50. 不協和音
翌朝、病室の窓には淡い日差しが差し込んでいた。
フェイは受付へ精算に下り、リシェイは黙って荷物をまとめている。その傍らで、レミはベッドに座るカインへ両手をかざしていた。
指の間から溢れる濃密な白い光が包帯を透かし、彼の全身を包み込んでいる。朝日の中でも、その輝きは鮮明だった。
絶え間なく送り込まれるエーテルが傷の奥へ染み入り、疼きを内側から押し流していく。レミは唇を結び、その流れを自らの意思で引き上げ続けた。
胸部の裂傷に腹部の深い打撲と、骨にヒビが入った右手首。昨夜、手を握ってほしいと引き留めた時も、カインはこの痛みに耐えていたのだ。
早く治したい。
もう、苦しそうな顔をしてほしくない。
意識を集中させると、光が一段と膨れ上がった。掌から押し出されたエーテルが奔流となり、傷へ注ぎ込まれる。
力が弱まりかけるたび、レミは身体の奥から汲み上げ直した。腹の底が空になるような感覚がしても、手を下ろさない。残っている力があるのなら、すべて彼のために使いたかった。
時間とともに腕が重くなり、肘が震え始めた。それでも手首を持ち上げ直し、治癒の勢いを保ち続ける。
やがてカインが右手を動かした。握り込んでも痛みはほとんどなく、庇っていた腹部も自然に起こせる。
「……すげぇな。もう、ほとんど痛まねぇぞ」
レミの口元が緩んだが、手は下ろさなかった。
「あと少し……」
一時間近く、光を注ぎ続けていた。瞼が重くなり、まっすぐ座っていることさえ難しくなる。
白い輝きが薄れかけると、レミは首を振り、両手を持ち上げ直した。残った力を掻き集めるように意識を絞り、もう一度、出力を押し上げる。
消えかけた光が、再び眩しく膨らんだ。
「……おい、レミ」
カインが顔を上げた時、彼女の頭がかくりと傾いた。光が乱れ、レミは慌てて目を開く。
「あ……私、今……寝ちゃってた……?」
瞬きをしても、瞼が落ちてくる。それでも両手は傷へ向けられたままだった。
「ごめんなさい。昨日、あんなに寝たのに……」
「まだ本調子じゃねぇんだろ。もういい」
「大丈夫。あと少しだから」
力を込め直そうとした手首を、カインが掴んだ。
「終わりだ」
「でも、最後まで……」
「俺はもう動ける。お前が倒れるまで治してほしいなんて、思ってねぇよ」
レミは彼を見つめた。まだ治せるところがあるはずだと、意識が傷へ引かれる。けれど、手首を包む温もりと、こちらを案じる眼差しに、ようやく肩の力が抜けた。
「……うん。分かった」
治癒へ向けていた意識を解くと、掌の光が細くなり、消えた。
途端に腕が重く下がり、身体が前へ傾く。カインは肩を支え、彼女の両手を膝へ戻した。
「無茶させて、悪かった」
礼を言えばいい。おかげで楽になったと笑えばいいのに、顔を見ていると、昨夜さらした弱さまで思い出してしまう。
彼女の優しさに、どこまで甘えていいのか分からなかった。
「……出発前に、荷物を確かめとけよ」
「あっ、カイン……」
呼ぶ声を背に、ジャケットを羽織って病室を出た。
レミは下ろした手を見つめた。
治療の途中で居眠りなどしたから、呆れられたのだろうか。少しでも力になりたかったのに、うまくいかなかった。
肩を落としたところへ、再び重い眠気が押し寄せる。床が遠ざかるような感覚に、慌ててベッドの縁を掴んだ。
(今、反省したばかりなのに……)
「しっかりしなきゃ……」
首を振って目を開け直すと、扉が鳴った。
「やぁ。大きな溜息をついて、どうしたんだい?」
フェイが戻ってきたところだった。
「精算、終わったの?」
「ああ。いつでも出られるヨ。カインは?」
「先に下りていったよ」
リシェイも荷物を抱え、「アタシも下で待ってる」と部屋を出た。フェイは椅子を引き寄せ、レミのそばへ座る。
二人きりになると、レミは頭を下げた。
「本当にありがとう。ここの先生から聞いたの。最初の手当てがよかったから、助かったんだって」
