53. 頑張らなくていい
「……分かった。行こう、みんな」
リシェイが不満げにカインを見上げた。
「やっぱり野宿? 雨が降りそうなのに……」
「仕方ねぇだろ。無理に居座れるかよ。雨を避けられる場所くらい、探せばある」
治療費で路銀は減っている。貧しい家に泊めてもらうなら、それなりの礼が必要だ。何より、食料まで分けてもらえば、あの家の子供たちの明日を削ることになる。
自分たちに気を遣わせるくらいなら、子供たちに食べさせてやってほしかった。
「……子供たち、大切にしてやってくれ。俺たちは近くで野宿するから」
それだけを言い残し、カインは村を抜けた。
三人も、わずかにためらった後を追う。
すでに陽は落ちていた。夜道を進むより、防魔の結界が及ぶ村外れで朝を待つ方が安全だ。四人は近くの森へ入り、木々の間に野営の場所を決めた。
頭上には、重い雨雲が広がっている。
(……雨は、好きじゃねぇんだけどな)
空まで暗いと、世界中から見放されたような気がした。それでも、結界の内側なら魔物に襲われる心配はない。
今だけは、誰にも構わずにいてほしかった。
誰の顔も見ず、誰の声も聞かず、ただ自分の中で渦巻くものが静まるのを待ちたかった。
***
干し肉の夕食を終え、フェイとリシェイが焚き火の傍で休む支度をしている頃、カインは一人、崖の縁に腰を下ろしていた。
湿った風が吹き抜ける。
遠くで木々がざわめき、雲の向こうで低い雷鳴がくぐもっていた。
独りで生きていた頃は、世界の醜さばかりを見ていた。
人を値踏みし、弱い者を喰い物にする大人たち。
誰かを踏みつけなければ生き残れない場所。
どうして自分だけが、と何度も世界を呪った。
けれど、デュロアルの仲間たちと出会い、レミと出会ってから、その考えは少しずつ揺らぎ始めていた。
今日見た村にも、貧しくとも子供たちを守ろうとする人々がいた。
あの光景を見ている間だけは、世界がすべて醜いものではないと信じられた。
「ここにいたんだ」
背後から声がして、カインは振り返った。
レミが、木製のカップを二つ持って立っている。
「隣、いい?」
「好きにしろ。……それ、何だ?」
「ホットミルク。眠れないなら、カインもどうかなって」
差し出されたカップを覗き込む。
乳白色の液体から、細い湯気が立ち上っていた。
「……俺はガキかよ」
「えっ? ち……違うの! リシェイが美味しいって言ってくれたから……。カインも飲むかなって思っただけで…… でも、お酒の方が好きだったよね。ごめんなさい」
配慮が足りなかったと言ってレミが焦ってカインの手からカップを取り戻そうとした。
カインはその必死な様子に思わず吹き出すと、サッとカップを取り上げる。
「くれよ。ありがたく貰うから。久しぶりだな、こんなの飲むの」
「よかった……」
レミも、ようやく笑った。
その笑顔を見て、カインの胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
二人は並んで、ゆっくりとミルクを飲んだ。
木肌を通して伝わるカップの温もりが、冷えた手に心地よかった。
雨は嫌いだった。
雨音を聞くと、逃げ場のない夜を思い出す。
けれど、雨上がりの澄んだ空は好きだった。
だから、自分の心にも、いつか止まない雨はないのだと信じたかった。
優しい甘みが舌に広がる。
その味に触れた瞬間、幼い頃、母に淹れてもらったミルクの記憶が、遠い場所からかすかに蘇った。
「……悪いな。気ぃ遣わせちまって」
空になったカップを地面に置き、カインは疼く目元を押さえた。
「フェイもお前も、気分悪いだろ。俺がこんなだから……」
「そんなことないよ」
「今回ばかりは庇わなくていい。全部、俺が弱いせいだ」
レミは、すぐには答えなかった。ただ、カインの横顔を見つめてから、静かに首を横に振る。
「カインは、悪いことなんてしていないでしょう?」
レミの言葉にカインは俯く。
シンへ応戦したのは、身を守るためだった。
憎まれる理由も分からない。無関係な誰かを傷つけたわけでもない。
それなのに、胸の奥の不安は消えなかった。
理屈では自分が悪くないと分かっていても、また何かを壊してしまう気がする。また誰かに恐れられ、見捨てられる気がする。
そんな自分が、カインは嫌だった。
「……いつまでもウジウジしてられねぇよな。元気出さねぇと」
自分に言い聞かせるように呟くと、レミは穏やかに頭を横に振る。
「無理に元気なんて出さなくていいよ」
レミの声は、焚き火の向こうから届く光のように静かだった。澄んだ青い瞳が優しく細められる。
「……頑張らなくても、いいんだよ」
カインは目を瞬かせた。
仲間を不安にさせている。
こんな自分のままで、いいはずがない。
そう思っていた。そう思い込むことで、これまで何度も立ち上がってきた。
レミはカップを置き、膝を抱えるようにして彼へ向き直った。
「今は、心を休ませる時じゃないかな」
「こんな風に悩んでるなんて、俺らしくねぇだろ」
「カインは悩まないの? 今まで一度も?」
「んなワケあるかよ! 俺だって……!」
叫びかけたところで、カインは咄嗟に口を噤んだ。「いつだって苦悩を抱えて生きている」と言いかけたが、それをこの無垢な少女に吐露できるはずもなかった。
滑りかけた言葉を固く結び、気まずそうに視線を逸らした。
レミはその沈黙に追及することなく、ただ、暗い空を見上げながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「私、研究所にいた頃は、ずっと一人で考え事をしてたの。暗い部屋で、毎日同じことばかり考えてた」
雲の向こうで、また雷が鳴った。
「こんなに悩んだり落ち込んだりするのは、世界で自分だけかもしれないって。誰にも分かってもらえないって、ずっと思ってた」
レミの横顔は、夜の闇に溶けそうなほど静かだった。
「でも、外へ出て、色んな人に会って……元気そうに見える人にも、悩みがあるんだって知ったの」
彼女は、少しだけ笑った。
「比べるのは変かもしれないけど、少しだけ安心したんだ。私だけじゃないんだって」
カインは黙って聞いていた。
「そりゃ、大小はあっても、悩みくらい誰だって抱えてるだろ」
「そうだよね」
レミは頷いた。
それから、まっすぐにカインを見た。
「……カインは?」
「え?」
「カインも、悩みを抱えていていいんだよね?」
自分が口にしたばかりの言葉を返され、カインは息を呑んだ。
レミは、花が咲くように微笑んだ。
「悩みのひとつやふたつ、抱えていて当然……でしょう?」
その言葉は、責めるでもなく、励ますでもなかった。
ただ、ここにいていいのだと告げているようだった。
「考えたり悩んだりするのも、今ここで生きてる証拠だから。おかしいことじゃないって……私は、そう信じたいな」
カインは、すぐには答えられなかった。
胸の奥に張りついていた孤独が、消えたわけではない。
過去も、恐怖も、真紅の瞳も、何ひとつなくなってはいない。
それでも、隣に座るレミの体温だけは、確かにそこにあった。
「……そう、なのかもな」
呟いた声は、いつもより少しだけ弱かった。
けれど、その弱さを隠そうとは思わなかった。
レミは何も言わず、ただ隣にいてくれた。
彼女のまっすぐな真心が、痛いほど胸に染み渡ってきた。
お昼頃続き更新予定です




