59. カインの過去―狂気
あの日、古ぼけた教会は静まり返っていた。
破られた扉から秋風が吹き込み、外れかけた木戸を軋ませている。礼拝堂の通路には、大の男が五人、折り重なるように倒れていた。
その下から広がる血が、ステンドグラスの光を呑み込んでいく。
真ん中に、カインが立っていた。
安物の白い服は赤く染まり、両手から雫が落ちていた。つい先ほどまで泣いていた小さな背中が、微かに震えている。
シスターも子供たちも、動けなかった。
何が起きたのか、目で追うことさえできなかった。大人たちが倒れ、怒鳴り声が途絶え、代わりに、血まみれのカインだけが残ったのだ。
「……カイン?」
おねえちゃんが呼んだ。
いつもなら、すぐに振り向く。名前を呼ぶだけで顔を上げ、そばへ来て、服の裾を掴む子だった。
だから返事がないことが怖くて、それでも一人で立たせておけなくて、彼女はもう一度口を開いた。
「カイン……どうしたの……?」
少年が、ゆっくりと振り返った。
血に濡れた頬へ赤黒い筋が走り、見開かれた瞳が真紅に光っていた。口元が歪み、小さな喉から、くっ、くっと笑いが漏れる。
子供たちが息を呑み、後ずさった。
シスターは彼らを片手で制し、震える足を前へ出した。
「カイン……なのですか……!?」
返事を待つように覗き込む。
その顔へ、少年の笑みが向いた。
「ふっ……あっはははははは!!」
幼い笑い声だけが、血に染まった礼拝堂へ響き渡った。
***
乾いた銃声の余韻が、雨の中へ消えていった。
フェイは銃口を上げたまま、動けずにいた。濡れた髪から雫が落ち、頬を伝う。それを拭う余裕もなく、紫の瞳は、目の前の男を捉え続けていた。
銃弾は、カインの右肩を掠めていた。
裂けた服の下から血が流れ、腕を伝って指先へ落ちる。だが、カインは傷を見ようともしなかった。血に濡れた剣を握ったまま、銃口を睨み据えている。
その服には、レミの血もついていた。
「……本当にお前、何も分からないのか!?」
フェイの声が震えた。
いつものカインなら、レミが倒れた瞬間に駆け寄っている。名を呼び、傷を押さえ、早く診ろと自分を怒鳴りつけるはずだった。
なのに今は、倒れた彼女へ目を向けることさえしない。
「レミを見ろよ……お前が、何をしたか……!」
カインが一歩進んだ。
フェイも反射的に退いた。踏み込んだ靴が泥へ沈み、構えた腕に力がこもる。
見慣れた顔だった。何度も悪態を交わし、背中を預けてきた親友の顔なのに、その眼差しの中に、自分を知っている気配がなかった。
「何で……こんな……」
カインの頭の奥では、まだ何かが叫んでいた。
――殺せ。
――消せ。
――今、銃を向けているだろう。
――また、裏切られる。
――信じた者たちは、あの時と同じ目で、お前を見るのだから。
***
シスターの手が肩へ触れようとした瞬間、カインが身を捻った。
「おれに……触るなぁぁぁッッ!!」
振り払った小さな腕が、彼女の身体を弾き飛ばした。
長椅子へぶつかる音が響き、シスターはそのまま白目を剥いて動かなくなった。差し伸べていた手が床へ落ちる。
「きゃあああぁぁーーーっっ!!!」
子供たちが逃げ出した。足をもつれさせ、泣きながら椅子の陰へ潜り込む。
カインは笑っていた。
逃げるものを追うように真紅の瞳が動き、身体がそちらへ向く。おねえちゃんが小さい子を背へ庇い、壁際まで退いた。
カインが足を踏み出す。
その時、何人もの靴音が入口へ押し寄せた。
「動くな!!」
太い声が礼拝堂を打った。
カインの身体が止まると、扉の向こうから大人たちが次々に入ってきた。剣と銃を持ち、揃いの服を着ている。街の警備隊だった。
ぼやけていた景色へ輪郭が戻り、カインは何度も瞬きをした。
