↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第五章 真紅の深淵
60/81

59. カインの過去―狂気


あの日、古ぼけた教会は静まり返っていた。



 破られた扉から秋風が吹き込み、外れかけた木戸を軋ませている。礼拝堂の通路には、大の男が五人、折り重なるように倒れていた。

 その下から広がる血が、ステンドグラスの光を呑み込んでいく。


 真ん中に、カインが立っていた。


 安物の白い服は赤く染まり、両手から雫が落ちていた。つい先ほどまで泣いていた小さな背中が、微かに震えている。


 シスターも子供たちも、動けなかった。


 何が起きたのか、目で追うことさえできなかった。大人たちが倒れ、怒鳴り声が途絶え、代わりに、血まみれのカインだけが残ったのだ。



「……カイン?」


 おねえちゃんが呼んだ。


 いつもなら、すぐに振り向く。名前を呼ぶだけで顔を上げ、そばへ来て、服の裾を掴む子だった。

 だから返事がないことが怖くて、それでも一人で立たせておけなくて、彼女はもう一度口を開いた。


「カイン……どうしたの……?」


 少年が、ゆっくりと振り返った。



 血に濡れた頬へ赤黒い筋が走り、見開かれた瞳が真紅に光っていた。口元が歪み、小さな喉から、くっ、くっと笑いが漏れる。


 子供たちが息を呑み、後ずさった。

 シスターは彼らを片手で制し、震える足を前へ出した。


「カイン……なのですか……!?」


 返事を待つように覗き込む。

 その顔へ、少年の笑みが向いた。



「ふっ……あっはははははは!!」



 幼い笑い声だけが、血に染まった礼拝堂へ響き渡った。



 ***



 乾いた銃声の余韻が、雨の中へ消えていった。



 フェイは銃口を上げたまま、動けずにいた。濡れた髪から雫が落ち、頬を伝う。それを拭う余裕もなく、紫の瞳は、目の前の男を捉え続けていた。


 銃弾は、カインの右肩を掠めていた。


 裂けた服の下から血が流れ、腕を伝って指先へ落ちる。だが、カインは傷を見ようともしなかった。血に濡れた剣を握ったまま、銃口を睨み据えている。


 その服には、レミの血もついていた。



「……本当にお前、何も分からないのか!?」



 フェイの声が震えた。


 いつものカインなら、レミが倒れた瞬間に駆け寄っている。名を呼び、傷を押さえ、早く診ろと自分を怒鳴りつけるはずだった。

 なのに今は、倒れた彼女へ目を向けることさえしない。


「レミを見ろよ……お前が、何をしたか……!」


 カインが一歩進んだ。


 フェイも反射的に退いた。踏み込んだ靴が泥へ沈み、構えた腕に力がこもる。

 見慣れた顔だった。何度も悪態を交わし、背中を預けてきた親友の顔なのに、その眼差しの中に、自分を知っている気配がなかった。


「何で……こんな……」


 カインの頭の奥では、まだ何かが叫んでいた。



 ――殺せ。

 ――消せ。


 ――今、銃を向けているだろう。


 ――また、裏切られる。



 ――信じた者たちは、あの時と同じ目で、お前を見るのだから。



 ***



 シスターの手が肩へ触れようとした瞬間、カインが身を捻った。



「おれに……触るなぁぁぁッッ!!」


 振り払った小さな腕が、彼女の身体を弾き飛ばした。

 長椅子へぶつかる音が響き、シスターはそのまま白目を剥いて動かなくなった。差し伸べていた手が床へ落ちる。



「きゃあああぁぁーーーっっ!!!」


 子供たちが逃げ出した。足をもつれさせ、泣きながら椅子の陰へ潜り込む。



 カインは笑っていた。



 逃げるものを追うように真紅の瞳が動き、身体がそちらへ向く。おねえちゃんが小さい子を背へ庇い、壁際まで退いた。


 カインが足を踏み出す。


 その時、何人もの靴音が入口へ押し寄せた。



「動くな!!」



 太い声が礼拝堂を打った。


 カインの身体が止まると、扉の向こうから大人たちが次々に入ってきた。剣と銃を持ち、揃いの服を着ている。街の警備隊だった。


 ぼやけていた景色へ輪郭が戻り、カインは何度も瞬きをした。


 ――そうだ。悪い男たちが来た。

 シスターをいじめて、皆を連れていこうとしたから、自分は、止めようとしていた――


 身体を焼いていた熱が、少しずつ引いていく。顔や腕に浮いた筋も沈み、力の入りすぎていた指が緩んだ。


(兵隊さんが来てくれた)


