57. カインの過去―暴走
そして、ある日のことだった。
カインは礼拝堂の長椅子に座り、隣の『おねえちゃん』の手元を見ながら、指を組んでいた。
「こう?」
「うん。上手」
「目も、つぶるんだよね」
褒められたのが嬉しくて、ぎゅっと瞼を閉じる。けれど、すぐに薄く開けてしまった。
「……おねえちゃん、いる?」
「いるよ。お祈りの間に、どこにも行かないってば」
笑いを含んだ囁きに安心し、今度こそ目を閉じた。
ここへ来て、半年になる。
まだ怖い夢を見て泣く夜もあった。目覚めた時に誰も見えないと、慌てて名前を呼んでしまう。それでも、呼べば返事があった。食事の席には自分の分も並び、眠る場所も、明日着る服も、ここにあった。
もう一人ではない。
シスターがいて、おねえちゃんがいて、皆がいる。明日も、その次の日も、同じように過ごせるのだと、カインは信じ始めていた。
――礼拝堂の扉が、凄まじい音を立てて開いた。
肩が跳ね、カインは目を開けた。
黒いスーツを着た大男が五人、土足の音を響かせて入ってくる。誰も祈りの言葉を口にせず、正面のシスターを睨みつけていた。
「……誰?」
隣を見上げると、おねえちゃんの顔から笑みが消えていた。
年上の子供たちが小さい子を引き寄せ、椅子の奥へ身を寄せる。たった半年しかここを知らないカインには、その動きの意味が分からなかった。
変なおじさんたちだ。どうして皆、そんなに怖がっているのだろう。
「子供たちが怯えております。お話であれば、こちらから伺うと申し上げたはずです」
シスターが前へ出た。いつもと違う硬い声だったが、子供たちを背に庇う姿を見て、カインは少し安心した。
シスターが話せば、きっと帰ってくれる。
「だから、ここへ来たんですよ」
先頭の男が笑った。
「子供たちの前なら、貴女も少しは真剣に考えてくださるでしょう?」
「もう少しだけ、お待ちください。バザーや寄付で、少しずつお返しすると……」
「いい加減にしろよ、このアマが!」
重い靴が長椅子を蹴りつけた。
木が裂ける音に、子供たちの悲鳴が重なる。カインも声を上げ、おねえちゃんへしがみついた。
抱き締めてくれた腕が、震えていた。
「おねえちゃん……?」
「カイン、こっちを見てて。大丈夫だから」
「でも、シスターが……」
大丈夫と言っているのに、その目は男たちから離れない。腕の力ばかりが強くなり、カインはますます不安になった。
年下の女の子が泣き出した。いつもならシスターがすぐに来て、宥めてくれるはずだった。
だが、今日は来られなかった。
――後になって、カインはこの教会の事情を知った。
国の支援を受けない小さな孤児院は、善意の寄付で成り立っていた。最大の出資者が病に倒れ、その親族が寄付を打ち切ってから、暮らしは急速に立ち行かなくなったのだという。
シスターたちはバザーを開き、街で寄付を募った。それでも、大勢の子供を養い、建物を維持するには足りなかった。
行き場のない子供たちを追い出すこともできず、頼った先が、あの男たちだった。
初めは活動を支援したいと言い、返済も少しずつでよいと笑っていた。借金が膨れ上がると、その笑顔は暴力と脅迫へ変わった。
けれど、七歳のカインが知っていたのは、最近のシスターが少し疲れていることと、食事の後も遅くまで針仕事をしていたことだけだった。
それを、こんな男たちが怒鳴ってよい理由など、あるはずがなかった。
「お願いです。あと半年だけ……」
シスターが膝をついた。
カインは目を見開いた。皆にお祈りを教えてくれる人が、神様の前ではなく、男たちの靴の前で頭を下げていた。辛そうな横顔を見ると悲しくなった。
「一年以上待ってやって、まだ待てだと?」
男が襟首を掴み上げた。シスターの身体が引き起こされ、苦しそうに顔が歪む。あんなに優しいシスターに乱暴な事をするなんて許せない。
「……おねえちゃん、放して」
「駄目。カイン、ここにいて」
