55. 砕かれた希望
「まさか……追手か!?」
カインは剣を抜き、レミを背に庇った。
「おいおい、こんな山奥に……えらく上玉の若い女じゃねぇか」
暗がりから、ニヤついた男が現れる。
追手ではない。路地裏で生きていた頃、幾度となく見てきた類の人間だった。
「……山賊か」
治安の良くない山岳地帯であれば、領主や騎士団の監視は行き届きにくい。そういった場所を拠点とし、掠奪と暴力を生業とする人間のクズどもだ。
男は舌なめずりをしながらナイフを転がし、レミを品定めしていた。
「おとなしくその女を渡せよ。そうすりゃ、お前は身ぐるみ剥ぐだけで助けてやる」
「ふざけんな! とっとと消えろ。ぶっ殺すぞ!!」
「先日の金髪の伊達男といい、最近の若いにーちゃんは血気盛んで困るねぇ」
ようやくレミと心を通わせ、穏やかさを取り戻しかけていたのに。
カインは歯噛みした。
その背後で、レミは何者かに首を締め上げられた。
「へへっ、見ろよ! コイツとんでもねぇ上玉だぞッ!」
「は……離して……っ!」
振り返ると、別の男がレミを羽交い締めにしていた。さらにもう一人が腕を押さえ、彼女の逃げ場を奪う。
「レミ!?」
こんな連中の接近にすら気づかなかった。
上の空だった己への怒りが、カインの胸を焼いた。
「珍しい銀髪だな。売り飛ばせば、いい値がつくぜ」
人身売買を当然のように口にする下卑た言葉に、カインの頭に激しい怒りが昇り詰めた。
胸の奥で、昏い熱が急速に渦を巻き始める。
(……値……?)
「その前に、俺たちでたっぷり楽しませてもらうか!」
男の手が、怯えるレミの身体を汚そうと伸びた。それを視界に捉えた瞬間、カインの中で何かが焼き切れるような感覚がした。
「ふざけんじゃねぇぇッッ!!」
カインは地を蹴った。
ブーツが男の顔面を捉え、その身体を吹き飛ばす。空中で身を翻し、着地と同時に男の頭を岩へ踏みつけた。
倒れ伏した男には目もくれず、残る一人へ向き直る。
「この野郎……ッ!」
ナイフが振り上げられるより早く、レミを引き寄せ、剣を男の喉元へ突きつけた。
赤みを帯び始めた瞳が、男を射抜く。
「汚ない手でコイツに触んじゃねぇ!」
レミの華奢な身体をしっかりと胸元へ引き寄せ、己が本気で殺しに来ていることを知らしめるように、切っ先を男の皮膚へ僅かに潜り込ませた。男は悲鳴を上げてナイフを投げ捨てると、脱兎のごとく暗闇の森へ逃げ去っていった。
その姿が消えた途端、カインの手から剣が落ちた。
頭痛と吐き気に膝をつき、焼けるように熱い目を押さえる。
(また……頭の奥で何かが叫んでやがる……。『消せ』って……『殺せ』って!)