 カインの胸へ、安堵が広がった。

 これで、もう大丈夫だ。怖い男たちは倒れている。誰も連れていかれずに済んだ。眉が下がり、吊り上がった目も元の丸い瞳に戻っていく。


「兵隊さん……? おれ……」


 声を出すと、喉がひりついた。


 皆はどこにいるのだろう。辺りを見回し、壁際に集まった子供たちを見つけた。

 おねえちゃんもいた。


 よかった、と顔が緩みかけた時、『おねえちゃん』の口が開いた。



「兵隊さん! あ……あいつ!!」


 あいつ、と言われてカインは辺りを振り返った。

 まだ誰かいるのだろうか。けれど、後ろには倒れた男たちと、壊れた椅子しかなかった。


「そこを動くな!」


 兵士が叫び、カインへ剣を向けた。


 別の兵士は男たちの状態を確かめ、一人は壁際のシスターへ駆け寄っている。カインもそちらへ目をやり、息を呑んだ。


「……シスター?」


 どうして、寝ているのだろう?起こしに行かなければと思って足を動かすと、兵士の剣の切っ先が近づいた。


「動くなと言っている!」


 カインは竦んだ。


「でも……シスターが……」

「手を上げろ。ゆっくりだ」


 厳しい声に、慌てて両手を持ち上げた。赤く濡れた指を見て、そこで初めて、自分が血まみれだと気づいた。


 頭をぶつけた。痛かった。

 けれど、今はなぜか、あまり痛くない。


 分からないことばかりで、怖くなった。カインは助けを求め、皆の顔を見た。


「……みんな……?」


 誰も返事をしなかった。


 小さな女の子が泣きながら、年上の子の服へ顔を埋める。自分と同じ椅子で祈っていた少年も、目が合うと身体を引いた。


「何で……そんな顔するの……?」


 大丈夫だと、誰かに言ってほしかった。

 皆を連れていく男たちは、もう立っていない。兵隊さんも来てくれた。それなのに、なぜ誰も安心しないのだろう。



「こ、怖いよぉぉっ!!!」

「気持ち悪い……」

「こっちに来ないで!! あっちに行ってぇっ!」

「殺される……助けて!」



 カインの手が、少し下がった。


 兵士がまた何かを叫んだが、うまく聞こえなかった。今のは、自分に言ったのだろうか。


「……おれ、何も……」


 しないよ、と言いかけて、言葉が途切れた。


 倒れているシスター。割れた椅子。男たちの下へ広がる血。自分が何をしたのか、覚えていない。そのことが怖くて、カインは必死におねえちゃんを探した。


 あの人なら、分かってくれるはずだった。


 泣いたら抱き締めてくれた。何度呼んでも返事をしてくれた。ここにいていいと、そばにいると言ってくれた。皆と同じようには、言わないはずだった。


「お……おねえちゃん……」


 一歩、近づいた。


 その途端、少女が兵士の背へ隠れた。


 カインの足が止まる。



 震える指が、こちらへ向いた。

 ついさっきまで頭を撫で、指の組み方を教えてくれた手だった。



「兵隊さんっ……早く、アレ……!!」



 アレ。



 知らないものを指すような呼び方に、胸が冷たくなった。


 違う。

 カインだ。


 何度も呼んでくれた名前を、どうして今は呼んでくれないのだろう。


 唇が震え、目に涙が溜まった。顔を見せれば分かってもらえる気がして、カインは精一杯、顔を上げた。おれはここにいるよ、と笑ってみせた。


 だが、おねえちゃんはさらに身を引いた。



「お願い、早く……早くアレを、やっつけて!!!」



 大好きだった目には、もう自分が知っている温かさがなかった。

 触れたくないものを、近づけてはいけないものを見つめる、剥き出しの恐怖だけがあった。




「あの化け物!!」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。