46. 消えない憎悪の炎
カインは、呆然と一部始終を見守っていた魔工師から、出来上がった解毒薬の小瓶を受け取った。確かに手の中にあることを確かめ、割らないよう慎重に握り込む。
「……早く持っていってやろう。レミを……助けなきゃな」
「……うんっ!」
リシェイの肩を借りて立ち上がると、腹部の傷が引き攣れた。命拾いした安堵はある。
それでも、手も足も出ずに敗れた事実が、傷とは別の痛みとなって胸に残っていた。
世界には、自分より強い者などいくらでもいるだろう。だが、同じ世代の男に、ここまで圧倒的な差を見せつけられたのは初めてだった。
己の内にある狂気を抑えることに必死だったとはいえ、それだけで片付けられる敗北ではない。
カインは血の滲む腹部を押さえ、いまだ大木の前から動かない剣士を見つめた。
「……シン」
何を言えばよいのか、自分でも分からなかった。今ここで身の潔白を訴え直したところで、聞き入れてもらえるとは思えない。
それでも呼びかけずにはいられなかったカインの耳に、震える声が届いた。
「……なぜ、殺されなければならなかった……。尊敬する両親も……たった一人の妹も……」
「妹……?」
問い返しても、シンはこちらを見なかった。俯いたまま握り締めた拳が震えていて、先ほどまで自分を追い詰めていた男と同じ人物だとは思えないほどだった。
それほど大切だったのだろう。
その澄んだ青い瞳が、憎しみに濁ってしまうほどに。
本当に、自分と血の繋がった何者かが、この男からすべてを奪ったのだろうか?
答えの出ない問いにカインが目を伏せると、傍らのリシェイが、ためらいながら口を開いた。
「……レティシアって、妹さんなの……?」
「……そうだ。たった一人の……大切な妹だった。俺にとっては、何にも代えられない……」
最後まで言い切れず、シンは唇を噛んだ。
思い出すのは、いつも自分を慕って笑いかけてくれた顔だった。名を呼べば振り向き、手を差し出せば握り返してくれた。そんな当たり前のことが、これからも続くと信じていた。
多くを望んだわけではない。ただ、あの子に幸せになってほしかった。大人になっても、いつか自分の手を離れても、あの笑顔を失わずにいてくれれば、それでよかったのに。
「俺はただ……あの子に、幸せになってほしかっただけだ……!」
伏せた目から大粒の涙が零れ、握り締めた拳が大木を打った。
「何の罪もない妹が、なぜ殺されなければならなかった! なぜ、あの子が奪われなければならなかったんだ!」
答える者などいないと分かっていた。それでも問わずにはいられず、シンは拳を幹へ押しつけたまま、喉の奥から声を絞り出した。
「……くそぉぉッッ!!!」
リシェイは、その背中を見つめていた。
恐ろしい殺意の奥にあったものが、ようやく少しだけ分かった気がした。カインを失いたくないと自分が叫んだように、この男にも、失いたくない家族がいたのだ。
「……アタシだったら、お兄ちゃんに自分を大切にしてほしいって思う」
シンの肩が、僅かに動いた。
「今のシンを見たら、きっと悲しむよ。自分のせいでお兄ちゃんが苦しんでるって……妹さんだって、そんなの――」
「貴様に何が分かる!」
鋭い声に、リシェイは息を呑んだ。
「あの子が何を望むかなど、知ったように語るな!!」
言い聞かせられるまでもなかった。
先ほどから、泣きながら首を振る妹の顔が、頭を離れないのだ。それでも剣を捨てることなどできない。
何もかも奪われた自分には、もう、この憎しみしか残されていなかった。
「奴らは己の欲望のために、すべてを破壊した……!優しかった両親を八つ裂きにし、何もかもを焼き尽くした!」
