49. 写真の中の少女
深い森に幾筋もの木漏れ日が差す中を、蜂蜜色の長髪を揺らす青年が歩いていた。
腰には高純度の魔水晶を埋め込んだ装飾剣を帯び、胸元では、傷だらけの金色のペンダントが鈍い光を返している。
端整な横顔に落ちる翳りは、木々の影だけではなかった。
あの時、なぜ自分は剣を引いたのか。その問いが、歩き続けても頭から離れなかった。
「……あの一族を憎むことすら、お前は望まないというのか」
答えのない問いを呟くと、代わりに、あの男の叫びが蘇った。
――俺たちは仲間を……レミを救わなきゃならねぇんだ!
胸の奥で、怒りが煮え立った。
その名を呼ぶな。
お前のような化け物が、誰かを救うなどと口にするな。
風に揺られた一枚の葉が、目の前へ舞い落ちる。シンの手が柄に触れた次の瞬間、葉は二つに裂け、鞘へ戻る白銀の刀身を木漏れ日が照らした。
あの男も、こうして斬るはずだった。何度も思い描き、そのためだけに研ぎ澄ませてきた剣が、ようやく仇へ届いたというのに。
「レティシアを奪った貴様らが……何を護るというのだ……」
吐き捨てたところで、ふいに足を止めた。
「……いつまで隠れている」
木々の間には、六つの気配があった。殺気も漏れ出すエーテルも隠しきれておらず、こちらの出方を窺っているつもりなのだろう。量だけで強さは測れないが、流れにこれほど無駄があれば、力量を読むのは容易かった。
やがて姿を現したのは、不揃いの剣や錆びたナイフを持つ男たちだった。人目のない森を狩場にしている野盗らしく、シンを囲むと品定めするように笑った。
「何用だ」
「何用、はねぇだろぉ。貴族様みてぇなお綺麗なにーちゃんよ」
「……くだらん。失せろ」
「おい、その剣! とんでもねぇ値打ちモンじゃねぇか!」
男たちの視線が、腰の装飾剣へ集まった。確かに、埋め込まれた魔水晶だけでも高価な品だ。装飾を剥いで売れば、彼らには十分すぎる金になるのだろう。
だが、この剣の価値は、そんなものではない。
「……だったらどうだと言う」
「そこに置いて、着てるモンも脱いで失せろってんだよ!」
男たちが一斉に襲いかかった。
シンは先頭の刃を半身でかわし、通り過ぎる背へ掌を向けた。凝縮した衝撃が弾け、男の身体が後続を巻き込んで吹き飛ぶ。その間にも横から迫った剣を難なく外し、次の一撃を放つと、間合いを詰める暇さえ与えず、三人、四人と地面へ沈めていった。
殺すまでもなかった。己の力量も測れぬ愚か者を相手に、この刃を汚す必要などない。
五人目が転がった時、シンの右手に痺れが走った。
術は終えているというのに、腕の内側ではまだエーテルが脈打っている。シンは顔に出さず指を握り込み、乱れかけた流れを鎮めながら、残る一人を見据えた。
「命までは取らん。気が変わらぬうちに失せろ」
男の膝は震えていた。
逃げればよいものを、恐怖に追い立てられるようにナイフを振り上げ、上ずった声を張り上げる。
「ちっ……ちくしょうっ!」
シンが掌をかざした、その時だった。
「まだ終わってねぇぞ!」
背後で、倒した一人が身を起こした。前からナイフ、後ろから剣が迫るが、その踏み込みも刃筋も、脅威にはならなかった。
シンは二つの刃の間をすり抜け、身体には触れさせなかった。
――だが、身をかわした勢いでペンダントが宙へ跳ね、その鎖にナイフの切っ先が引っかかった。
胸元へ右手を伸ばしたものの、痺れた指は僅かに遅れた。鎖を捉えるより早く、細い金属が引き裂かれる。
金色のペンダントが、宙を舞った。
シンは目を見開き、その軌跡を追った。
小さな光は草むらへ落ち、枯れ葉の下へ消えていく。
胸元へ触れた指が、空を掴んだ。
つい先ほどまであった重みがない。確かめるようにもう一度探っても、指先に触れるものは衣服だけだった。
あれは、ただの装飾品ではない。
失った妹へ触れられる、最後の場所だった。
あの子が生きていた証であり、守れなかった過去を、かろうじてこの世へ繋ぎ止めてくれるものだった。
それが薄汚れた刃に断ち切られ、土と枯れ葉の下へ消えた。
胸の内側を握り潰されたような痛みに、息が詰まった。指先が冷え、視界の端が暗く狭まっていく。
失う。
また、失う。
あの日と同じように、何もできないまま奪われる。
「……貴様……」
掠れた声が漏れた。ナイフを握った男が体勢を立て直し、再び刃を振り上げる。
シンの目には、鎖を断った刃だけが映っていた。
あれが、レティシアの残したものに触れた。奪い、壊し、自分の手の届かないところへ追いやったのだ。
「何を……傷つけたのか……分かっているのか」
踏み込もうとした男の足が止まった。
青い瞳から冷静さが消え、凍てついていた眼差しの奥で、凄まじい憎悪が燃え上がっていた。唇が震え、食いしばった歯の間から、押し殺せない息が漏れる。
右手に再び痺れが走ったが、構わず剣の柄を掴んだ。
「……貴様らは、何も知らずに……!」
