48. 独りにはなりたくない
三十分ごとに時を告げる柱時計を、何度聞いただろう。
カインは病院の休憩所で、一人でベンチに座っていた。
窓の外はすっかり暗く、消毒薬の匂いの中を、時折看護師の足音だけが通り過ぎていく。
何も考えずに済むなら、身体を動かしていたかった。だが、姿勢を変えるだけでも全身が軋む。
それ以上に、剣を握る自分を想像すると、腹の底が冷えた。
――また、あの衝動が目を覚ましたら。
人を傷つけ、壊すことに喜びを覚えた感覚が、まだ身体の奥に残っている。
誰にも見られたくなかった。
特に、レミには。
純粋で優しい彼女には、恐ろしい存在だと思われたくない。けれど、彼女にだけは見つけてほしいという矛盾した願いが、胸の中で燻っていた。
「……カイン」
細い声に、弾かれたように顔を上げた。
「レミ……」
薄手の掛け布を肩に羽織り、彼女が歩いてきた。足取りは頼りないものの、顔色は戻っている。
自分の足で、ここまで来られるほど回復したのだ。
笑って迎えてやりたいのに、頬がうまく動かなかった。それでも、彼女が生きてここにいるという事実に、張り詰めていた意識が緩んだ。
「歩いて平気なのか」
「うん。……カインが戻ってこないから、心配で」
自分を探しに来てくれた。そのことが嬉しくて、同時に、こんな姿を見せるのがつらかった。
レミは目の前へ来ると、包帯だらけの身体を見つめた。
目を覚ました時、リシェイは泣きながら抱きつき、フェイもほっとした顔をしていた。けれど、カインだけはいなかった。
怪我をして休んでいるから、そっとしておいてほしい。そう言われて待っていたものの、どうしても顔が見たくなったのだという。
「……こんなに、酷い怪我だったなんて……」
身を屈め、包帯の巻かれた手を両手で包む。慎重な触れ方に、カインはかえって目を逸らした。
「どうして……? 何があったの……!?」
「……別に」
「『別に』なんて怪我じゃないよ!」
「喧嘩して、負けた。それだけだ」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
自分が何をしようとしたのか、何を口にしたのか。その一つでも話せば、今この手を包んでいる指まで離れていく気がした。
レミは問いを重ねず、俯いた顔を見上げた。
緑の瞳に、暗い赤みが残っている。
以前も見た色だった。本当は自分を見下しているのだろうと、作り笑いで誤魔化すなと、血を吐くように叫んだ時の色。
今は誰とも戦っていない。それなのに、まだ赤みが引かない。
身体の傷だけではないのだと気づき、レミは唇を結んだ。
ぽつりと、カインの手へ雫が落ちる。
顔を戻すと、青い瞳から涙がこぼれていた。
「……なんで、お前が泣いてんだよ」
「だって……カイン、ずっと……」
続きが言えず、レミは首を振った。
苦しいのだろう。それでも誰にも話せず、ここに座っていた。
いつも助けてくれる人が傷ついているのに、今はその手を握ることしかできない。
カインは困り果てて彼女を見た。
自分が生死の境をさまよったばかりなのに、目を覚ませば他人の心配をしている。それも、声を堪えながら、自分のために泣いていた。
この人を泣かせたくない。
そんな思いに突き動かされ、包帯の指を頬へ伸ばした。布が肌を擦らないよう、そっと涙を拭う。
「泣くなって。怪我して、泣きたいくらい辛ぇのは俺の方だぞ」
「……そうだよね。ごめんなさい」
「謝ることじゃねぇけどさ……」
あまりに素直な返答に、わずかにカインの口元が緩んだ。
「お前も病み上がりだろ。人の心配してねぇで、寝てろよ、半死人」
「今のカインにだけは、言われたくないなぁ……」
涙の残る顔で返され、カインは小さく息を漏らした。
笑えたことに、自分で驚いた。
彼女の声を聞き、温かな手に触れているだけで、荒れていた心が少しずつ静まっていく。
レミも安心した様子で、隣へ腰を下ろした。
