56. カインの過去―祈りの光
もう、遠い昔――
明るく澄み切った秋空の下、サラサラと小川のせせらぎが長閑に響いていた。
太陽の光を浴びてキラキラと輝く美しい水面。その浅瀬を群れなす小魚たちに混じり、川辺の泥の中にそぐわぬ幼い命が、その消えかけた灯火を守ろうと必死に足掻いていた。
「……くるし……い……よ……」
湿った泥に顔を伏せ、こげ茶色の髪をした幼い少年が打ち上げられ、泥の中に倒れていた
***
それからどれほどの刻が流れただろう。
少年は茫洋と目を覚ました。全身を重い倦怠感が支配している。まどろむ視界が少しずつ輪郭を結ぶと、上から覗き込む幾人もの幼い子どもたちの顔が映り込んできた。
「あっ、起きたよ、シスター!」
(……シスター? 一体、なんのことだろう……?)
横たわったまま視線を動かすと、少年の緑色の双眸にさまざまな光景が飛び込んできた。
使い込まれた木張りの天井と壁。ひび割れた窓ガラスは、応急処置として黄色いテープで補強されている。壁には幼い子どもが描いたと思われる、色とりどりの拙い絵が飾られていた。
少年は重い身体をゆっくりと起こし、こちらへ歩み寄ってくる大人の女性を見上げた。
自分より少し年上に見える少女。
自分よりも幼く、まだ乳飲み子同然の男の子。
そして、清楚な黒い修道衣を身に纏った女性。
――シスターとは、この黒い服の人のことだろうか?
女性は慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべ、少年の前でそっと身を屈めた。
「気がついたのね。本当に良かった……。気分はどうかしら? どこか痛むところはある?」
こげ茶色の髪の少年は、ぽかんとした表情のまま力なく首を横に振った。
「ないよ。ちょっと気持ち悪かったけど、もう平気だよ」
「そう……良かったわ」と優しく微笑むこの女性は、一体誰なのだろう。そして、ここはどこなのだろう。少年の幼い頭には疑問が次々と湧き上がる。
「お絵描きがいっぱいだね。ここは何をするところ? なんでおれはこんなところで寝てるの?」
状況を理解できずに怯えている少年の様子を察したのか、シスターは両手を胸の前で優しく組み合わせた。
「あなたはね、川辺で倒れていたのよ。お水をたくさん飲んでしまっていたみたいで……本当に心配したのよ。……随分と上流の方から流されてきたのね」
――川。
その言葉を聞いた瞬間、少年の胸の奥で記憶の欠片が重く揺れた。
確か自分は、森の中で遊んでいて、それから――
「川に足をすべらせて落っこちちゃったのかしら? お名前と、お家はわかる?」
「なまえ……カイン=レッドバード……。家は……もり……」
「どこの森か、分かるかしら?」
幼いカインは力なく首を横に振った。
森の名前なんて意識したこともなかったし、出かける時はいつだって両親に温かな手を引かれて歩いていたのだ。
どの道を通れば家に帰れるのかなど考えたこともなく、漠然と流れる景色を眺めながら、ただ大好きな父と母の背中を追っていただけ。帰り道など知るはずもなかった。
「それじゃあ、お父様とお母様は? 上流の森にお住まいなのね? 何か手がかりがあれば、町の警備隊に捜索をお願いして……」
「とう……さん……。かあ……さん……」
父さん――。
―――お前は、ここに居てはいけないんだ!!
暗い激流の中へ突き落とされる直前、自分を見下ろしていた険しい眼差し。
「……父さん……おれを……川に落とした……。『居ちゃ駄目だ』って……」
その呟きを聞いた瞬間、シスターの優しかった表情が凍りついた。
我が子の手を自ら振り払い、濁流へと投げ捨てた親――。
それは即ち、「棄て子」であることを意味していた。
***
カインの回復は、驚くほど早かった。
すっかり元気を取り戻して施設の中を歩き回れるようになり、「帰り道が分からないよ」と尋ねたカインに、シスターは悲しそうに寄り添いながら『今日からここが、あなたの家よ』と告げてくれた。
どうして?と疑問を抱くのは当然だった。
数日前までは、大好きな両親と仲良く暮らしていたはずなのだから。
ここは自分の家ではないのに、なぜ突然この古い教会が自分の「家」になるというのか、幼いカインには理解できなかった。
けれど、様々な事情を抱えた子供たちが身を寄せるこの孤児院で過ごすうちに、「自分は親に拒絶され、生きていてはいけない存在として捨てるように殺されかけたのだ」という過酷な現実を悟るのに、時間はかからなかった。
受け入れたくなどなかったけれど、それが逃れられない現実だったのだ。
父親に「いらない子」だと突き落とされた。
―――哀れな子。
不幸中の幸いと言うべきか。
救われた先が、教会の運営する小さな孤児院だったことは、幼いカインにとって唯一の救いだった。自分と同じように親を失い、悲しい過去を背負った子供たちとの触れ合いは、傷ついた魂の何よりの慰めとなった。
みんな優しく接してくれたし、それまで同世代の友達など一人も知らなかったカインにとって、賑やかな毎日はどこか新鮮にすら映っていた。
自分より小さな幼児もいれば、頼もしい年上のお姉さんもいた。
それでも夜になると、時折両親と過ごした温かな日々を思い出しては一人で声を殺して泣いた。おかげで『カインは泣き虫だ』と年上の男の子たちからからかわれたことは、今でも鮮明に覚えている。
「コラァッ! またカインのことをからかって!」
孤児院で一番年上の女の子はカインが泣いているといつも飛んできた。
「おねえちゃん!」
幼いカインはその少女を見ると破顔した。
「もう大丈夫だからね、カイン。もう、アンタ達、カインはまだここに来て日が浅いんだから、そんな風に言っちゃダメでしょ!?」
「おねえちゃん、ありがと……」
そんな弱虫な自分を、放っておけなかったのだろう。施設で一番年上の少女は、何かにつけてカインの面倒を見てくれた。
幼い手を引いて散歩に連れていってくれた、どこまでも優しい『おねえちゃん』のことが、カインは大好きだった。
彼女がいつも傍にいてくれたから、自分は生きていていいのだと思えるようになった。
***
半年ほどの時が流れ、カインもすっかり孤児院の毎日に馴染み、みんなを「本当の家族」として愛するようになっていた。
子供たちは毎朝、質素なパンとスープの朝食を終えると、教会の礼拝堂で神様へ祈りを捧げる。
――神様はね、どんな時も私たちを見守ってくださるのよ。慈悲を与えてくださるわ。だから今を一生懸命生きていれば、きっとみんなにも温かな希望が訪れるの。
シスターたちはいつだって、そう優しく教えてくれた。
だから、信じていた。
みんなで助け合っていけば、いつまでもここで平和に暮らしていけるのだと。
小さなカインは、胸の前で小さな手をぎゅっと握り締め、神様へ一生懸命に祈りを捧げていた。
後ほど更新します。