「本職ですから」
気取って胸へ手を当てた後、フェイは彼女の顔を窺った。
「まだ眠そうだね」
「ちょっと、ぼんやりしちゃって……」
「治療もしたんでしょ? 出るまでは座ってな。荷物は持つから」
礼を言って頷くと、彼は椅子の背へ身体を預けた。
「ところでサ。あの猪突猛進単細胞クン、何か喋った?」
「猪突…………た、単細胞……?」
「カイン。前しか見えない猪で、考え始めると黙り込む。面倒な男だよネ」
「それは、酷いよ……」
困った顔をされ、フェイは肩をすくめた。
「何があったのか聞いても答えないんだ。リシェイに探りを入れたら、あの子まで暗くなっちゃってさ」
普段なら悪態の一つも返ってくるのに、今回は目を逸らすばかりで、取りつく島がなかった。
「レミちゃんになら、少しは話すかと思ったんだけど」
「私なんかより、フェイたちの方が……」
長い年月を共に過ごし、背中を預け合ってきた仲間なのだ。自分は助けられるばかりで、彼について知らないことも多い。
それでも、見てきたものはあった。
「いつか話してくれると思うよ。カインは、フェイもリシェイも大好きだもの」
「……はい?」
意外な言葉に、フェイが眉を上げる。
「本人が聞いたら、すごい顔するだろうネェ」
「でも、みんなといる時、心から楽しそうに笑ってたよ。嫌いな人の前では、あんなふうに笑えない。……それは、私にも分かるから」
気を許せる人と過ごす中で、笑顔は自然にこぼれるのだと知った。カインが皆へ向ける表情には、そうした温かさがあった。
「本当は話したいこともあるんじゃないかな。でも……カインは繊細だから」
「繊細ぃ!?」
フェイが吹き出した。
「あの男を評する時に、まず出てこない言葉だネ」
「そんなこと、ないと思うんだけどな……」
「まあ、傷つくところは傷つくんだろうけどさ。何も言わないんじゃ、こっちも分からないな」
笑いを収めた声に、わずかな苛立ちが混じった。
放っておきたいのではないのだろう。力になりたくても、手掛かりさえ渡してもらえないことに困っているのだ。
「……話せるようになるまで、待ってあげてほしいの」
「そう言われちゃ、無理に聞けないネェ」
フェイは息を吐き、両腕を伸ばした。
「街を出て風に当たれば、少しは気分も変わるかな。じっとしてるの、苦手な奴だし」
「……うん」
頷きながらも、レミの胸には引っかかるものが残った。
昨夜のカインは、ただ気分が沈んでいるだけではなかった。誰にも会いたくないと言いながら、立ち去ろうとした手を掴み、独りにはなりたくないと声を絞った。
その矛盾を、レミはおかしいと思わなかった。
人の目が怖い。
けれど、誰の目にも留まらなくなるのは、もっと怖い。
抱えている過去は違っても、その孤独だけは知っていた。だから、話せなくてもそばにいていいのだと伝えたかった。
傷を治せるからでも、役に立てるからでもなく、カイン自身がそうしてくれたように。
レミは膝の上の手を、そっと握り直した。
***
玄関ホールでは、カインが壁に背を預けて待っていた。
少し離れた場所にリシェイが立ち、荷物の紐を結び直している。こちらを見ようとしない横顔に、カインも声をかけられなかった。
以前なら、待ちくたびれたとか、腹が減ったとか、何かしら話していたはずだ。その何でもない会話の始め方が、今は分からない。
昨夜、レミのそばでようやく息ができた。その温もりは覚えているのに、リシェイと二人きりになると、また胸が強張った。
何を見られたのか。
どう受け取られたのか。
確かめるのが怖くて、どうでもいい話すらできなかった。
視線を向けると、リシェイが顔を上げた。目が合いかけた途端、彼女は気まずそうに俯く。カインも顔を背けた。
朝の光が玄関の床へ伸び、外では荷車や旅人が行き交っている。これから、また四人で歩き出す。
だが、すぐ隣にいるはずのリシェイへ届く一言が、今のカインには見つからなかった。