「怪我、酷いところだけでも治そうか。夜になって、もっと辛くなったら……」
「駄目だ」
「少しだけなら――」
「お前が倒れたばかりだろ。今は使うな」
きつい言い方に肩を揺らしながらも、レミは静かに頷いた。
「……うん。分かった」
下ろされた手を見て、胸が軋んだ。傷つけたいわけではない。ただ、せっかく戻ってきた彼女が、自分のためにまた消耗するのだけは嫌だった。
「俺の方は、手当ても済んでるから」
「うん……。じゃあ、ちゃんと休んでね」
レミが腰を浮かせた。
隣の気配が離れかけた瞬間、カインはその手を掴んでいた。
「……カイン?」
咄嗟の動きに、自分でも戸惑った。
寝ていろと言ったのは自分だ。彼女を休ませるなら、ここで離さなければならない。けれど、一度知った温もりがなくなると思うと、指を緩められなかった。
「……悪い。もう少し、ここにいてくれ」
「怪我、治す?」
「違う。何もしなくていい。ただ……」
近くにいてほしい。
誰にも会いたくなくて部屋を出たくせに、今は彼女が立ち去ることが怖かった。勝手すぎると分かっていても、引き留めずにはいられない。
「一人になりたいのかと思って……」
「……そう、思ったよ」
何があったのかと尋ねられたくなかった。誰とも目を合わせずに済む場所へ逃げたかった。
だが、時計の音を聞いているうちに、皆のいる部屋へ戻るきっかけまで失ってしまった。
「一人には、なりたかった。けど……」
握った手を見つめ、声を絞り出す。
「……独りには、なりたくねぇんだ……」
喉の奥が熱くなった。
自分で離れたくせに、誰かには見つけてほしい。見つけられれば、また本当のことを隠そうとする。その身勝手さが情けなく、顔を上げられなかった。
レミはしばらく黙っていたが、やがて隣へ座り直した。
「……うん」
それだけ答え、掴まれていた手を握り返す。
何があったのかとは聞かなかった。元気を出してと求めることもなく、肩の掛け布を直し、そのままそばへ落ち着いた。
柱時計の針が、静かに時を刻む。
何も話さなくていいのだと分かるまで、少しかかった。黙っていても彼女は困った顔をせず、ときどき手を確かめるように指を動かすだけだった。
そのたびに、胸へ食い込んでいたものが緩んでいく。
カインは、そっと横顔を見た。
頬には涙の跡が残っていた。自分を探しに来て、泣いて、それでも帰らずにいる。
彼女は、自分の中にあるものをすべて知っているわけではない。けれど今、何も言えない自分のそばにいることを選んでくれた。その事実だけは、疑わずに受け取れる気がした。
この手を離したくない。
思いがけないほど強く浮かんだ願いに、カインは目を伏せた。
守るべき相手へ、自分の弱さまで背負わせてはいけない。それでも今だけは、この優しさに甘えていたかった。
「……寒くねぇか」
「私は平気。カインは?」
「大丈夫だ」
レミが少し身を寄せた。
肩が触れ、その近さに鼓動が変わる。
傷だらけの身体が、人の気配に安心しているだけだと思おうとした。
けれど、今ここにいてほしいと願ったのは彼女だった。目を覚ました姿を見ただけで息ができ、涙を見れば、自分の苦しさより先に拭ってやりたいと思ってしまった。
それを何と呼べばいいのか、まだ考えたくなかった。
名前をつけた途端、失うのが怖いものがまた増えてしまう気がしたから。
「……少し、目を閉じてもいいか」
「うん。眠れそう?」
「分かんねぇ。……けど、お前がいるなら」
口をつぐむと、レミは何もからかわずに頷いた。
「ここにいるよ」
その言葉が、ひどく嬉しかった。
カインはゆっくりと瞼を閉じた。傷は疼き、起きたことも消えはしない。それでも、握り返される手がある間は、あの暗い衝動と一人で向き合わずに済んだ。
遠くで柱時計が鳴る。
今度はその音を数えずに、カインは隣の温もりへ、ほんの少しだけ身体を預けた。
お昼ごろ続き更新予定です




