58. どうして
あの時と同じ絶望が、カインを襲っていた。
村中から向けられる視線が肌へ突き刺さる。両手で頭を抱えても、その奥から溢れる記憶は塞げなかった。息を吸うたび喉が鳴り、足元が遠ざかっていく。
「カイン! どうしたの!?」
レミが駆け寄ろうとした。
心配そうに覗き込む青い瞳。その姿へ、血に濡れた記憶の中の『おねえちゃん』が重なった。
あの時も、優しく呼んでくれた。
けれど――
けれど、その後―――
「来るなぁぁぁぁぁッ!!」
カインの悲痛な絶望の叫びが村全体に響き渡った。
その衝撃的な声に、レミはピタリと足を止めて目を見張った。
「来るな! 近寄るな! みんな消えろ! 全部消えろ!」
折り曲げた身体が激しく震えた。指の間から覗く皮膚に赤黒い筋が浮かび、首から頬へ這い上がっていく。
全身に太い神経のような筋が浮き上がり、顔面にまで達する浮き上がった血管と赤黒い筋。
そして妖しく赤く光る双眸は異形そのものだった。
「人間なんて、皆いなくなっちまえ!!」
顔を上げたカインの瞳は、真紅に染まっていた。
人々が後ずさる。
レミも口元を押さえ、立ち尽くした。
どこかに居場所があると、信じたかった。
歩いた先で、今度こそ失わずに済むものを見つけられるのだと。
だが、手を伸ばせば奪われる。
守ろうとすれば、皆が怯えた目でこちらを見る。
――もう、いい。
カインが一歩踏み出した瞬間、山賊の一人が地面へ叩きつけられた。隣の男が身構えるより早く、その身体も吹き飛ぶ。悲鳴と衝突音が続き、気づけば男たちは血に濡れて倒れていた。
カインは動かなくなった相手にも拳を落としかけ、ふいに顔を上げた。
「みんな……消えればいいんだぁぁぁッ!」
逃げ出した村人の足音へ、真紅の瞳が向く。
「カイン、やめろ! 何やってるんだ!」
フェイが走った。リシェイも反射的に続いたが、振り返った顔を見た途端、足が竦んだ。
先日見たものは、見間違いではなかった。
自分を叱り、悪態をつき、それでも必ず守ってくれた兄のような男が、こちらを見ている。なのに、その目には何の反応もなかった。
「カイン……アタシ――」
風を裂く音がした。
蹴りが腹へ突き刺さり、リシェイの身体が浮く。受け止めようとしたフェイまで巻き込み、二人は背後の大木へ激突した。
「が……っ、あっ、ぐっ……!」
「リシェイ!」
地面へ崩れたリシェイが、腹を抱えて吐いた。フェイは痺れた腕で彼女を支え、追撃を警戒して顔を上げる。
カインは、もう二人を見ていなかった。
何事もなかったように歩き出す。その無関心が、殴られたこと以上にフェイの背筋を凍らせた。
村人たちは家へ逃げ込み、扉を閉ざしていた。窓の隙間から覗く目と、震える声だけが残る。
「化け物……」
「悪魔だ……」
ポツリと頬へ雫が落ちた。
淀んだ雲間から雨が降り始める。
地面にいくつもの水たまりを作り始め、踏み荒らされた土を黒い泥へ変えていった。
「……信じたかったのに……」
リシェイの涙が、雨に混じった。
「あれが……本当の姿だったの……?」
「リシェイ、動かないで。今、治すから!」
駆け寄ったレミが傷へ手をかざすと、白い光がリシェイの傷を癒していく。リシェイはその光の向こうに心の見えない赤い瞳の狂気を見た。
そして途切れ途切れに話し始めた。カインが見せた真紅の瞳の深淵と、彼の破壊に対する喜びを。
否定したかった。知っているカインのはずがないと、何度も思おうとした。
だが今、その足で蹴り飛ばされた。
シンのように圧倒して抑え込む力がないなら、もう無理だ。
レミはリシェイの震える肩を支え、フェイへ顔を向けた。
「瞳の力に、飲み込まれているの……?」
「分からない……! でも、まともに止められる相手じゃない。何なんだよ、あれは!」
フェイの目の前で、カインが再び目元を押さえた。呻きながら肩を震わせ、その喉から、笑いとも息切れともつかない音が漏れる。
――駄目だ。静まれ。
――静まってくれ。
――また言われる。『化け物』って。
――そして、何もかもを失ってしまう
止めたいと思ったはずの手が、さらに強く顔を掻いた。その苦悶を見たレミは、立ち上がっていた。
「レミ、行くな!」