「シスター、痛いって……!」
「お願い、行かないで……!」
おねえちゃんの声まで泣いていた。
カインも怖かった。大きな音も怒鳴り声も怖くて、もう涙が出ていた。
それでも、あの手を離させなければと思った。
シスターは、ここにいていいと言ってくれた人だった。泣いても叱らず、夜には布団をかけ直してくれた。皆のお母さんのような人を、誰も助けないままにしておけなかった。
「やめろっ! シスターをいじめるな!」
腕の隙間から飛び出す。
「カイン、駄目!」
呼び止める声を背に、男へぶつかった。太い腕にしがみつき、必死に引っ張る。
「放せよ! 苦しがってるだろ!」
「何だ、このガキ」
「放してよぉっ!」
力いっぱい噛みついた。
男の顔が歪む。
「このクソガキが!」
腕が振られ、足が床から離れた。
景色が大きく傾く。次の瞬間、頭へ鈍い衝撃が走った。
長椅子の角だった。
カインは床へ落ち、そのまま動けなくなった。頭が割れるように痛い。額から温かいものが流れ、目の中へ入ってくる。
「カイン!」
おねえちゃんの声がした。
泣きそうな声に、返事をしようとする。だが、喉から漏れたのは、かすかな息だけだった。
痛い。怖い。
抱っこしてほしかった。いつものように、もう大丈夫だと言ってほしかった。
「誰か、警備隊へ! 早く!」
シスターが叫んでいた。
「子供にまで危害を加えるなんて……いくら借金があっても、許されません!」
一人の少年が裏口へ走った。その姿を見た男が舌打ちし、シスターを蹴り倒す。
床へ崩れる身体を、カインは血に濡れた視界で見ていた。
――もうやめて。
声にならない願いだけが、胸の中で繰り返された。
「……もういい。手頃なガキを何人か連れていけ。闇市で高値がつきそうな奴をな」
何を言っているのか、初めは分からなかった。
男たちが子供へ手を伸ばす。逃げようとした腕を掴み、泣き叫ぶ身体を担ぎ上げた。
「嫌だ! シスター!」
「やめてください! その子を放して!」
「うるせぇ、引っ込んでろ!」
皆の声が、礼拝堂いっぱいに響いた。
カインは肘をつこうとした。床を押しても、身体が持ち上がらない。血で指が滑り、頭の中がぐらぐら揺れた。
連れていかれる。
ここにいれば、皆といられるはずだった。
昨日も一緒に食べた。今朝も隣で笑っていた。明日もそうなるはずだったのに、大きな手が、何のためらいもなく皆を奪っていく。
「カイン! カインの手当てを……!」
その声に、必死に目を上げた。
おねえちゃんだった。
男に腕を掴まれながら、床の上の自分へ手を伸ばしている。引きずられ、靴が脱げても、こちらを見ていた。
「カイン、動いちゃ駄目! シスターを呼ぶから……!」
呼べば返事をくれた人。
眠れない夜にそばへ来てくれた人。
さっきも、どこにも行かないと言ってくれた。
「……や……」
小さな声が漏れた。
おねえちゃんの指が、届かないまま遠ざかる。
「……いか、ないで……」
また一人になる。
もう嫌だ。誰もいない所で目を覚ますのも、呼んでも返事がないのも。やっと帰る場所ができたのに、やっと皆といていいと思えたのに。
男が、おねえちゃんを乱暴に抱え上げた。
カインの中で、何かが切れた。
赤く滲んでいた視界が、漆黒へ沈む。
頭の奥で熱が爆ぜた。痛みより深い場所から、焼けつくような力が噴き上がり、動かなかった手足へ流れ込む。
放せ。
返せ。
その人を、連れていくな。
「う……ああああぁぁぁぁぁッ!!」
幼い喉を引き裂くような叫びが、礼拝堂を揺らした。
皆を守りたかった。
おねえちゃんを取り返して、シスターに起きてもらって、もう一度、大丈夫だと抱き締めてほしかった。
ただ、それだけだった。
だが、床から身を起こした小さな身体を突き動かしたのは、七歳の子供には抑えようのない破壊衝動だった。
涙に濡れた瞳が、真紅に染まる。
自分が何をしようとしているのかも分からないまま、カインは男たちへ爪を立てた。