値踏みし、奪おうとした。
自分に何が残されているのかも知らず、たった一つの形見にまで手を伸ばした。
「それに触れたな」
男が後ずさった。
「貴様が触れていいものではない!!!」
白銀の刃が、滑るように鞘を離れた。
鋭い風圧が森を駆け抜け、傍らの巨木に斜めの線が走る。一拍遅れて幹の奥が低く軋むと、切断面を滑った太い幹が、ゆっくりと傾き始めた。
枝が擦れ合い、鳥たちが一斉に飛び立ったが、男たちは動けなかった。頭上で枝の折れる音がして、ようやく顔を上げた時には、巨木の影が彼らを覆っていた。
「ひっ……! うわああぁっ!!」
轟音とともに大木が地面を叩き、土砂と枯れ葉が噴き上がった。男たちは我に返って倒れた仲間を引きずり起こしたが、土埃の向こうで再び白銀の刃が持ち上がると、その場に凍りついた。
「…………失せろ」
低く絞り出した声が、怒号へ変わった。
「失せろと言っている!!!」
男たちは悲鳴を上げ、仲間を担いで逃げ出した。枝を折り、根に躓きながら、それでも一度も振り返らず、森の奥へ消えていく。
足音が遠ざかっても、シンは剣を下ろさなかった。逃げた者たちの気配が薄れるまで土埃の向こうを睨み続け、ようやく握り締めた指を緩めたところで、右腕の痺れが一気に押し寄せた。
だが、それ以上に耐え難かったのは、胸元に何も触れないことだった。
草むらへ視線を走らせると、枯れ葉の間で金色の光が瞬いた。
まだここにある。
失われてはいない。
その事実に胸の奥が僅かに緩み、シンは剣を鞘へ戻すと、足早に歩み寄った。
拾い上げたペンダントを両手で包み、その小さな重みを確かめる。もし見つからなければ、踏み潰されていたら――そこまで考えただけで、指に力がこもった。
表面をなぞっても、新たな傷はなかった。鎖こそ切れていたが、形見そのものは無事だった。
張り詰めていた息が長くこぼれた。それでも顎の震えは止まらず、掌の中の金色を、しばらく見つめ続けた。
自分が守れなかった妹の、最後の証。
これだけは、誰にも奪わせない。
情けなどかけるから、こうなる。この連中にも、あの男にも、余計な猶予を与えなければよかったのだ。
あの時見えた妹の姿も、失うことを恐れる自分の甘さが生んだ幻にすぎない。そう結論づけなければ、泣きながら首を振るあの顔を、また思い出してしまう。
――もう迷わない。
立ち塞がるものは、すべて斬り捨てる。
そう決めて踏み出しかけた途端、右腕が強く引き攣った。指先から始まった痺れは、今や肘の奥まで広がっていた。
あの男の魔力波形は、手に入れた。
エーテルの波形は指紋のように一人ずつ異なる。顔面を掴んだ際、発動中の『真紅の瞳』から直接取り込むことで、その特徴を記録できた。同じ気配を捉えれば、今度は見失わずに追えるだろう。
だが、その代償は見込みを超えていた。
取り込んだのは、記録に必要なごく僅かな量だ。その程度なら処理できると踏んでいたが、体内に残ったものは、今も自身のエーテルへ干渉し続けている。
シンは慎重に力を巡らせ、残る邪気を少しずつ抜こうとした。
ところが、元の流れを取り戻そうとした途端、自身のエーテルまで激しく乱れた。右腕の内側に焼けるような痛みが走り、即座に流れを断つ。
「……この程度で……」
己の力の源流を辿れば、反応することは承知していた。それでも、これほど深く干渉するとは思わなかった。
力を失ったわけではない。野盗を退け、巨木を断つこともできる。
問題は、使い終えた後にも流れが収まらず、大きく力を巡らせるほど乱れが増すことだった。先ほどの一振りで、症状は明らかに悪化している。
あの男との戦いで同じことが起これば、一瞬の遅れが致命傷になりかねない。
まずは、この異常を鎮めなければならなかった。
「……忌まわしい、悪魔の力め……」
記録は残っている。追撃を遅らせるのは、次こそ確実に仕留めるためだ。
その間も、一族の調査まで止める必要はない。ほかの者の足取りを追い、手元の記録を洗い直せば、まだ見つけられるものがあるはずだった。
こうしている間にも、復讐のためにできることは残されている。
木漏れ日が、掌の金色を照らした。
シンは千切れた鎖を指で辿り、ペンダントへ目を落とした。留め具の外れたロケットが掌の中で開き、内側に収められた古びた肖像写真が現れる。
「……レミ、か」
幼い少年と少女が、寄り添って写っていた。
蜂蜜色の髪と、澄んだ青い瞳を持つ少年は、幼い日のシンだった。
その隣では、少女が花の咲くような笑顔を浮かべている。
「……レティシア……、レミ……」
シンと同じ、青い宝石のような瞳。
そして、月光のように輝く銀色の髪。
――失われた妹は、その姿で今も笑っていた。
これにて4章終了です。
読んでいただき、ありがとうございます。
引き続き5章もお楽しみいただければ幸いです。
また夜ごろ更新できたらしたいと思います。




