へ向かって走る。
「待て! 捕まえろ!」
「嫌だ! 来るな、来るなよぉぉ!」
追う足音が怖かった。腕を掴まれ、もう二度と帰れない所へ連れていかれる気がした。
悪い子は罰を受ける。悪い奴は殺される。
男たちが倒れていた。シスターも動かなかった。自分を指さし、おねえちゃんは化け物だと言った。
何が正しいのか分からない。ただ、捕まれば今度こそ殺されるのだと思った。
「助けて! 誰か、助けて!」
道を行く人へ叫んだ。
「怖いよぉ……! お願い、助けてぇっ!」
血まみれの子供を見て、人々が身を引く。伸ばした手を取ってくれる者はいなかった。
カインは泣きながら走り続けた。
ただ、守りたかっただけだった。
皆を連れていく男たちを止めて、おねえちゃんに戻ってきてもらって、また一緒に暮らしたかった。
そのために何をしたのか、自分でも覚えていない。
なのに、もう、帰る場所がなかった。
***
森の奥へ逃げ込んでからも、カインは何度も背後を振り返った。
木々の間に人影が見える気がして、枝の鳴る音にも肩が跳ねた。息が苦しく、頭も痛い。足を止めると、そのまま倒れてしまいそうだった。
手首の鉄が、歩くたびに重く鳴る。
「……取れてよ……」
引っ張っても外れなかった。手を抜こうと捻ると、皮膚が擦れて痛みが走る。
「取れてよぉ……!」
岩へ叩きつけた。
硬い音が森へ響き、手首まで痺れた。それでも、もう一度振り下ろす。何度も、何度も。
こんなものをつけていたら、すぐに見つかってしまう。捕まって、今度こそ殺される。
死にたくなかった。
あの男たちのために。自分を指さした人たちのために。どうして、自分が死ななければならないのだろう。
泣き声が、歯を食いしばる息へ変わった。擦り切れた手から血が流れても、腕を止められなかった。
やがて鉄が歪み、手枷の鎖が岩の上へ落ちた。
カインはそれを見つめたまま、座り込んだ。
取れた。
これで逃げられる。
けれど、どこへ行けばよいのだろう。
戻る家も、待っている人もいなかった。呼びたい名前だけが胸に残り、それを口にすれば、最後に向けられた目まで思い出した。
カインは傷ついた手を抱え、木の根元へ小さく身体を丸めた。
***
それからは、スラムや裏通りを転々とした。
真紅の瞳は、長い間元へ戻らなかった。水たまりを覗くたびに、その異様な色が自分を見返してくる。人の多い通りへ出れば目立ち、顔を上げれば追い払われた。
金も、稼ぎ方も知らない。
食べられそうなものを探し、捨てられた残飯を拾った。頭と手の傷はろくな手当てもできず、熱を持った。寒くてたまらないのに身体は火照り、動くことさえ苦しい日が続いた。
「……お腹、空いた……」
店先で訴えると、主人は顔をしかめた。
「商売の邪魔だ。あっちへ行け」
「少しでいいから……」
「聞こえなかったのか!」
怒鳴られるたび、身体が先に竦んだ。
頭を下げても、泣いても、助けてもらえるとは限らない。そのことを、嫌というほど覚えていった。
路地では、子供を面白半分に蹴る者もいた。初めは逃げ、腕で頭を庇っていたが、追い詰められて殴り返した時、大人の男が簡単に倒れた。
自分は強いのだと、そこで知った。
金も家もない。けれど、向かってくる相手を叩き伏せる力だけはあった。
やめてと言っても止まらない手を、力なら止められた。奪われる前に殴り、囲まれる前に倒す。そうして生き延びるほど、周囲から人が消えていった。
「化け物め……」
裏社会に身を置く者でさえ、同じ言葉を吐いた。
弱ければ踏みにじられ、強ければ恐れられる。
どこへ行けばよいのかは、相変わらず分からなかった。
成長するにつれ、その強さや外見へ興味を示して近づく者もいた。甘い言葉をかけられ、今度こそはと心を許しかけたこともある。
だが、欲しがられたのは、都合よく振るえる力や、表面に見えるものばかりだった。
瞳が赤く染まり、制御しきれない力の片鱗が見えれば、相手の顔は変わる。知っているはずの自分が、突然、近づいてはいけないものになる。
何度、同じ目を見ただろう。
それでも、温かな場所を探すことだけはやめられなかった。
声をかければ返事があり、戻れば誰かがいる。何かを与えなくても、役に立たなくても、そこにいていいと思える場所。
そんな暮らしを、まだ欲しがっていた。
デュロアルへ流れ着いてから、ようやく人として働き、暮らせるようになった。
悪態を交わす仲間ができた。帰る家ができた。くだらないことで笑い、明日もまた同じように顔を合わせるのだと、少しずつ信じられるようになった。
今度こそは。
そう思っていたのに。
***
カインは、再び剣を握り締めた。
雨が刃を伝い、足元へ落ちていく。血は薄まっているはずなのに、視界から赤が消えなかった。
確かなものなど、何もなかった。
怯えて自分から離れたリシェイ。
銃口を向け、引き金を引いたフェイ。
また、同じだった。
その思いに呑まれながら、心の奥のどこかでは知っていた。自分が蹴った。自分が殴った。自分が、あの顔をさせた。
そして、レミを斬った。
守ろうとしてきた手で。何度も彼女の前へ構えた、この剣で。
もう、何も。
信じたいと言う資格さえ、残っていなかった。
フェイが何か叫んでいる。銃口がこちらへ向いている。避けなければ、倒さなければと、身体の奥で何かが急き立てた。
カインは足を踏み出そうとした。
「……カイ……ン……」
雨音の中へ、細い声が混じった。
聞き間違いかと思った。こんな場所で、自分の名を呼ぶ声など、もう聞こえるはずがなかった。
だが、もう一度進もうとしても、足が動かなかった。
裾を引く重みがある。
ゆっくり見下ろすと、白い手があった。
血と泥に塗れ、震える指先が、カインの足首へしがみついていた。
続きはお昼ごろに更新予定です