フェイの制止より早く、彼女はカインの腕へしがみついた。力で敵うはずがないのは分かっていたが、放っておくわけにはいかない。何としても正気に戻すのだという強い思いで力を込めた。
「もうやめて! これ以上傷つけたら、取り返しがつかなくなる!」
真紅の瞳が、真下へ動いた。
「邪魔をするんじゃねぇぇッッ!!!」
「きゃあああぁぁッッ!!」
腕が振られた。
レミの身体が放り出され、泥へ叩きつけられる。息が潰れ、声も出ないまま肩を押さえて身を丸めた。
「レミ!」
「大丈夫……二人とも、待って……!」
それでも彼女は、泥に滑る手で身体を起こした。
声が届いていない。自分たちが誰なのかさえ、分かっていないのかもしれない。だったら、分かるまで呼ばなければ。
「カイン……お願い。私の声を聞いて!」
血に濡れた手へ、両手を重ねた。
次の瞬間、その手が首元へ伸びた。襟を掴まれ、持ち上げられた身体が、再び地面へ叩き落とされる。
重い靴底が身体を打った。
「か……はっ……!」
逃れようと縮めた身体へ、次の衝撃が来る。泥水が顔へ跳ね、息を吸う暇も、術を使う隙もなかった。
「やめろ! それはレミだぞ! お前、何やってるのか分からないのか!?」
フェイが叫び、立ち上がりかけたリシェイが腹を押さえて崩れる。
カインの足が止まった。
――やめろ。
――やめてくれ。
その願いが誰に向けたものなのか、もう分からなかった。
レミは泥へ手をつき、震える身体を起こした。痛みで視界が霞んでも、彼の顔から目を離さなかった。
「カイン……私の、声を……」
鞘から刃が抜けた。
雨粒を弾く銀色を見て、フェイの表情が変わる。
「死ね……死ね、死ね死ね!! あははははっっ!!」
カインが笑っていた。
喉を反らし、顔を歪め、何が可笑しいのかも分からない声で。血に濡れた指が柄を握り直し、切っ先がレミへ向く。
いつも彼女の前へ立ち、敵を退けてきた剣だった。
「全部消えろ! 失敗作は全部消すんだ!」
「失敗……作……?」
レミの眉が寄った。
自分たちへ怒っているのではない。今ここにいる誰かを見ている言葉でもない。彼の中から、知らない何かが溢れ出しているようだった。
だが、考える時間はなかった。
フェイが魔導銃を抜いた。
人へ向けないと誓った銃口を、仲間へ向ける。構える腕は震えたが、下ろせなかった。このままでは、レミが殺される。
「レミ、どいていろ!」
「何をするの!? やめて!」
「急所は外す! まず動きを止めるんだ。このままじゃ全滅する!」
「駄目!」
レミは泥を掻き、傷む身体を引きずって射線へ入った。
カインを背中に庇った。
青い瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、雨で冷え切った空間に白い吐息が浮かんでは消えていく。
「これはカインの意思じゃない! 仲間同士で傷つけ合うなんて、フェイだって望んでないでしょう!?」
「望んでるわけないだろ!」
叫び返した声が裏返った。
いつものように取り繕った余裕など微塵もない。考えていたら手遅れになる。
「だったらどうすりゃいいんだよ! レミが殺されるのを、そこで見てろっていうのか! 早く離れろ!」
フェイの銃口が揺れた。レミの背後で、カインが手を伸ばす。
肩を掴まれ、レミは振り向いた。
戻ってきてくれたのか。
一瞬、胸へ灯った期待は、冷たい真紅の眼差しに砕かれた。
襟首を掴み上げられ、喉が詰まる。足が泥から離れ、彼女の指がカインの腕へ縋った。
「ぐ……っ、カイン……!」
「そんなに俺に殺されたいのか?」
笑みの残った口が、そう告げた。
力任せに振り払われた身体へ、剣が薙がれる。
いつも彼女を護ってきた、その刃で。
胸元から、鮮血が散った。
レミは背中から崩れ落ちた。白い服へ赤が広がり、零れた血が雨水に混じっていく。起き上がろうとした手が泥へ沈み、青い瞳が閉じられた。
フェイの唇が震えた。
本当に。
本当に、斬った――
「レミぃぃぃぃッ!!! カイン、お前ぇぇぇぇッ!!!」
フェイは引き金を引いた。
乾いた銃声が、カインの耳に響いた。
すべてを破壊する暴力とは裏腹に、カインの心と身体は、深い虚無の中に漂うように冷ややかだった。
(ただ……守りたいものを守るために戦っただけなのに。どうして俺は……いつもこうなってしまうんだろう)
夜に続き更新予定です