「カイン!」
レミが両手で身体を支えた。
「……大丈夫か? すまない、俺が……早く気づくべきだった」
「そんな事ない。私だって気づけなかったんだから、同じだよ。助けてくれて、ありがとう」
「……無事なら、それでいい……」
支えられながら立ち上がると、フェイとリシェイが武器を手に駆け込んできた。
「何があったんだ!? 大勢の足音が通り過ぎていったぞ!」
顔を上げたカインの瞳に、リシェイが後ずさる。
それでも、意を決して一歩近づいた。
「カ……カイン。さっきの音、なに……?」
「……盗賊だ。まだ何も奪えてねぇようだった」
「それじゃ、村のみんなが危ないんじゃないの!? 小さな子も沢山いたのに!」
「分かってる。追うぞ!」
カインは地面の剣を拾い、村へ駆け出した。
――案の定、一味はすでにエリザ村へ入り込んでいた。
中央広場にランタンの光が集まっている。
山賊を一喝しようとしたカインは、その光景に足を止めた。
「ハハッ、上等上等! これならリドゥ国の市場で高く売れるぜぇ!」
「今回はおいくらで引き取っていただけますかな?」
村長と頭領が談笑していた。
足元では、縄で縛られた子供たちが震えている。重たい金貨の袋を受け取った村長は、満足げに笑った。
「ささ、どうぞお連れください」
慈しみ育てていると語っていた孤児たちを、その手で山賊へ突き出す。カインの双眸が、驚愕で大きく見開かれた。
「……何……やってんだ……アンタら!?」
カインは掠れた声を荒げ、広場へ踏み込んだ。
「ひっ! 頭領、さっきの化け物ですッ!」
先ほど逃げた男が悲鳴を上げる。
頭領はカインの赤く濁った瞳を見ても、鼻で笑った。
「化け物ぉ……? こんな青二才がか?」
「子供たちをどうするつもりだ!? 大切に育てるんじゃなかったのかよ!!」
「当たり前だろう。高値で売れるよう大切に飼い肥やし、売り払う。当然の循環よ」
カインは息を詰めた。
大切にするとは、商品に傷をつけないという意味だったのか。
子供たちを、金に変えるための家畜として置いていたのか。
「見られたからには、貴様らも帰せんなぁ。若い男は鉱山で需要がある。そちらのお嬢さん方は……娼館で引く手あまただろうよ!」
───所詮、人間なんて。
押さえつけていたはずの心の堤防が、ミシミシと音を立てて崩壊していく。
カインの瞳が、急速に完全な『真紅』へと染まり上がっていった。
それを見た村人や山賊の部下たちが、引きつった顔でじりじりと後ずさる。爆発する憎悪の形相、そして夜闇に妖しく発光する血の赤。
「化け物だ」と口々に引きつった悲鳴を上げ、人々は恐怖に震えた。
カインから放たれる凄絶なプレッシャーに、フェイもリシェイも息を呑んだ。いつものカインの暴走とは違う、ただ側にいるだけで命を削られるような、冷酷で圧倒的な死の気配。
「おい……カイン……お前……っ」
フェイも「真紅の瞳」の存在自体は知っていた。けれど、これほど禍々しく、近づくことすら危険だと直感させるほどの姿を見るのは、初めてだった。
カインはふと周囲に目をやり、視界の端に固まる仲間の姿を捉えた。必死に己の理性を繋ぎ止めようと、歯を食いしばる。
(耐えろ。やっと上辺だけでも、平和な居場所を手に入れたんだ。今激情に任せて暴れれば全部が壊れる。静まるんだ。 もうあの時のように、一人で捨てられるのは嫌だ!!)
「これがおれらと、この村の『循環』なんだよ! 一人じゃゴミ同然のガキも、こうして大人の役に立てる。……例え死んだって、探せば代わりなんていくらでも湧いてくるんだからな!ハハハッ!」
頭領はカインを嘲笑い、足元へペッと汚らしい唾を吐き捨てた。
黒い思考が、急速にカインの頭脳を侵食していく。
過去のトラウマ、惨酷な裏切り、そして不意に耳の奥で鳴り響き始めた『見知らぬ何者かの声』が、カインの残された理性を一つ、また一つと削り落としていく。
ドクンドクンと激しい心音が鼓膜を叩き、胸の深淵から、どす黒い狂気が奔流となって溢れ出した。
闇へ誘う甘く冷酷な声が、脳裏へ滑り込んでくる。
―――いつでも、蔑まれて。
―――這いずり回り、こうして唾を吐きかけられて。
―――この世界のどこに、お前を愛する真の心など存在する?
―――まだ……温かな夢など見ているのか?
―――愚かな子。
―――憐れな子。
―――辛かっただろう? 苦しかっただろう? お前はその真紅の眼で……人間の醜悪さをずっと見てきたはずだ。
―――それでもまだ、人間を信じるとでも言うのか? 在りもしない偽りの温もりを探し続けるのか?
―――……素直になれ。
「…………人間なんて……」
―――そう、人間など。
必死に繋ぎ止めていた理性の鎖が、音を立てて弾け飛んだ。
―――お前には出来る。さあ……すべてを壊せ、我が器。破壊の申し子よ。
瞳の奥が、激しく疼き出す。
瞳孔が限界まで見開かれ、全身の毛細血管が沸騰するように熱い。
―――消えろ。
「…………消えろ」