――そうだ。悪い男たちが来た。
シスターをいじめて、皆を連れていこうとしたから、自分は、止めようとしていた――
身体を焼いていた熱が、少しずつ引いていく。顔や腕に浮いた筋も沈み、力の入りすぎていた指が緩んだ。
(兵隊さんが来てくれた)
カインの胸へ、安堵が広がった。
これで、もう大丈夫だ。怖い男たちは倒れている。誰も連れていかれずに済んだ。眉が下がり、吊り上がった目も元の丸い瞳に戻っていく。
「兵隊さん……? おれ……」
声を出すと、喉がひりついた。
皆はどこにいるのだろう。辺りを見回し、壁際に集まった子供たちを見つけた。
おねえちゃんもいた。
よかった、と顔が緩みかけた時、『おねえちゃん』の口が開いた。
「兵隊さん! あ……あいつ!!」
あいつ、と言われてカインは辺りを振り返った。
まだ誰かいるのだろうか。けれど、後ろには倒れた男たちと、壊れた椅子しかなかった。
「そこを動くな!」
兵士が叫び、カインへ剣を向けた。
別の兵士は男たちの状態を確かめ、一人は壁際のシスターへ駆け寄っている。カインもそちらへ目をやり、息を呑んだ。
「……シスター?」
どうして、寝ているのだろう?起こしに行かなければと思って足を動かすと、兵士の剣の切っ先が近づいた。
「動くなと言っている!」
カインは竦んだ。
「でも……シスターが……」
「手を上げろ。ゆっくりだ」
厳しい声に、慌てて両手を持ち上げた。赤く濡れた指を見て、そこで初めて、自分が血まみれだと気づいた。
頭をぶつけた。痛かった。
けれど、今はなぜか、あまり痛くない。
分からないことばかりで、怖くなった。カインは助けを求め、皆の顔を見た。
「……みんな……?」
誰も返事をしなかった。
小さな女の子が泣きながら、年上の子の服へ顔を埋める。自分と同じ椅子で祈っていた少年も、目が合うと身体を引いた。
「何で……そんな顔するの……?」
大丈夫だと、誰かに言ってほしかった。
皆を連れていく男たちは、もう立っていない。兵隊さんも来てくれた。それなのに、なぜ誰も安心しないのだろう。
「こ、怖いよぉぉっ!!!」
「気持ち悪い……」
「こっちに来ないで!! あっちに行ってぇっ!」
「殺される……助けて!」
カインの手が、少し下がった。
兵士がまた何かを叫んだが、うまく聞こえなかった。今のは、自分に言ったのだろうか。
「……おれ、何も……」
しないよ、と言いかけて、言葉が途切れた。
倒れているシスター。割れた椅子。男たちの下へ広がる血。自分が何をしたのか、覚えていない。そのことが怖くて、カインは必死におねえちゃんを探した。
あの人なら、分かってくれるはずだった。
泣いたら抱き締めてくれた。何度呼んでも返事をしてくれた。ここにいていいと、そばにいると言ってくれた。皆と同じようには、言わないはずだった。
「お……おねえちゃん……」
一歩、近づいた。
その途端、少女が兵士の背へ隠れた。
カインの足が止まる。
震える指が、こちらへ向いた。
ついさっきまで頭を撫で、指の組み方を教えてくれた手だった。
「兵隊さんっ……早く、アレ……!!」
アレ。
知らないものを指すような呼び方に、胸が冷たくなった。
違う。
カインだ。
何度も呼んでくれた名前を、どうして今は呼んでくれないのだろう。
唇が震え、目に涙が溜まった。顔を見せれば分かってもらえる気がして、カインは精一杯、顔を上げた。おれはここにいるよ、と笑ってみせた。
だが、おねえちゃんはさらに身を引いた。
「お願い、早く……早くアレを、やっつけて!!!」
大好きだった目には、もう自分が知っている温かさがなかった。
触れたくないものを、近づけてはいけないものを見つめる、剥き出しの恐怖だけがあった。
「あの化け物!!」