胸元の傷だらけのペンダントを握り締めると、その硬い感触が掌へ食い込んだ。
「さぞ愉しかっただろうな。美しかった故郷を焦がし、人々の絶望を聞くことが!!」
カインは、何も言えなかった。
知らないと告げることはできる。自分がしたことではないと、何度でも叫べる。だが、ほんの少し前まで、己の中にあったものを忘れることはできなかった。
どう壊せば苦しむのかと考え、力を振るうことを楽しんでいた。その衝動と、シンの語る惨状が重なってしまうのが、どうしようもなく恐ろしかった。
「俺たち兄妹が味わった以上の地獄を見せてやる!!」
リシェイは俯いた。自分の言葉では、この男の苦しみを取り除くことなどできない。何か言おうとしても、先ほど浴びせられた声を思い出し、唇を結ぶしかなかった。
重苦しい沈黙の後、シンは大木から装飾剣を引き抜いた。鞘へ収める音が、やけにはっきりと響く。
カインがその手元を見た、次の瞬間だった。
右手が伸び、顔面を掴まれた。
「――っ!?」
退く間も、腕を払う間もなかった。掌から高密度の魔力が流れ込み、全身へ激痛と痺れが駆け抜ける。膝から力が抜けたが、顔を固定されて倒れることすらできず、カインはシンの手首を掴んでもがいた。
「うあああぁーーっ!!」
「カイン! 何するの、やめて!」
リシェイの悲鳴にも、シンは手を緩めなかった。
掌との間に赤黒い光が滲み、カインの体内から細い流れとなって吸い上げられていく。その禍々しさを確かめるように、青い瞳が細くなった。
「……あの日と、酷似した波形だ……」
シンは低く呟くと、ようやく手を離した。振り払うように突き放され、カインの身体が傾く。リシェイが咄嗟に支えたが、踏ん張る力がなく、そのまま二人で膝をついた。
カインは荒い息を吐き、小瓶を握った手を胸へ引き寄せた。割れていない。それだけを確かめ、霞む視界を上げる。
「……何を……しやがった……!?」
「貴様の魔力波形を刻んだ。同じ気配を捉えれば、今度こそ見失わん」
シンはそう告げ、森の奥へ歩き出した。
見逃すのではない。
許したのでもない。
今は、剣を振り下ろせなかった。それだけだった。だが、その迷いを言葉にすれば、辛うじて繋ぎ止めているものまで崩れてしまいそうで、代わりに憎悪を口にした。
「……次に会う時は、必ず殺す」
一度だけ振り返った青い瞳には、再び冷たい殺意が宿っていた。
カインは息を詰めたまま、その姿を見送った。蜂蜜色の長髪が木々の向こうへ消え、やがて足音まで聞こえなくなっても、誰もすぐには動けなかった。
「……見逃してくれたのかな。なんで、急に……」
リシェイの呟きに、カインも答えられなかった。
冷たい青い瞳も、体内の力を吸い上げられた激痛も、最後の宣告も、鮮明に残っている。
なぜ剣を外したのかも、結局何を考えて去ったのかも分からない。
ただ、手元へ目を落とした時、小瓶の中で揺れる解毒薬が見えた。
――レミが待っている。
その事実に、意識が現実へ引き戻された。恐怖も怒りも、敗北の悔しさも消えてはいない。それでも、今はすべてを抱えたまま戻らなければならなかった。
カインは浅くなっていた呼吸を整えた。目の前の敵を倒すことに縛られていた意識が、病院で苦しむ少女へ向かうにつれ、真紅に燃えていた瞳から少しずつ赤みが引いていく。
力を奪われたからではない。荒れ狂う殺意と混乱が、ようやく鎮まり始めていた。
やがて深い緑へ戻った瞳で、カインは森の出口を見た。リシェイの肩を借り、痛む脚へどうにか力を込めて立ち上がる。
「……とにかく、今は戻れる。それで十分だ」
小瓶を握り直し、待っている少女の顔を思い浮かべた。
「……急ぐぞ。レミが待ってる」




