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EDGE ―光と闇の約束―  作者: 岩梨
第四章 交錯する宿命
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48. 独りにはなりたくない


三十分ごとに時を告げる柱時計を、何度聞いただろう。


 

 カインは病院の休憩所で、一人でベンチに座っていた。


 窓の外はすっかり暗く、消毒薬の匂いの中を、時折看護師の足音だけが通り過ぎていく。


 何も考えずに済むなら、身体を動かしていたかった。だが、姿勢を変えるだけでも全身が軋む。

 それ以上に、剣を握る自分を想像すると、腹の底が冷えた。



 ――また、あの衝動が目を覚ましたら。



 人を傷つけ、壊すことに喜びを覚えた感覚が、まだ身体の奥に残っている。


 誰にも見られたくなかった。


 特に、レミには。


 純粋で優しい彼女には、恐ろしい存在だと思われたくない。けれど、彼女にだけは見つけてほしいという矛盾した願いが、胸の中で燻っていた。



「……カイン」



 細い声に、弾かれたように顔を上げた。


「レミ……」


 薄手の掛け布を肩に羽織り、彼女が歩いてきた。足取りは頼りないものの、顔色は戻っている。


 自分の足で、ここまで来られるほど回復したのだ。


 笑って迎えてやりたいのに、頬がうまく動かなかった。それでも、彼女が生きてここにいるという事実に、張り詰めていた意識が緩んだ。


「歩いて平気なのか」

「うん。……カインが戻ってこないから、心配で」


 自分を探しに来てくれた。そのことが嬉しくて、同時に、こんな姿を見せるのがつらかった。


 レミは目の前へ来ると、包帯だらけの身体を見つめた。


 目を覚ました時、リシェイは泣きながら抱きつき、フェイもほっとした顔をしていた。けれど、カインだけはいなかった。

 怪我をして休んでいるから、そっとしておいてほしい。そう言われて待っていたものの、どうしても顔が見たくなったのだという。


「……こんなに、酷い怪我だったなんて……」


 身を屈め、包帯の巻かれた手を両手で包む。慎重な触れ方に、カインはかえって目を逸らした。


「どうして……? 何があったの……!?」

「……別に」

「『別に』なんて怪我じゃないよ!」

「喧嘩して、負けた。それだけだ」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 自分が何をしようとしたのか、何を口にしたのか。その一つでも話せば、今この手を包んでいる指まで離れていく気がした。


 レミは問いを重ねず、俯いた顔を見上げた。


 緑の瞳に、暗い赤みが残っている。

 以前も見た色だった。本当は自分を見下しているのだろうと、作り笑いで誤魔化すなと、血を吐くように叫んだ時の色。


 今は誰とも戦っていない。それなのに、まだ赤みが引かない。

 身体の傷だけではないのだと気づき、レミは唇を結んだ。



 ぽつりと、カインの手へ雫が落ちる。



 顔を戻すと、青い瞳から涙がこぼれていた。



「……なんで、お前が泣いてんだよ」

「だって……カイン、ずっと……」


 続きが言えず、レミは首を振った。


 苦しいのだろう。それでも誰にも話せず、ここに座っていた。

 いつも助けてくれる人が傷ついているのに、今はその手を握ることしかできない。


 カインは困り果てて彼女を見た。


 自分が生死の境をさまよったばかりなのに、目を覚ませば他人の心配をしている。それも、声を堪えながら、自分のために泣いていた。


 この人を泣かせたくない。


 そんな思いに突き動かされ、包帯の指を頬へ伸ばした。布が肌を擦らないよう、そっと涙を拭う。


「泣くなって。怪我して、泣きたいくらい辛ぇのは俺の方だぞ」

「……そうだよね。ごめんなさい」

「謝ることじゃねぇけどさ……」


 あまりに素直な返答に、わずかにカインの口元が緩んだ。


「お前も病み上がりだろ。人の心配してねぇで、寝てろよ、半死人」

「今のカインにだけは、言われたくないなぁ……」


 涙の残る顔で返され、カインは小さく息を漏らした。


 笑えたことに、自分で驚いた。

 彼女の声を聞き、温かな手に触れているだけで、荒れていた心が少しずつ静まっていく。


 レミも安心した様子で、隣へ腰を下ろした。


「怪我、酷いところだけでも治そうか。夜になって、もっと辛くなったら……」

「駄目だ」

「少しだけなら――」

「お前が倒れたばかりだろ。今は使うな」


 きつい言い方に肩を揺らしながらも、レミは静かに頷いた。


「……うん。分かった」


 下ろされた手を見て、胸が軋んだ。傷つけたいわけではない。ただ、せっかく戻ってきた彼女が、自分のためにまた消耗するのだけは嫌だった。


「俺の方は、手当ても済んでるから」

「うん……。じゃあ、ちゃんと休んでね」


 レミが腰を浮かせた。


 隣の気配が離れかけた瞬間、カインはその手を掴んでいた。


「……カイン?」


 咄嗟の動きに、自分でも戸惑った。

 寝ていろと言ったのは自分だ。彼女を休ませるなら、ここで離さなければならない。けれど、一度知った温もりがなくなると思うと、指を緩められなかった。


「……悪い。もう少し、ここにいてくれ」

「怪我、治す?」

「違う。何もしなくていい。ただ……」



 近くにいてほしい。



 誰にも会いたくなくて部屋を出たくせに、今は彼女が立ち去ることが怖かった。勝手すぎると分かっていても、引き留めずにはいられない。


「一人になりたいのかと思って……」

「……そう、思ったよ」


 何があったのかと尋ねられたくなかった。誰とも目を合わせずに済む場所へ逃げたかった。

 だが、時計の音を聞いているうちに、皆のいる部屋へ戻るきっかけまで失ってしまった。


「一人には、なりたかった。けど……」


 握った手を見つめ、声を絞り出す。


「……独りには、なりたくねぇんだ……」


 喉の奥が熱くなった。


 自分で離れたくせに、誰かには見つけてほしい。見つけられれば、また本当のことを隠そうとする。その身勝手さが情けなく、顔を上げられなかった。


 レミはしばらく黙っていたが、やがて隣へ座り直した。


「……うん」


 それだけ答え、掴まれていた手を握り返す。


 何があったのかとは聞かなかった。元気を出してと求めることもなく、肩の掛け布を直し、そのままそばへ落ち着いた。



 柱時計の針が、静かに時を刻む。


 何も話さなくていいのだと分かるまで、少しかかった。黙っていても彼女は困った顔をせず、ときどき手を確かめるように指を動かすだけだった。

 そのたびに、胸へ食い込んでいたものが緩んでいく。


 カインは、そっと横顔を見た。

 頬には涙の跡が残っていた。自分を探しに来て、泣いて、それでも帰らずにいる。


 彼女は、自分の中にあるものをすべて知っているわけではない。けれど今、何も言えない自分のそばにいることを選んでくれた。その事実だけは、疑わずに受け取れる気がした。



 この手を離したくない。



 思いがけないほど強く浮かんだ願いに、カインは目を伏せた。

 守るべき相手へ、自分の弱さまで背負わせてはいけない。それでも今だけは、この優しさに甘えていたかった。


「……寒くねぇか」

「私は平気。カインは?」

「大丈夫だ」


 レミが少し身を寄せた。

 肩が触れ、その近さに鼓動が変わる。


 傷だらけの身体が、人の気配に安心しているだけだと思おうとした。

 けれど、今ここにいてほしいと願ったのは彼女だった。目を覚ました姿を見ただけで息ができ、涙を見れば、自分の苦しさより先に拭ってやりたいと思ってしまった。


 それを何と呼べばいいのか、まだ考えたくなかった。

 名前をつけた途端、失うのが怖いものがまた増えてしまう気がしたから。


「……少し、目を閉じてもいいか」

「うん。眠れそう?」

「分かんねぇ。……けど、お前がいるなら」


 口をつぐむと、レミは何もからかわずに頷いた。


「ここにいるよ」


 その言葉が、ひどく嬉しかった。


 カインはゆっくりと瞼を閉じた。傷は疼き、起きたことも消えはしない。それでも、握り返される手がある間は、あの暗い衝動と一人で向き合わずに済んだ。



 遠くで柱時計が鳴る。



 今度はその音を数えずに、カインは隣の温もりへ、ほんの少しだけ身体を預けた。




お昼ごろ続き更新予定です

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